3.火語り
小さくなった炎をつつくサリオンの膝で、ルクレチアは丸くなっている。
炎の向こうでアンリは、毛織の布にくるまって眠っている。
キャンベルローズとメイアッシュは、焚き火から離れた木陰で休んでいるようだ。
「……いったいなんだって、こんな役にも立たない子供を連れて行こうと思ったんです?」
サリオンは小さく肩をすくめた。
「しかたがないでしょう。どうやったってこの子は、私たちの跡を追ってくるんですから」
「足手まといになる以外にできることなんて、あるわけないじゃないですか、この子に。どうせ一人じゃ、門から向こうへは行けやしないんですよ? それに、あんなチャチな呪い──本当に解けないんですか? あなたに?」
炎が新たな枝を舐め始めて明るくなると、サリオンは小枝を置いて、ルクレチアの煉瓦色の頭を撫ではじめた。
「呪文は呪文です。無理に解けば、掛けた呪文師にその衝撃が返るでしょう」
「十年以上も前の話ですよ? こんな下手な術しか使えない呪文師なんて、とっくに寿命を縮めて死んでますよ」
「……そうなんですか、王子?」
途端、ルクレチアは呆れたようにため息をついた。
「サリオン──せっかく眠ったふりをしているのに、可哀そうじゃありませんか」
それで仕方なく、アンリは目を開いて起き上がった。
「……ふりをしてるって分かってるにしては、ずいぶんな言い方だったじゃないか」
傷ついた口調で呟くアンリに、ルクレチアは小さく鼻を鳴らした。
「あら。本人が聞いていないところで悪口を言うだなんて、失礼じゃありませんか」
「悪口は、こっそり言うものだよ……」
「そうでしたか?」
ルクレチアは大げさに目を見開いて、サリオンを見上げた。炎を宿して琥珀色の瞳が輝く。
「それで、どうなんです、王子?」
しかしサリオンは、ルクレチアに応えるつもりはないらしかった。
「どう……ああ、呪文師? 去年の暮れに会ったときには、元気みたいだったけど……本当? 呪文を解くことができるの? ──魔法で?」
最後の言葉は、囁きに近かった。それは、ずっと口にしたかった言葉だった。
『魔法』には、呪文とも魔術とも違う、不思議な響きがあった。
誰も、魔法について多くは語れなかった。そして誰も、サリオンよりほかに『魔法使い』を知らなかった。
「そう、まあ──魔法の力ですね」
「すごいや。本当に魔法使いなんだね!」
思わず弾んだ声になった。しかし途端にサリオンが深いため息をついて、アンリは戸惑った。ルクレチアが小さく笑う。
「お諦めなさいな、サリオン。どこかのお節介が『魔法使い』なんて言葉をこしらえた時から、あなたの運命は決まってしまったんですよ」
「魔法使い、じゃないの……?」
澄まして見上げるルクレチアと、ためらいがちに窺い見るアンリとを束の間見比べた後、サリオンは小さく息を吐いて肩をすくめた。
「お好きなように」
相変わらず穏やかな声だが、どこか投げやりなようにも聞こえて、アンリは慌てた。
「ごめんなさい! みんなが──父上も──あなたは『魔法使い』だって、言ってたから……! 魔法使いとか、放浪者とか、死の先触れ、とか……」
取り繕うように言い始めたものの、言葉はすぐに勢いをなくして、最後は気まずく宙を漂った。
「──他の呼び名もぜんぶ、教えてあげたらいかがです、サリオン?」
どこか面白そうに言うルクレチアの体は、揺れる炎を映して金色を帯びていた。
「あの……嫌いならもう言わない。けど……でも僕、なんて呼べばいいの? その──あなたを?」
「サリオンでいいんですよ。それが私の名前です」
炎ごしに目を上げたサリオンの瞳は、相変わらず硬い石のようだったが、オレンジの炎を映したその色は、いくらか和らいで見えた。
「わかった──サリオン」
「はい──明日は早いですよ」
毛織の布に肩までくるまってからも、アンリは炎の向こうに浮かぶサリオンの白い顔を見つめていた。柔らかい下生えは、しかし横たわるには固かった。
「眠れないんですか?」
薪の山が崩されて、炎が勢いを弱める。
炎が小さくまとまると、サリオンは小枝を置いて目を上げた。ルクレチアはその灰色の膝で、自分の膝に鼻先を埋めるようにして丸くなっている。
「──どうして、一緒に連れていってくれるの?」
サリオンが、もの問いたげに小さく首を傾げる。
「たぶん、どうすることだってできるんでしょう? 追い返すことだって、呪文を解くことだって、あなたには……」
「心配しなくても、眠っている間に置いていったりはしませんよ」
サリオンの口元に、判るか判らないかの笑みが浮かんだ。
胸のうちを見透かされたようで、アンリは毛布を引っ張り上げて視線を落とした。
「──ではたとえば、あなたが誰かの跡をつけたとしますね」
束の間の後、サリオンは静かに話し始めた。
「その人が、たとえばどこかの部屋に入って──追ってきたあなたは、その人に気づかれずに同じ部屋に入ることができます。でもその人が、あなたに気づかないまま部屋を出て、扉に鍵を掛けてしまったら?」
目を上げるとサリオンが、まっすぐに見つめていた。
「その人がどこへ行ったか、あなたには分かるでしょう。でもあなたには、扉が抜けられない──そういうことです」
アンリは、よく分からなくて眉を寄せた。
「これから行くところへは、非常に危険な場所を通っていかねばなりません。危険な場所に着く前に見失ってくれればいいのですが、危険な場所の中ではぐれてしまうと、あなたは永遠に、その場所から出られなくなるのです」
アンリはゆっくりと、唾を飲み込んだ。
「私の力でも、あなたをそこから救うことはできません」
幼い頃の悪夢が蘇る。〈あらざる国〉の、鬼や小人──
「──帰りますか?」
優しい声。
アンリは首を振った。きつく目を閉じて、幻を追い払う。
「なぜ、あなたはそうまでして、私について来ようとするんです?」
そっと目を開くと、意外なことにサリオンは微笑っていた。
「僕──」
固い地面の上で何度も身じろぎした後、ようやくアンリは口を開いた。
「──クララに嫌われてるんだ」
サリオンの目が意外そうに見開かれて、アンリは慌てて続けた。
「そんなつもりじゃなかったんだ。……二年前に、母上が亡くなってすぐ、父上がクララを連れてきたんだ。僕の母上とクララの母上は、仲が良くなかったみたいで──それでクララは、ずっと別の場所で暮らしてたんだけど……」
「知ってますよ」
今度はアンリが目を見開いた。
「五年ほど前、森の中で怪我をしていた私を見つけて、親切に手当てをしてくれた少女がいました。何かお礼をしたかったのですが、その子はどうしても受けようとはしなかったんです」
「クララが……?」
サリオンは小さく頷いた。
「憶えてはいないかもしれませんけれどもね。もし運良く間に合えば、五年振りに借りを返すことができます」
ふと、アンリは胸苦しさを覚えた。
「噂は、本当なの? クララは──もう何日も、もたないって……」
サリオンの唇から笑みは消えたが、その表情は相変わらず穏やかだった。
「時が経ちすぎていますからね。できるだけのことはしてみますが──それで?」
「え……?」
「妹君に、嫌われていると」
「ああ──えっと……」
静かに促されて、ようやくアンリは続けた。
「僕は……初めてクララに会って、すごく嬉しかったんだ。僕、兄上は四人もいるんだけど、皆もう大きくて、僕みたいな子供には構ってくれないから。クララとは二つしか違わなかったし──クララは、とてもきれいだったし……」
「分かりませんね」
サリオンの手は、なかば無意識のようにルクレチアの煉瓦色の背を撫でていた。
「絵がね、上手なんだ──クララは。それで、来てすぐの頃に、城の囲いのところで絵を描いていたんだけど。僕──つい、可愛い豚だねって、言っちゃったんだ……」
「何を描いていたんです?」
「羊」
サリオンはため息をついた。
「それっきり、ろくに口もきいてくれないんだ……」
「どうしてそんなことを言ったんです?」
「分からない……気がついたら、もうクララは怒ってたんだ……」
わずかに目を細めたサリオンが、呆れているのか面白がっているのか、アンリには判らなかった。
「もしか──僕があなたを手伝ってクララを助けることができたら、それを知ったら──クララも少しは、僕のことが好きになってくれるんじゃないかなって……」
「なるほどね」
言って、サリオンは小さく息を吐いた。
「それなら、もう何も言いません。ただし、さっき話したことは本当ですよ。私の言うことがきけないときは、身の安全は保障しません」
「分かってる」
今度は躊躇わなかった。
「──空が明るくなったら、すぐに出発します。もう眠ったほうがいいですよ」
「サリオンは?」
アンリは毛布をさらに引っ張り上げた。
「眠りますよ」
「わかった……おやすみなさい」
アンリは毛布をしっかり肩に巻きつけたが、何度身じろぎしても、背のどこかしらが痛かった。
「金の寝台でも出してあげたらいかがです、サリオン? 銀の天蓋の付いたのを。指をひとつ鳴らしてね」
少しくぐもった高い声に、アンリは驚いて頭を上げた。
「起きていたんですか、ルクレチア」
サリオンも少し驚いたようだ。
「お城育ちの王子様が野宿だなんて──考えただけでもお気の毒で、とても眠れやしませんよ」
「眠れるよ!」
アンリは思わず声を上げた。
サリオンの膝で丸まったままのルクレチアの、琥珀色の目が残り火を映して細く光る。
「それを聞いて安心しました」
煉瓦色の額を撫でながら、サリオンが微笑う。
息を吸ったものの何も言葉が浮かばなかったので、アンリはそのまま寝返りを打って頭まで毛布にくるまった。
甲高い、喉の奥でくぐもるような笑い声が聞こえたが、絶対に目を開けないと心に決めて──やがて本当に音のない闇へと落ちていった。