この家族に名前はない
「行ってくるよ、麻里亜」
「行ってらっしゃい、秀一さん」
朝日が差し込むリビングで秀一のネクタイを整えた麻里亜は、穏やかな表情で彼を見送る。秀一とは結婚八年であり、彼は麻里亜にとって誠実な夫であった。
麻里亜は父親が英国人で母親が日本人のハーフ。父は有名カメラマン、母は有名スタイリストである。
彼女の金髪のロングヘアと青い瞳に吸い寄せられるように、多くの男性から彼女は結婚を申し込まれていた。
結局、父親が携わったビジネス雑誌の表紙を飾った樹咲グループの御曹司、次期社長の秀一と見合いを行い結婚に至る。
「あら啓太、オムツかしらね」
二人の間に生まれた啓太は生後五ヶ月。秀一に似て黒髪に黒い瞳が凛々しく、鼻の高さは麻里亜に似たようだ。
「パパは忙しいのよ。毎週のように夜に会食があるのですって。あなたのパパは誰よりも努力しているのよ、外ではね」
そう言いながら啓太のオムツを替え、彼女はさっとメイクを始める。
「今日はこのブルーのワンピースにしようかしら。ねぇ啓太」
啓太がアーと言いながらプレイマットに寝転んでいる。支度が済んだ麻里亜は啓太をバギーに乗せ、マザーズバッグを持って玄関のドアを開ける。
よく晴れた青空に飛行機雲が真っ直ぐと見え、まるで誰かが自分達の元に来てくれるかのよう。
海外製のバギーは日本製のものよりも大きく、乗る子どもも揺れが気にならないため気に入っている。しばらくすると噴水のある公園に到着し、木陰のベンチにいつもの後ろ姿を見つけた。
パーマのかかった茶髪に少しくたびれたジャケットを羽織る男性が、PCを開いて作業をしている。
「隆史さん」
麻里亜の声に振り返る彼。その飾らないくしゃっとした笑顔に何度救われたか。
「やぁ麻里ちゃん。啓太くん」
啓太はきょとんとした表情だが、隆史はそれすらも愛おしいと思い、二人を迎える。
「今日はどんな曲を?」
「クラシックとポップスを融合させたメロディだ。聴いてみるか?」
「ええ」
彼の曲は繊細なメロディラインにピアノの音が響き、終わり方も余韻を残す。
「素敵。あなたの曲を最初に聴けるのが私だなんて」
「麻里ちゃんが聴いてくれるだけで安心。君の耳は正直だからな。で、俺にも正直だもんな?」
「ふふ。私が愛するのはあなただけ」
その時、啓太がアーッと声を上げる。
「お腹が空いたか?」
「離乳食の時間だわ」
「今日は俺の番だよな?」
「よく覚えているわね。啓太のこと」
麻里亜がマザーズバッグから瓶を取り出しスプーンと一緒に隆史に渡す。隆史は慣れた手つきで瓶の蓋を開け、お粥をすくって啓太の口元に持っていく。
「可愛いな」
「ねぇ、今日あの子達はシッターさんに?」
「ああ、家で見てくれている」
「あの子達は啓太を可愛がってくれるのに」
「今日は麻里ちゃんと啓太くんと一緒にいたかった。ただそれだけさ」
麻里亜にとっては至福の時間だ。夫の秀一と過ごす時よりも。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜中の一時を過ぎた頃。静かな足音に、どこか後ろめたさを感じる。秀一はスマートフォンに映る文字を眺めてにんまりとしていた。
「来週また会えるのね、大好き」という言葉と共に、女性の横顔のアイコンが微笑む。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おはよう、麻里亜」
「おはよう、秀一さん。昨日は遅かったのね」
「取引先との商談兼慰労会が長引いてしまってな」
「まぁ大変ね。でも次の社長さんなら仕方ないわね」
「ありがとう麻里亜。君は僕の自慢の妻だ。来月のパーティにエスコートするのが今から楽しみだよ」
「うふふ」
秀一のネクタイを整えながら麻里亜は今日もあの彼に会うことを考える。洋服は何色にしようか、髪はまとめていこうか、靴はスニーカーにしようか、それともスリッポンにしようか。
「行ってくるよ。麻里亜」
「行ってらっしゃい。秀一さん」
バタンとドアが閉まるとすぐに麻里亜は彼に会うための準備をする。啓太はごろんと転がってキッチンまでやって来た。
「今日はよく動くのね。良い天気だからお散歩日和になるわ」
麻里亜はクローゼットからレッドのトップスとベージュのテーパードパンツを取り出す。着替えてから軽くメイクをして髪は後ろで一つにまとめた。啓太がアーと言いながらうつ伏せになっている。
「さぁ行きましょう。今日はきっとあの子達に会えるわ。楽しみね、啓太」
そう言いながら麻里亜は啓太をバギーに乗せてマザーズバッグを持つ。ホワイトのスニーカーを履いて玄関のドアを開けると、爽やかな風が部屋に入ってくる。
いつもの噴水公園に到着すると、双子の女の子達がこちらに向かって走ってきた。
「啓ちゃん! おはよう!」
「かわいい! 啓ちゃん」
「うふふ。リナもレナも元気にしてた?」
「うん!」
「あはは!」
リナとレナはもうすぐ二歳になる双子の女の子であり、啓太のことが大好き。公園で会う時には必ず二人揃ってバギーを覗き込んでいる。
「リナ、レナ。おいで」
「パパー! 啓ちゃんきた!」
パパと呼ばれるのは隆史である。こうして子ども達同士で交流することが麻里亜にとっては一番幸せなのだ。
「麻里ちゃん、俺が啓太くんを見てるからさ。二人と遊んでやってくれるか?」
「もちろん。そのために今日は動きやすい服装で来たのよ?」
「やる気満々だな」
麻里亜はリナとレナの元へ行き、ボール投げで遊んでいた。啓太のバギーを押してベンチに座る隆史。
愛する麻里亜と、麻里亜と同じ金髪に青い瞳を持つ双子の娘。母親と娘達が一緒に過ごせる貴重な時間。
「大きくなったな。啓太ももう少ししたらお姉ちゃん達と一緒に遊べるな」
隆史が啓太にくしゃっとした笑顔を向けると啓太はアーアーと喜んでいた。
「まさかこんなことになるとは思わなかったが……これが俺たち家族の形だよな」
あれは六年ほど前のこと。秀一が四年間の海外駐在となった時に、麻里亜は隆史と出逢った。公園で立ち尽くす姿が美しいが、すぐにでもひび割れ壊れてしまいそうな様子の彼女に隆史が声をかけた。そして隆史が自分の作った曲を聴かせてやると随分と落ち着いたのだった。
音楽プロデューサーである隆史には麻里亜のような美しい女性がここまで落ち込む理由が分からなかった。話を聞いたところ夫が駐在先に別の女性を連れて行くことが分かり、絶望の淵に突き落とされていたようだ。
その彼女の思いを曲で表現した結果、隆史は敏腕プロデューサーとしての地位を得ることができた。
「麻里ちゃんのおかげだ。君がいなければ俺はどうなっていたか」
「私もそう。あなたがいなければ今頃は……」
その夜の一度きりだった。彼女との関係を持ったのは。
しかし、麻里亜の妊娠が分かり秀一の駐在期間中に双子が生まれた。
「あなたとの子どもが欲しい」
そう言う彼女の顔を見て決心した隆史。秀一が帰国するまでの間、二人で双子の子育てに専念した。
やがて秀一が帰って来たあと、麻里亜は秀一との間に第三子となる啓太を産んだ。それでも秀一の態度は以前と変わらず夜も遅いため、こうして昼間に麻里亜と隆史は会っている。
「いつかリナとレナにも本当のことを言う時が来るわ」
そう言っていた彼女は娘達と一緒に過ごす時間をいつも心待ちにしている。
「俺だって啓太くんを本当の息子のように思っているよ」
隆史はそう言って三人の姿を眺めていた。
終わり
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