5.クレア=ムーシュ
……コロ、ン……
澄んだ音。
思わず、アンリは立ち止まった。
──立ち止まったと思った。
闇に包まれて、自分の足すら見えない──そこは本当に足下だろうか。
……コロ、ン……
澄んだガラスの音──ついて行かなければ。
──どこへ?
見えない足を踏み出した。
闇を手探りで進んで──いや、闇が押し寄せてきているのだ……それとも進んでいる……?
アンリを呑み込もうとしている──これは何?
……コロ、ン……
澄んだ──あれは何の音だろう?
前へ踏み出した足が、虚空を踏む。
落ちていく──果てしなく……いや、昇っていく?
どこへ?
……、けて……
誰かの声──悲鳴?
耳をふさぎたいのに、手がどこにあるのか分からない。
悲鳴、笑い声、歌声、泣き声、悲鳴、悲鳴、悲鳴……
……たすけて!……
叫んだのは、本当に自分の喉だろうか……
誰かが笑っている──泣いている?
嘆いている──誰を?
……、リ……
誰かが歌っている……嘆いている……叫んでいる……
どうしたら、耳をふさげるのだろう。
目を閉じても、同じ色の闇──それとも開いたままなのか……
……、ンリ!……
悲鳴──あの声を知っている……?
わからない。
わからない──なにが?
ぼくはだれだろう?
* * *
「アンリ!!」
いたい──腕?
「っ!」
衝撃に、はっきりと目を開いた。
「サリオン……」
その石のような瞳は、見開かれて鋭かった。
「決して離れるな、と、私は言いましたね?」
感情を押し殺した低い声。その両手はまだ、アンリの腕を痛いほどに掴んでいる。
「あなたは、〈間〉に永遠に囚われるところだったんですよ」
「はざま……?」
ようやくサリオンの手が離れても、アンリは地面に座りこんだまま動けなかった。背筋と指先が冷たい。
「イストとエルデン──あなたたちの世界──との隙間です」
サリオンの声はまだ硬い。
「方角も距離も時間も、何ひとつ確かなもののないところです。ひとたび迷い込んだら、自力では二度と抜け出せません」
「……鍵の、かかった扉……?」
夕べの言葉が甦る。
「そう。〈間〉では、すべての呪文も、その効力を失いますから」
「──ごめんなさい」
アンリは力なくうなだれた。
そっと周りを見回してみるとそこは、明かりの差し込む洞窟の中のようだった。すぐ傍らに煉瓦色の毛並みが見えて、少しだけほっとする。
「サリオン──この子は何も知らなかったんですよ」
ルクレチアの声は、少しだけ優しく聞こえた。
「分かっていますよ。──立てますか?」
差し出された手を、ちょっと躊躇ってから取って見上げると、陰になった緑の瞳は今は穏やかにアンリを見つめていた。
アンリが立ち上がると、すぐに踵を返してしまう。その背中に、慌てて声をかけた。
「あの……ありがとう」
かすれた小さな声しか出なかったが、サリオンは振り返って、小さく笑ってくれた。
ほっと息を吐いていると、急に肩に何かがぶつかって、見るとキャンベルローズがメイアッシュの手綱を放ってよこしたところだった。アンリの様子を気にする素振りは少しもなく、そのままサリオンを追って洞窟の出口へと向かっていく。
気遣うように首を傾げるメイアッシュの鼻先を撫でると、いくらか気持ちが落ち着いた。
「怖かったでしょう。サリオンは脅しなんて言わないんですから」
明るい煉瓦色のルクレチアは、二、三歩先を歩いていってから、促すようにアンリを振り返った。
「サリオンが危険だと言ったら、それは真実危険なんです。あたしは、もう二度とあなたには会えないと思いましたね」
尻尾をぴんと立てて先を行くルクレチアのあとを、手綱を握りしめてアンリは追いかけた。サリオンが長身を少し屈めて、洞窟の口から出ていく。
「虚ろの朋友って? あの、石の門の言っていた……」
できれば話題を変えたかった。
せり出した石の天井はアンリの背ぎりぎりの高さで、不安そうに蹄を鳴らすメイアッシュの首を撫でながらくぐった。大小の石を踏み越えて出た先は、明るい森の中だった。
「そんなふうに呼ばれることもあるんですよ──ねえ、サリオン?」
サリオンは振り向きもしなかったが、ルクレチアも、呼びかけはしたが返事を期待しているふうではなかった。
「変わった呼び名だね」
「『もぐらの守護者』ほどじゃあ、ないと思いますけどね。あたしは」
アンリは眉を寄せてルクレチアを見下ろした。
「……なに、それ?」
尻尾をぴんと立てたまま、ルクレチアは怪訝そうに、しきりに空気の匂いをかいでいる。
そういえば、岩の門に入ったのは早朝だったが、今は少なくとも朝ではない──なじみのない明るさで、時刻が判断できなかった。
「本当にね──どうして『もぐら』なんです、サリオン?」
「余計なおしゃべりはやめなさい、ルクレチア」
今度はすぐに返答があったが、こちらを見もしないその声は、明らかに苛立っているように聞こえた──少なくともアンリには。
「あたしも、たいがいの呼び名はどんな謂れだか知っていますけれどもね──これだけは、どうしても分かりませんよ」
ルクレチアがわずかも気にせず話し続けるので、アンリは振り返らない灰色の後ろ姿と足下の煉瓦色とを、困って見比べていた。
「ねえ、サリオン。あなたがひとこと言いさえすれば、世界中のもぐらが、いっせいに日光浴を始めますよ」
「黙りなさい」
今までとは違う強い口調に、ルクレチアはようやく口をつぐんだ──ほんの束の間だけ。
「──ね? ぜったいに教えてくれないんですから」
アンリにだけ聞こえるように、そっと囁く。
たぶんちゃんと聞こえているのだろう灰色の後ろ姿には取り付く島がなくて、アンリはどう応えたものか分からず、仕方なく曖昧に微笑った。
サリオンとキャンベルローズは、洞窟の前の草地で、何を探しているのか待っているのか、森の向こうに目をやりながら何事か話し合ってた。
針葉樹と広葉樹の混じった見慣れない森を、アンリもぐるりと見回してみた。夏の盛りのように草も木も茂っているが、アンリの知っている夏のように暑くはない。森の奥には驚くほど丈高い木が群生しているようで、濃い緑の梢の向こう遠くに、鋭く茶色い山の頂が見えた。
「ね……何してるの?」
どこへ行こうともしないサリオンの様子に首を傾げて、アンリは足下のルクレチアにそっと訊いてみた。
「……なにか様子が変なんですよ」
そのときふいに、銀のお下げが大きく波打った。
サリオンの振り仰いだ先を、キャンベルローズとルクレチアも見上げる。
ひゅ、と、何かが鋭く風を切り裂く音。
「サリオン!!」
女の子だ──と、咄嗟にアンリは思った。今にも泣きだしそうな女の子の声。
クララは、アンリの前では決して泣きはしなかったけれど。
「──わあ!」
声につられて顔を上げて、アンリは思わず悲鳴をあげた。
若草色の羽が舞う。
「ああ、サリオン──羽の擁護者よ……!」
突然空から現れた娘は、そのままサリオンの胸に飛び込むように降りてきた。若草色の翼が最後に大きく羽ばたいて、緑色の髪が白い額に乱れかかる。
「リューシャ? どうしたんです?」
取り乱した様子の娘を、サリオンは両腕で抱き留めた。
「ああ、サリオン……あなたを呼ぼうとしていたの。今、皆で姫たちに知らせているところよ。きっともうすぐ法螺貝が鳴るわ、あなたを呼ぶために」
「私を? ──まさか、クレア=ムーシュの身に何か……?」
途端、大きな黄色い瞳から大粒の涙がたて続けにこぼれ落ちた。
「サリオン──姫を助けて! お願いよ……いったい何が起こったのか……こんなこと、今まで一度だってなかったのに……!」
「落ち着いて、リューシャ。とにかく、塔に向かいながら話を……」
そのとき、どこからか虚ろな、それでいてよく通る音が聞こえてきた。余韻を長く残して、もう一度。
それはアンリも何度も聞いたことのある、法螺貝を吹き鳴らす音だった。
「急いだほうが良さそうですね──アンリ、メイアッシュに乗ってください」
「私、あなたが来たことを皆に知らせてくるわ。法螺貝を止めないと」
「お願いします。できるだけ早く塔へ行きますから」
黄色い瞳のリューシャは、頬を濡らしたまま頷くと、若草色の翼を広げて飛び立った。
「わあ……」
見る間に梢の向こうへ消えていく緑色の残像を、呆然と見つめていると、ふいにマントを引っ張られた。
我に返って振り向くと、メイアッシュがもの言いたげな瞳で藍色のマントの端をくわえていた。その鞍には、すでに澄ました表情のルクレチアが座っている。
「アンリ」
「あ──はい」
サリオンにうながされて、ようやくアンリは鐙に足を掛けた。
遠く、再び法螺貝が響く。そしてもう一度。
木々の間を縫って疾走するのは、岩山を駆け登るのよりは容易かった。
キャンベルローズが先導している間は、メイアッシュは手綱の指示をあまり聞かないので、アンリは早々に諦めてただ振り落とされないことに集中した。胸の下あたりで煉瓦色のルクレチアも背を低くしている。
「ねえ……どこへ行くの? 姫って?」
「質問はひとつずつしてくださいな──行き先は塔。姫の名前はクレア=ムーシュ。イストを支える、柱の姫のおひとりですよ」
「柱の姫って?」
前方で灰色のマントが翻って、木漏れ日の下、銀のお下げがきらめいている。転がるガラスの鈴は、やはり音を立ててはいなかった。
「言ったでしょう。イストを支える姫ですよ」
「王様ってこと?」
短い毛をなびかせながら、ルクレチアはわずかにアンリを振り返った。
「そういう下世話な言い方は相応しくありませんけれどね。そう──守護者、と言うべきでしょうね。五人の柱の姫によって、イストは守られているんですよ」
アンリはその仕組みを少し考えてみたが、理解するのは難しかった。
父王はフォーロットを治めているけれど、王は民に支えられて立っているのだと教えられた。〈あらざる国〉では事情が違うのかもしれない。
「その一人に、何かあったの? クレア……?」
「クレア=ムーシュ。何かあったら大変ですよ。姫が万一倒れでもしたら、イストは崩壊して、あなたたちの住むエルデンも無事では済みませんからね」
「──どうなるの?」
間もなく森はまばらに茂みを残すのみとなり、行く手には濃い緑の草原が広がった。
ルクレチアは、つんと顎を反らして再び前を向いた。
「そんなこと、あたしに分かるわけないじゃありませんか。見たこともないんですから」
「……とにかく『大変』なんだね──でも、クララのことはどうなるの? 時間がないってサリオンも言ってたのに」
振り返ったルクレチアの瞳から、澄ましたような色は消えていた。
「今はクレア=ムーシュの消息を調べるのが先でしょうね。何をするにせよ、柱の姫が無事でないことには──サリオンは約束を違えたりはしませんよ、絶対に」
少し口調が優しくなる。
アンリは目を伏せた。
どちらにせよ、なす術がない。今自分がどこにいるのかも分からないアンリは、ただサリオンに従うよりほかにできることはなかった。慣れ親しんだメイアッシュを操ることさえ、今はできないのだから。
「──ほら」
空中でざわめく雲のような影が、まず見えた。甲高く鳴くような声が入り乱れて聞こえる。
「クレア=ムーシュの羽の塔ですよ」
はじめそれは、空中に浮かぶ白い卵のように見えていた。
近づくにつれ、卵の下に淡くきらめく台座のようなものが見え、やがて卵を形作る揺らめく花弁が見分けられるようになった。
一周の螺旋階段はすりガラスのように半透明で、その上で、震える花弁が幾枚も重なり合って、輝く白い卵の形を作っていた。
塔の上空に雲のように見えていたものは、何十とも何百とも見える鳥の群れのようだった。小鳥も猛禽も入り混じり、様々な声で鳴いているが、争うでもなく上空を旋回している。近づいて見上げると、中には先刻のリューシャのような人の姿をしたものも多く混じっているようだった。
周囲の草地にも、塔を取り囲むように大勢が集まっている。翼のある者もない者も様々で、声高に泣いていたり囁き合っていたり、あるいは無言でうなだれていたりしている。
蹄の音も高くキャンベルローズが駆けていくと、塔の上と下から歓声が上がった。
ひときわ色鮮やかな瑠璃色の羽の若者が、舞い降りざまに跪く。
「サリオン──我らが羽の擁護者よ!」
空と地面で、様々な声が口々にサリオンを呼んでいる。
螺旋階段の真下でキャンベルローズの脚が止まりきるより早く、サリオンはその背から滑り降りていた。
「どうか姫を……!」
悲鳴のような若者の声には応えず、そのままきらめく階段を駆け上がる。
キャンベルローズは当然のようにサリオンに続き、ひと足早く飛び下りてその後を追うルクレチアに続きながら、アンリがふと振り返ると、当然のような顔をしてメイアッシュが続いていた。
半透明の階段を上りきって見ると、それは花弁などではなかった。
羽の塔はその名の通り、何枚もの羽根で形作られていた。重なり合う羽毛は小さなものでもアンリの背丈ほどもあり、かすかな風にもそよいで、塔全体を揺らめくように見せている。
その羽根の一枚が動いて、中から灰色の羽の少女が現れた。目が潤んで赤い。
「クレア=ムーシュは?」
「どうぞ中へ──お連れの方々も」
純白の羽根が光を透かして、中は不思議に暖かかった。
一番外側の羽根のすぐ内側が通路になっていて、ゆるりと円を描いた先に羽根に囲まれた丸い部屋があった。壁から天井まで細長い羽根の重なりで形作られていて、窓も何もなかったが、羽根が光を透かすらしく不思議と明るい。楕円の形をした白い寝台が中央あたりに置かれていて、屈みこむサリオンの銀の髪が柔らかく輝っていた。
キャンベルローズが壁際によけてくれたので、ようやくアンリにも、サリオンの傍らにもう一人立っているのが見えた。象牙色の翼を背後で畳んだ少し年かさの娘で、琥珀色のルクレチアを胸に抱きしめている。アンリが躊躇いがちに会釈すると、応えるようにごく小さく微笑んでくれた。
「こちらへ、アンリ──ごらんなさい」
そう言って、サリオンは体を起こした。灰色のマントの陰になっていた真っ白い枕元が、柔らかい光に浮かび上がる。
「〈気〉の姫、クレア=ムーシュです」
「クララ……?」
違うと分かっているのに、思わず声が漏れた。
閉じた瞼も花びらのような唇も、それはクララに生き写しの少女だった──大きく波打つ真っ白い髪のほかは。
「私がクララを見たときにどれほど驚いたか、分かるでしょう」
言って、サリオンは象牙色の娘を振り返った。
「いつから眠り続けているんです?」
「もう十日になります──こんなに長く眠りから戻られないことは今までありませんし、何より、どんな呼びかけにもお応えにならないのです……」
娘は沈痛そうに、淡い黄色の瞳を伏せた。
「心当たりは?」
「何も……夢の世界のことは、私どもには分かりませんし──でも、ヴァニーがクレア=ムーシュを危険な状態にさせるはずはありませんし……」
サリオンは手を伸ばして、クレア=ムーシュのわずかに赤みの見える白い頬に触れた。頬からこめかみへそっと滑った指が、額で波打つ白髪をゆるく梳いても、陶器のような表情は動かない。
かすかに息を吐いて、サリオンは振り返った。
「サトリ──彼は、エルデンのアンリです。妹君を助けるために私に同行しています」
語りかけられた象牙色のサトリは、アンリに向かって微笑むと軽く腰を屈めた。アンリも慌てて礼を返す。
「アンリ、彼女はクレア=ムーシュに仕えるサトリです。──どうやら、こちらを先に解決しなければならないようです」
「それって……クララのことを後回しにするっていうこと!?」
唇からあふれ出てしまってから、その思いがけず強い口調に、アンリは自分でも少し驚いた。
「時間がないって、サリオンが言ったんじゃないか! あと三日しかないって……!」
しかも、それを聞いてからすでに一日経っている。
真っ先に表情を変えたのは、黄色い瞳のサトリだった。
「サリオン、どういうことです?」
眉をひそめてサリオンを見上げる。その瞳を束の間見返し、再び眠る少女を見下ろしたサリオンの緑の瞳に、表情は見えない。
「アンリの妹クララは、クレア=ムーシュと瓜二つなのです」
「このお顔がエルデンに……?」
サトリは驚きを隠さなかった。
「クララも今、エルデンで眠り続けていて──このままでは危険なのですが……」
言いながら、サリオンは考えるように少し眉を寄せた。
「二人が眠り始めたのは、ほぼ同じ時期ということになりますね……」
「関わりがあると言うの? 柱の姫とエルデンの少女が? でも、クレア=ムーシュは夢の世界に行ったのよ?」
「何か、理由があって行ったのですか?」
「行くときはいつもヴァニーに……」
サトリは考え込むふうでうつむいた。煉瓦色のルクレチアがその腕で見上げている。
「……そう。真珠が手に入ったから、ヴァニーに知らせに行くって──そう言っていました……いつもの我が儘ですわ、ヴァニーの」
「サリオン!」
堪えきれずに、アンリは叫んだ。自分だけが除け者にされることには、城でも慣れていたはずなのだが、今だけはどういうわけか我慢ができなかった。
サリオンは表情のない目を束の間上げたが、石のようなその瞳はすぐにまた白い寝台に落ちた。その様子に、思わずまた叫びそうになったが、その前にサリオンは静かに話し始めた。
「アンリ──夢は、分かりますね? 眠って見る夢です」
「……うん」
あまりに穏やかな声で、不思議と素直にうなずいた。
「夢の世界は、イストともエルデンとも繋がっていますが、どちらとも違う所にあります。意識もなく眠った者は夢の世界を自由に出入りして、それぞれに夢を見ては去って──目覚めていくのです」
夢の中で不思議な生き物を見ることがあるのは、イストとも繋がっているからだろうかと、アンリはぼんやり考えた。
「非常に稀なことですが──夢の世界に意識が捕らわれて、体に戻らなくなることがあります。意識が戻らなくては目覚めませんから、体は抜け殻のまま眠り続けて、やがては衰弱し──死亡することもあるでしょう」
「クララが……?」
胃のあたりが、一瞬で重くなった。『死』という言葉を、城では誰もが避けて口にしていなかった──少なくともアンリの前では。
「夢の世界はクレア=ムーシュの管轄で、ヴァニーという童子が支配を任されています」
アンリの様子に気づいているのか、サリオンは話し続けた。
「眠った者はたいがい、夢の世界へ行きますから──クレア=ムーシュの力で、夢の中にクララがいるかどうかが確かめられれば、目を覚まさせる方法も分かると思っていたのですが……」
アンリは青ざめたまま、あまりにも見慣れた、見知らぬ寝顔を見下ろした。
「じゃあ……」
「クレア=ムーシュを助けないことには、クララを助けることもできないのです」
心臓が冷たいと思った。鼓動が聞こえない──何も聞こえない。
足下にぬくもりを感じて見下ろすと、煉瓦色のルクレチアが、黙って体をすり寄せていた。