9.クララ
立てた片膝に肘をついて、サリオンは何か考え込んでいるようだった。
ルクレチアが膝に乗っていたが、アンリは撫でる気にもなれなかった。
「姫を集めるわ」
ベル=エスターが静かに言う。周囲の泣き声は、まだ小さく続いていた。
「必要なら、力ずくでヴァニーを……」
ふいにその目が空を見上げ、つられて目を上げると、雲のない空を大きな鳥が二羽近づいてきていた。
「──姫!!」
しかしすぐに、それが大きな翼を持った少年たちであることが、アンリにも判った。赤い翼の少年たちが舞い降りてくる。
片方の少年は下肢まで鳥のように羽毛に覆われていて、そんな姿にももうアンリは動じなくなっていたが、慌てた様子の彼の言葉には驚いた。
「クレア=ムーシュが目覚められました!」
「なんですって!?」
真っ先にベル=エスターが声を上げた。一瞬遅れて、周囲から歓声が上がる。
身軽に飛び下りたベル=エスターを追って、サリオンとアンリも枝から急いで下りた。
「つい今しがたです! ああ、羽の擁護者サリオン──あなたを信じていました!」
跪いて見上げる少年の大きな瞳からは、今にも涙があふれ出しそうだ。
しかし歓喜する周囲の様子に反して、ベル=エスターは不審げに眉をひそめていた。
「クレア=ムーシュは無事なの? 何があったと言っていて?」
すると少年たちは、戸惑った様子で互いに目を見合わせた。
「いえ、まだなにも……」
「何もって? あなたたち、その目で見てきたのではないの?」
「いえ、あの……何も、おっしゃらないので……」
「どういうことです?」
近づいたサリオンも眉をひそめる。
歓喜に輝いていた少年たちの表情は、次第に不安そうに曇ってきた。
「長くお眠りになっていたせいでは、と……サトリが……」
「我らは、まずはお知らせをと、すぐに出立いたしましたので……今ごろはきっと……」
ふいにサリオンが踵を返した。
「キャンベルローズ!」
背後にはすでに、キャンベルローズとメイアッシュが駆け寄っていた。
「会ってきます」
その背に乗るが早いか、キャンベルローズが走りだす。
アンリは慌ててベル=エスターに一礼し、メイアッシュに飛び乗った。間を置かず、煉瓦色のルクレチアがすぐ前に着地する。
アンリが手綱を鳴らすより早く、メイアッシュは駆けだした。
「我らも共に……!」
背後で甲高い声が聞こえたようだったが、すぐに、少年たちの舞い上がる羽音にかき消された。
純白の羽の塔の周りは歓声に包まれ、疾走するサリオンの姿を認めると歓喜の声はいっそう高まった。
話しかけようとする人々の脇を構わずすり抜け、サリオンはそのまま半透明の階段を駆け上がっていく。階段の上には灰色の羽の少女が立っていたが、サリオンの勢いに驚いて、何も言わずに道を開けた。
「サリオン……」
渦巻く白い通路の果てで、象牙色のサトリが一行を出迎えた。濡れた淡い黄色の瞳に、困惑の色が見える。
「クレア=ムーシュは?」
「それが──よく分からないのです」
促されて、サリオンが羽根で囲まれた円い部屋に踏み入る。アンリはサトリに会釈して、そっと中を覗き込んだ。
「クレア=ムーシュ……?」
近づく長身のサリオンを、空色の瞳の少女は不思議そうに見上げていた。純白の髪が、大きく波打って肩から枕へこぼれている。
「──クララ?」
思わず、アンリは言っていた。サリオンが驚いた顔で振り向く。
「だから、そっくりだと言ったでしょう?」
足下でルクレチアが呆れたように言っていたが、構わずアンリは白い寝台に近づいた。
「アンリ……?」
花びらを思わせる赤い唇がそう囁いた途端、ルクレチアの煉瓦色の毛がいっせいに逆立ち、白い毛の波がひとすじ背を走った。空色の瞳が驚いたように見開かれる。
「クララ!」
たまらずに、アンリは駆け寄って枕元に膝をついた。
「クレア=ムーシュじゃないよ、サリオン──クララだ」
空色の瞳が何度も瞬き、アンリと、目を見開いて見下ろすサリオンと、そして柔らかな光に包まれた室内とを、見回している。片方の耳で白い羽根の耳飾りが揺れ、アンリにはそれが、ヴァニーの耳飾りと同じもののように見えた。
「ヴァニーはどこ? さっきまで一緒だったのに……」
「フォーロットの、クララ王女ですか?」
まだ信じられないような表情のまま、それでも穏やかにサリオンは語りかけた。
「ええ、そうよ──あなたは?」
「私の名はサリオン」
するとクララは、驚いたように空色の目を見開いた。
「あなたが──魔法使いサリオン?」
「ただのサリオンだよ、クララ」
途端、澄んだ瞳が険しくなった。
「あなたに言ったんじゃないわ、アンリ」
言ってふと、クララは肩にかかる白い髪に触れた。
「え……?」
確かめるように、白い両手を見つめる。
「クララ──あなたは、ヴァニーと遊んでいたんですか? ずっと?」
「ええ……」
なかば上の空で答えてから、クララは戸惑ったように顔を上げた。
「まだ、夢を見てるのかしら……でも夢なら、どうしてアンリがいるのかしら……」
「本当、たいした嫌われようじゃないですか」
ルクレチアが感心したように呟いたが、幸いクララには聞こえなかったようだ。
サリオンが、手近にあった椅子を白い枕元に引き寄せて座ったので、アンリは立ち上がって寝台の足の方へ移動した。
「あなたは、ずっと夢を見ていたんです。クララ──目が覚める前に、ヴァニーに会いませんでしたか?」
緑の瞳を見つめたまま、クララは不安そうに何度も瞬きした。
「ヴァニー……? ヴァニー……そう、怒ってたわ。急にいなくなって──戻ってきたと思ったら、とても怒っていて……もう帰れって、そう言ったの。私、ずっと遊んでいたかったのに……」
悲しげに幼い顔を曇らせる。その目を覗き込んで、サリオンは優しく微笑んだ。
「何をしていたんです?」
「王様ごっこよ。ヴァニーが王様で、私が王女様。ヴァニーは私を、クレア=ムーシュって呼んでたのよ」
幼い顔は次第に笑みを取り戻したがそれにつれて、サリオンの顔からは表情が消えていった。
「何が起こったの、サリオン!?」
サトリが思わず叫び、クララは驚いて目を見開いた。
「サリオン──まさかヴァニーは、クララとクレア=ムーシュとを、間違えてたんじゃあ……」
恐る恐る言ったものの、それがどういうことかアンリにもよく分からない。サリオンはわずかに眉をひそめて、考え込むようにクララを見つめている。
長い沈黙は、クララが破った。
「──クレア=ムーシュってだれ?」
サリオンは、腰に下げていた袋の中から簡素な手鏡を取り出して、黙ってクララに手渡した。覗き込んだクララが眉を寄せる。
「クレア=ムーシュです」
驚いてクララはサリオンを見つめ、もう一度銀の鏡を覗き込み、今度は泣きそうに顔を歪めてサリオンを見上げた。
「ここはフォーロットじゃないんだ、クララ」
たまりかねて、アンリは声をかけた。クララの困惑しきった瞳がさまよって、ようやくアンリに止まる。
「僕たちは、〈あらざる国〉にいるんだよ──イストっていうんだけど──君は、そのイストの姫クレア=ムーシュにそっくりなんだ……」
「……私は?」
「フォーロットで眠っているよ」
「じゃあ、私は誰?」
空色の瞳からは、今にも涙があふれそうだった。
「私はクララよ!?」
「ええ、クララ──分かっています」
なだめるように、サリオンは小さな手を握った。
「よく聞いてください──あなたはさっきまで、夢の世界にいたんです。フォーロットのあなたの体は、もう十日以上も眠り続けています」
「そんなに……?」
「一緒に遊んでいたヴァニーは、夢の世界を支配しているのですが──どうやら彼は、あなたのことをイストのクレア=ムーシュだと思い込んでいたようです。クレア=ムーシュも同じ時に眠っていたので、それで恐らく……あなたの意識をエルデンではなく、イストのクレア=ムーシュの体に戻してしまったのでしょうけれど……」
落ち着かなく成り行きを見ていたサトリの瞳から、とうとう涙があふれ出した
「クレア=ムーシュはどこなんです、サリオン!?」
「分かりません……こんなことが……」
サリオン自身、明らかに戸惑っているようだ。
「ねえ、お嬢さん」
「きゃあ!」
突然、掛布の上に飛び乗った煉瓦色のルクレチアに、クララは甲高い悲鳴をあげた。
「ヴァニーと遊んでいたとき、クレア=ムーシュを見なかったんですか? 同じ顔をした女の子を」
話す間にもクララの瞳は見開かれ、唇は怯えたように震えていたが、ルクレチアはまるで気に留める様子もない。
「し……知らないわ……」
ようやく声を押し出しながら、クララは少しずつ後ずさった──が、すぐに背が寝台の端の装飾板にぶつかった。
「だれも……なにも、来なかったもの……あ、一度だけ──」
ふと、クララの表情が変わった。
「ヴァニーが、鏡を持ってきたの──鏡だと思ったんだけど……だって私がいたから……でもすぐ、ヴァニーがどこかへやってしまったわ」
「どこかって?」
サリオンが身を乗りだす。しかしクララは首を振った。
「邪魔だって手を振ったら、どこかへ飛んでいってしまったの……それだけよ」
ルクレチアはため息をついて振り返った。サリオンは長い指を顎にあて、目を伏せて何か考え込んでいる。
「私──帰れないの……? きっとお父様、心配してるわ……」
「心配してるどころじゃ、ありませんでしたよ」
ルクレチアは素っ気ない。
「父上は、どうしてもクララの目を覚ますことができなくて、サリオンに頼んだんだ。サリオンは、できるだけのことをするって約束してくれたけど……あんまり長い間眠ったままだと……」
言ってしまってから、アンリは続きを躊躇った。クララの瞳が険しくなる。
「──ままだと?」
「だと……その……命が、危ないって……」
「いや!!」
それは悲鳴だった。白い頬から血の気が失せている。
「いやよ! 私を帰して! どうして──ヴァニーは……!?」
「落ち着いて、クララ……」
アンリが宥めようとすると、急にクララは唇を噛んでアンリを睨みつけた。
「だいだい、どうしてアンリがここにいるのよ!」
「君を助けたくて……」
「ちっとも助かってないじゃない!」
涙があふれ出した空色の瞳を、アンリは負けずに睨み返した。
「クララだって──十日も経ったら分かりそうなものじゃないか! だいたい、ヴァニーにクレア=ムーシュって呼ばれたときに、おかしいと思わなかったの!?」
クララの青ざめた頬が見る間に紅潮する。
「どうしてあなたに、そんなこと言われなくちゃならないのよ!」
「兄妹げんかは帰ってからやってくださいよ、やかましい!」
甲高い声で怒鳴ったルクレチアの毛が、一瞬にして赤黒く変わる。クララは目を見開いて黙り込んだ。
「──だから子供は嫌いですよ」
ルクレチアが不機嫌に尻尾を振る。
「夢の中の行動に責任が取れるのは、ヴァニーくらいのものですよ、アンリ」
そう言って、サリオンはようやく顔を上げた。
「いったい何が起こったのか、正直私には分かりません──もう一度ヴァニーを呼んで、問いただしましょう」
その瞳は相変わらず穏やかだが、厳しかった。
「じゃあ……また冠を作るの?」
「冠にはサリオンが絡んでると分かったんです。来やしませんよ、ヴァニーは」
ルクレチアの小馬鹿にしたような口ぶりには、もうアンリも慣れていた。
サリオンは何か考えるふうで、じっと白髪のクララを見つめていたが、その口元がふいに微笑んだ。
「クレア=ムーシュに、呼びかけてもらいましょう」
「でも、クレア=ムーシュは……」
いくらか落ち着いたらしいサトリの声は、明らかに戸惑っている。
「ヴァニーはクララを、クレア=ムーシュだと思っています。それに──この声はクレア=ムーシュの声ですよ」
「ヴァニーを呼べば、私は助かるの……?」
すがるようにクララが言う。
「きっとね。ヴァニーなら、あなたを元の体に戻すことができるはずですよ」
「……どうしたらいいの?」
2024/6/8
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