8.ヴァニー
その少年は、何の前触れもなく突然そこに現れた。
気配に驚いて振り向いたアンリには、最後に残っていた足が、巨木の幹から出てくる様がはっきりと見えた。まるで当たり前に戸口から入って来たようだったが、木には裂け目も窪みも何もない。
「よく来てくれたわね、ヴァニー」
ベル=エスターが朗らかに微笑んで立ち上がる。その隣にサリオンの姿を認めた途端、少年は分かりやすく表情を曇らせた。
「ベル=エスター ──姫様……」
礼儀正しく膝をついたものの、首を垂れたのは一瞬で、すぐに不機嫌そうにその場であぐらをかいてしまう。アンリより少し背は高かったが、表情や態度のせいでずいぶん幼く見えた。
邪魔そうに背に払う不揃いな黒髪は、よく見ると藍色みを帯びているようだ。羽根飾りを挿した立派な金の冠をかぶっているのに、着ているのは淡い紫色の膝丈のチュニック一枚で、土と草で汚れた素足で無造作に座っている。
明るい紫色の瞳が、サリオンの膝の鉢と、腰を下ろしたベル=エスターの手にある冠とを、落ち着かなげに何度も見比べていた。
「ヴァニー、彼はエルデンから来たアンリよ」
ヴァニーの態度などまるで気付いてもいないように、ベル=エスターが朗らかに言う。アンリは慌てて背筋を伸ばして頭を下げたが、ヴァニーは不機嫌そうに一瞬目を合わせただけだった。
アンリがちらと下を見てみると、侏儒たちは、じゅうぶん体を隠している葉の陰で、さらに身を縮めるようにしてこちらを見上げていた。
「こちらへいらっしゃいな、ヴァニー。ちょうど良かったわ。綺麗な冠ができたから、あなたにもぜひ見て欲しいと思っていたのよ」
通り道を開けようとアンリが身を引くより早く、ヴァニーは身軽に脇をすり抜け、サリオンを避けてベル=エスターの反対側の隣に腰を下ろした。
「──ヴァニーはね、サリオンが苦手なんですよ」
ふいに、傍らでルクレチアが囁いた。
「……なんで?」
「サリオンがクレア=ムーシュのお気に入りだからに、決まってるじゃありませんか」
それはいかにも小馬鹿にしたような口調だったが、アンリのほかには聞こえていないようだった。アンリはちょっと笑った。
「ふうん……で、これは悪口じゃあないの?」
ルクレチアは、つんと澄まして目を細めた。
「的確な解説ですよ」
「……ふーん」
ベル=エスターが膝の上で持っている銀と真珠の冠を、ヴァニーはじっと見つめていた。片方の耳で、白い羽根の耳飾りが揺れている。
「皆が騒いでた冠って、それ? ほんとにシィラ=ドリーの真珠なの……?」
「あら、どうして私が嘘をつくわけがあって?」
「……クレア=ムーシュと遊んでたんだよ。クレア=ムーシュも、真珠の冠をかぶってたんだけど……」
「まあ、ほんとう?」
ベル=エスターは大げさに目を見開いてみせた。
「こんな冠だった? 悔しいわ、先を越されるなんて!」
「そんなに……きれいじゃない──そんな銀じゃなかった」
ヴァニーの目は、食い入るようにきらめく銀の装飾を見つめている。その表情を見て、ベル=エスターはそっと微笑んだ。
「──じゃあ、これを私があなたにあげたと知ったら、クレア=ムーシュはきっと悔しがってくれるわね」
途端、ヴァニーの紫色の瞳がいっそう明るく輝いた。
「くれるの!?」
「もちろんだわ、そのために作ったんだもの──でも、も少しおしゃべりしていっても、構わないんでしょう?」
微笑んだものの、ベル=エスターは冠を渡そうとはせず、ヴァニーはまた不機嫌そうに顔をしかめた。
「ヴァニー ──その、真珠の冠をかぶったクレア=ムーシュとは、いつから遊んでいるんです?」
サリオンが横から穏やかに話しかけると、ヴァニーは、まるでたしなめられた子供のように口を尖らせた。
「知らないよ──ねえ、くれるの? くれないの?」
なげやりに言って、冠に手を伸ばそうとする。
「でもね、ヴァニー。ちょっと遊びすぎだと思うのよ、クレア=ムーシュは。あなた、無理に引き止めたりしていない?」
「知らないったら!」
怒ったようにヴァニーは腕を伸ばしたが、ベル=エスターは間際で冠を背後に隠してしまった。ヴァニーの頬が紅潮するのが、アンリにも見えた。
「クレア=ムーシュはいつも、帰らなきゃならないときには言うんだから! 僕は引き止めたりしないんだから!」
言うなり、ヴァニーは枝を蹴るように立ち上がると駆けだした。
「ヴァニー、冠は!?」
「いらない、そんなの!」
慌ててベル=エスターも立ち上がったが、もうヴァニーはアンリの脇をすり抜けていた。
「ヴァニー!!」
サリオンが追いかけたが、すでにヴァニーの体は半分、幹の中に消えていた。辺りから悲鳴が上がる。
「クレア=ムーシュに、もう遊びの時間は終わったって伝えてね!」
ベル=エスターが言い終わらないうちに、ヴァニーの体は苔と草に覆われた幹に吸い込まれていた。追いつけなかったサリオンが、緑の幹に手を置いてため息をつく。巨木の下で、悲鳴は泣き声に変わっていた。
アンリは、立ち上がって幹に手を触れた。苔に厚く覆われて、ひんやりと柔らかい。
「──ここだよ、サリオン」
しかしサリオンは、眉を寄せて俯いた。
「ここ──ここに、入り口があるんだよ」
サリオンは顔を上げず、振り返るとベル=エスターも、悲痛そうに顔を曇らせていた。
「ここに……」
「分かってるわ」
「僕には見えるんです! この入り口を開けてさえくれたら、僕は……!」
しかしベル=エスターは、小さく首を振った。
「できないのよ、エルデンのアンリ──夢の世界への入り口を開くことは、私たちにもできないの……」
「そんな……」
アンリは再び、冷たい幹を振り返った。
俯くサリオンの表情は、銀の髪に覆われて窺えない。濃い煉瓦色のルクレチアは絶望に泣き崩れる妖精や動物たちを見下ろしたまま、顔を上げようとはしなかった。
「ここに──わかってるのに……どうして……!!」
額を打ち付けると堅い幹の感触が鈍く伝わり、柔らかい苔が冷たかった。
* * *
空色の瞳は険しく、対峙する藍色の瞳にも表情はなかった。
「永遠に睨み合いを続けるわけにはいかないのよ、姫」
赤い唇が歪む。
「もちろん私は構わないけれど──あなたは困るのじゃなくて? イストに残されたあなたの体は、抜け殻のままでいつまで無事でいられるかしら?」
「そんな脅しで、この私を言うなりにできると思うの、リングレット? あなただって、私の助けがなければここから逃れられないのよ」
静かに言い返すクレア=ムーシュの華奢な体には、黒い蔓が幾重にも巻き付いている。奇妙ににじんだ空の下、ねじれた黒い木と茨だらけの森の中で、クレア=ムーシュの波打つ髪の白さは異様だった。
リングレットは顔にかかる漆黒の巻き毛を払いのけ、蔓によって座らされている少女に歩み寄った。睨みつける空色の瞳を見下ろして嘲笑う。
「私には時間があるのよ、クレア=ムーシュ──永遠という時間がね。あなたの気が変わるまで、何百年でも待ってあげるわ」
「無駄なこと。あなたのことは五人の姫の決定よ。ここで永遠にあなたと睨み合いを続けることになっても、私の心が変わることはないわ」
「柱の姫とも思われないお言葉ね。──いいわ。時間は永遠に流れるんだから」
黒ずんだ紅いガウンが翻って、リングレットは踵を返した。
背の高い後ろ姿を見つめて、クレア=ムーシュは唇を噛みしめた。もう一度、腕を動かそうともがいてみる。しかし今度も、戒めはきつくなるばかりだった。
それはあまりに唐突で、何が起こったのか見当もつかなかった。
「なに……!?」
強い衝撃が大気を揺らし、漆黒の巻き毛が舞い上がる。
歪んだ地面もねじれた森もいっせいに波打ち、千切れて、逆巻く突風に呑み込まれた。
「──!!」
衝撃がクレア=ムーシュの全身を打ち、食い込む黒い蔓を引きちぎった。咄嗟に見回した視界の端に、わずかだが歪んだ裂け目が見えた。
その先がどこへ通じているかなど分からない──が、躊躇する余裕はなかった。
「待……!」
転がるように、クレア=ムーシュはその歪んだ裂け目へ飛び込んだ。