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4.岩の門へ

 闇が千切れる。

 こぼれるように広がる──あれは金色の髪?

 花びらによく似た唇に、笑みはない。

 淡い色の瞳が見開かれて、歪む赤い唇──ゆっくりと開かれた、その形は知っている。白い喉が震えて、ほとばしる──悲鳴。

 低い声の。


 低い声の?

 悲鳴──?




「ではあれは何だ!!」


 悲鳴──低い声の。


「うるさい」


 穏やかな声。


「王子様のお目覚めですよ」


 甲高い、喉の奥でくぐもるような声に、アンリはようやくはっきりと目を開いた。湿った空気にかすんだ木々が、幻のようにざわめいて見える。

 ゆっくりと半身を起こすと、背中が板のように強張って痛んだ。


「サリオン、それ……」


 再び(おこ)された炎の向こうに、夕べと同じように腰を下ろしているサリオンの姿。そしてその傍らにある白いものを、アンリは前にも見たことがあった。

 剥き出しの歯と、空ろな目の──


「しかもあと五十年は生きるぞ、あいつは!」


 アンリは目を見開いた。なかば無意識に毛布を引っ張り上げようとしたが、引っかかりでもしたようにびくとも動かない。


「良かったですね。長生きしそうですよ」


 見下ろすと、毛布の端にルクレチアが腰を下ろしていて、毛づくろいに余念がなかった。


「おはようございます、王子」

「あ、おはよう……」


 アンリは応えたものの、目線はどうしても地面に落ちる。

 サリオンは小さくため息をついた。


「いつの間にあんな若い、生身の男が加わったのだ、サリオン! 私が生きていたときには、そなたは決して、私の供を許さなかったではないか!」

「お前が眠っている間にですよ──王子、これは死神です」


 サリオンは無造作にも見える手つきで、頭蓋骨をアンリの方へ向けた。


「初めまして……?」


 ほかに言葉が浮かばずにようやくそう言うと、途端に噛み殺すような笑い声が傍らで聞こえた。見下ろすと、ルクレチアが顔を伏せたまま、煉瓦色の肩を震わせている。


「彼はフォーロットの王子アンリ。昨日見た少女の兄君です」

「王子? ……ふん」


 低い声は、なおも不満げだった。

 アンリはまだ、何もない眼孔から目を逸らすことができずにいた。剥き出しの顎はわずかも動かなかったが、よく通る低い声は、明らかにその噛み合った歯の間から聞こえてきているようだった。


「支度してください。時間がありませんから」


 サリオンに急かされて、アンリは慌てて頭蓋骨から目を逸らした。


 荷物をまとめ終わるぎりぎりまで、ルクレチアはアンリの毛布の上から動かなかった。

 野営を片付けると、サリオンは焚き火の跡を丁寧に土で消した。


「そなたの白い指には、露に濡れた花弁こそ相応しいものを……」


 死神がサリオンに語りかける口調はひどく芝居がかっていたが、サリオンはそのほとんどを──もしかしたら全部を──気にも掛けていない様子だった。

 しかし、旅支度の最後に麻袋に放り入れられてもなお聞こえてくる声に、キャンベルローズはあからさまに嫌そうな顔をした。

 ゆっくり休んだメイアッシュは元気そうだったが、アンリが強張った体をその鞍の上に落ち着けるには、少し時間がかかった。


「ちょっと、手をどけてくださいな」

「え……」


 咄嗟にアンリが手綱を握っていた手を緩めると、鞍のすぐ前に、炎の塊のようなルクレチアが飛び乗ってきた。


「この首、細すぎやしませんか?」


 言いながら、栗毛の首の付け根あたりを、行ったり来たりする。

 メイアッシュは頭だけを少し振り向かせて、かなり批判的な目をアンリに向けた。


「抱いておかないと、メイアッシュの首が血だらけになるぞ」


 キャンベルローズが厭味らしい口調で言う。その背で振り返ったサリオンの、ルクレチアを見る目は少し意外そうだった。


「ちょっと引っ掻いたくらいで、血なんか出ませんよ。ねえ?」


 どうやら落ち着く場所を決めたらしいルクレチアは、じゃれるように黒っぽいたてがみを長い爪で掻いている。メイアッシュの黒い目は、明らかに迷惑そうだ。


「あの……もし、構わないなら……」


 アンリがおずおずと両手を差し出すと、ルクレチアは考えるように金色の目を細めてみせてから、ゆっくりと立ち上がった。




「あなた、猫を抱いたことあるんですか?」


 いくつかの姿勢を試みた結果、ルクレチアはそう言って、アンリの腕からすり抜けた。膝の間に座り込んで落ち着いたルクレチアの炎のような毛並みは、朝日の中で金色に輝いて見えた。


「どうしてこっちに乗ったの?」


 木々は次第にまばらになり、間もなく岩だらけの斜面が行く手に開けた。


「あのおしゃべりに付き合えるのは、サリオンくらいのものですよ──ほとんど聞いちゃいないんでしょうけれどね」

「ええと……死神?」


 琥珀色の瞳が(あお)のく。


「あなた、あたしやキャンベルローズが口をきいたときは、ずいぶん動揺してたくせに。死神には、さして驚きませんでしたね」

「──驚いたよ」


 言って、アンリは少し考え込んだ。

 岩だらけの斜面を登るのは初めてだったが、メイアッシュは勝手にキャンベルローズに従っているようで、アンリは落とされないように手綱を握りしめているだけで良かった。

 灰色のマントをなびかせるサリオンの腰の辺りで揺れる袋から、抑揚をつけた低い声が時々聞こえてきたが、言葉までは聞き取れない。


「驚いたけど──だって、猫や馬だってしゃべるんだから。死神は、元は人間でしょう……?」

「馬は口をきかんぞ!」


 突然、キャンベルローズが振り返って声を荒げた。


「あ──ごめんなさい。え、と……ペガサス?」

「似たようなもんですよ、どっちだって」


 ルクレチアの言葉に、キャンベルローズはさらに口を開きかけたが、サリオンがなだめるようにその首を叩くと、鼻を鳴らして前を向き直った。直後に、低い唸り声をあげながら、荒々しく岩を飛び越える。

 アンリは慌てて手綱を引いたが、メイアッシュはまるで構わず、キャンベルローズに従って斜面を駆け上がった。


「じゃあ、ルクレチアは?」


 少しすると、若駒の跳躍に体の動きを合わせて衝撃を和らげるコツが分かって、揺れる鞍に座っているのが少し楽になった。


「猫ですよ。見れば判るでしょう」


 その口調は呆れているようだった。アンリはちょっと唇を尖らせた。


「僕の知ってる猫はどれも口をきかないし、それに──そんなふうに毛の色が変わったりしないよ」


 それを、アンリはずっと気のせいだと思おうとしていた。しかし何度瞬きを繰り返してみても、それは光の加減とも目の錯覚とも、考えられなかった。

 今は瞳の色に近い琥珀色のルクレチアは、鞍の前端にしがみついたまま、首を回してアンリを見上げた。


「人間は、気分で顔を赤くしたり青くしたりするくせに──あたしたちが同じことをすると、文句を言うんですか?」

「気分で変えてるの?」

「根が正直だものですからね」


 ルクレチアはつんと顎を反らしてみせたが、鞍に爪を立ててしがみついている状態では、あまり澄ましているようには見えなかった。


「感情がつい表に出てしまうんですよ」

「──今は?」

「悪くないですね。あの気障ったらしいおしゃべりを聞かずにすむだけでも。この子も、少なくともキャンベルローズよりはおとなしいようですし」


 途端にメイアッシュが大きな岩を跳び越して、激しい衝撃に、ルクレチアの毛が逆立った。金色がかっていた毛色が、一瞬で煉瓦色を通り越して黒ずむ。


「……キャンベルローズよりはね」


 苦々しげに言って、ルクレチアはアンリの方に体を寄せた。アンリがその小さな体を庇うように上体を少し伏せると、間もなく、赤黒かった毛は見慣れた煉瓦色に戻った。


「正直な猫なら、みんな毛の色が変わるの? そんなふうに?」

「まさか──あたしは、イストの猫ですからね」


 その口調は、ひどくもったいぶって聞こえたが──アンリにはそれほどの感銘を与えられなかった。


「『イスト』って?」


 するとルクレチアは、まるで信じられないものでも見るように、琥珀色の目を見開いてアンリを見上げた。その背を、白い毛の波が走って消える。


「〈あらざる国〉ですよ」


 何か──恐らくは辛辣な言葉を──言いかけたルクレチアを、サリオンの穏やかな声が遮った。


「そういう言い方をしたければ、ですが」


 苔と様々な蔓に覆われた大きな一枚岩の前で、キャンベルローズは立ち止まっていた。

 追いついたメイアッシュが、その象牙色の鼻先に自分の鼻を擦り寄せる。


「〈あらざる国〉……?」


 汗が引いていく。

 象牙色の背から滑り降りたサリオンの足下に、ルクレチアはさっさと飛び下りていた。


「イストも知らないで、サリオンに付いて来ようとしてたんですか」


 呆れたような高い声を、アンリはほとんど聞いてはいなかった。

 幼い日の悪夢が脳裏をよぎり、それは容易には消えようとしなかった。


「物語の中の話だと、思ってた……」

「ずいぶんと印象的な物語に仕上がっているんでしょうね、その様子だと」

「土の巨人とか、人喰いの小人とか鬼とかが、住んでいるって……」


 明るい煉瓦色のルクレチアは目を細め、少し考えるふうで小首を傾げた。


「あの小人たち、人を食べますかね、サリオン?」


 途端、アンリの背中が強張った。


「いい加減にしなさい、ルクレチア」


 少しきつい口調で言ってから、サリオンは目の前の一枚岩に近づくと、苔むした表面を覆う蔦や蔓を外し始めた。背を滑る銀の髪の上を、何かが転がって輝る。


「少なくとも、小人には会えますよ。もうじきね」


 サリオンに聞こえないようにか、少し声を落として、ルクレチアは言った。


「〈あらざる国〉へ……行くの? これから?」


 アンリも思わず声を落としてルクレチアに囁いたのだが、答えたのは振り返ったサリオンだった。


「これが最後です、王子──引き返しますか?」


 思いがけず、見上げた瞳はひどく優しかった。


「僕は──」


 白い敷布に広がっていた金色の髪。少しだけ色を失った、アンリのためには決して微笑まない唇──


「──クララを助けたい。そのために、どうしても行かなきゃならないなら……僕は、どこへだって行くよ」


 サリオンの白い頬にはっきりとした笑みが浮かんで、アンリは少しほっとした。

 本音を言えば、逃げ出したい気持ちもまだ大きかった。行く先の不明瞭な不安と恐怖で、心臓のあたりが痛いようにどきどきしている。

 もしも今──


 アンリは慌てて目をきつく閉じた。頭を強く振るとと、少しだけ鼓動がおさまった。

 尻尾を建てたルクレチアが、首を傾げて見上げている。


「何してるんです?」

「なんでも……」


 笑おうとして、アンリの目は、サリオンの灰色の後ろ姿に引き寄せられた。巨石を覆い隠すように茂っていた蔦や蔓は、今しも取り払われようとしている。

 その灰色の背で無造作に編まれた銀の髪の上を、何かが転がった。


「あ、鈴なんだ」

「え? ……あぁ、そうです」


 灰色の三角帽子の先端で、スモモ程の大きさの透明な鈴が、揺れて輝る。

 馬の背で必死に後ろ姿を見つめていたときに、ちらちらと光って気になっていたものの正体が、ようやく分かって、アンリは小さく笑った。

 透き通った丸い鈴が尖った帽子の先で揺れる様は、なんだか可愛い。

 サリオンは一瞬、アンリを振り返ったが、すぐに最後の蔦を除ける作業に戻っていた。


「きれいだね……それはガラス?」


 言ってアンリは、首を傾げた。

 サリオンの動きに沿って転がる透明な球の中で、小さな珠が転がっているのが確かに見える。


「……鳴らないの、それ?」

「鳴りますよ」


 少しだけこちらを向いて帽子の端を持つと、サリオンは軽く振ってみせた。


 コロン──と、今までに聞いたどんな鈴の音よりも澄んだ響きが、朝の湿った空気の震えて──そしてサリオンが帽子の端を無造作に背に放ると、途端に消えた。


「え、サリオン……」

「しっ──お黙んなさい」


 ルクレチアに注意されるまでもなく、言葉は続かなかった。


 苔になかば覆われた一枚岩の表面に、サリオンは両手を押し当てている。

 高い背を伸ばして立つ、灰色のマントを羽織ったきりのその後ろ姿は、王冠を戴いた父よりも堂々として見えた。




「──目覚めよ、(いわお)


 湿った空気が応えて震える。

 続く沈黙は、アンリにはひどく重く、長く感じられた。


「…………」


 低い、それは吐息のようだった。

 アンリは息を飲んだ。


「……、……」


 湿った苔に覆われた岩の真ん中あたりが、ゆっくりと落ちくぼんでいき、ぎしぎしと軋み混じりの吐息がそこから漏れてくる。


「……(われ)に目覚めよと命ずるは、如何(いか)なる者か……()が長きまどろみを破らんとする、そなたは何者だ」


 地鳴りのような低い声に合わせて、岩の割れ目がゆっくりと(うごめ)く。

 サリオンはただひとこと言った。


「サリオン」


 すると、なかば閉じた割れ目の上に、もう一つの窪みが現れた。左右に分かれた裂け目から、なめらかな黒っぽい石が覗いてぬらりと光る。


「……(うつ)ろの朋友サリオンか」

「そう呼びたければ」


 長い吐息が地面を揺する。


「世に(まれ)なる者よ──そなたを阻む理由が吾にあろうか?」


 低い余韻をかき消すように、鈍い轟音が響き始めた。

 岩に裂け目がゆっくりと閉じ、同時に一枚岩全体が、何かに押されているかのようにまっすぐに後退していく。


「イストへの門ですよ」


 うろたえて見下ろしたアンリに、ルクレチアはそっけなく言った。

 岩のあった場所は今は四角く暗い窪みで、数歩先より向こうは、果ての見えない闇に続いている。

 先頭に立って、サリオンは振り返った。


「私のすぐ後を付いて来てください。決して離れないように──もしはぐれたら、私には助けられませんから」


 硬い緑色の瞳を見上げて、アンリは頷いた。鼓動が耳元で聞こえるほど緊張していたが、躊躇う気持ちは起きなかった。


「キャンベルローズ、メイアッシュを頼みます」

「分かっている」


 振り返るとキャンベルローズが、メイアッシュの手綱を短く咥えていた。栗毛の若駒はおとなしく従っている。煉瓦色のルクレチアは、尻尾をぴんと立てて、サリオンのすぐ足下にいる。


 岩の窪みの暗闇に足を踏み出すとき、一度だけ、サリオンはアンリを振り返ったようだった──


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