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16.アンリ

「アンリ……!?」


 ルクレチアのかすれた悲鳴が聞こえたが、止まらなかった。


「あの、お願いです……!」


 姫たちの前の草地に膝をついたアンリの横顔を、リングレットが驚いたように見つめている。


「アンリ──あの馬鹿!!」


 飛び出そうとしたルクレチアは、まぎわで灰色の腕に抱き上げられた。煉瓦色の背を白い毛の波が鋭く走る。


「ちょっと、サリオン!?」

「おとなしくしていなさい、ルクレチア」


 煉瓦色のルクレチアを抱きしめて、サリオンはただまっすぐにアンリを見つめていた。

 五人の姫は、それぞれに意外そうな目でアンリを見下ろした。


「エルデンのアンリ。あなたの働きには感謝しますが、これはあなたには関わりないことですよ。あなたに、リングレットを庇うどんな理由があって?」


 ベル=エスターがひどく優しい口調で、しかしきっぱりと言う。アンリは、その濡れたような黒い瞳を見返した。


「……確かに、僕はエルデンから来た小さな子供にすぎません。でも、僕の妹はクレア=ムーシュと間違えられて、死にかけたんです。僕にも、少しは関係があると思います」


 誰も口を開かない。


「僕の言葉には、何の力もありません。リングレットのことも、ほとんど知らないし……でも──」


 言葉はあふれ出して止まらなかった。


「永遠に消えない罪が、本当にあるんですか? 時間もなにもない、何も分からない、そんな場所に放り出されて……逃れる希望もなくて──そんな罰に、どんな意味があるんですか? 後悔することもできないなんて……」

「リングレットは、決して触れてはならないものに触れたのです。イストは崩壊の危機に瀕し、あなたのエルデンも、大きな被害を受けました。その傷は、まだ大地に深く残っているのですよ」


 エヴァ=ステラの声は穏やかだったが、岩のように厳しかった。


「──それは、永遠に癒えない傷ですか?」


 石のような虹色の瞳が少し見開かれた。


「僕には、永遠なんてわからない──たぶんあなたたちにしてみれば、あと五十年足らずで死んでしまう僕なんて、ほんの一瞬の、ちっぽけな存在でしかないんだろうけど……」


 それでも、明日があることを知っている。

 辛いことも苦しいことも、変わっていくと信じている。

 信じているから、どんな苦難も乗り越えて、明日を目指して歩いていける。


「──でも〈(はざま)〉じゃ何も変わらない。希望も後悔も、何も変えられない──永遠に……」


 言葉はかすれて行き場を失い、それ以上は続けられなかった。

 どんなに言葉を連ねても何の意味もないだろうことは、アンリにも分かっていた。今の自分に、いったいどんな力があるというのだろう──


 そのとき、ミステラ=リリアの剥き出しの腕で、翼のあるトカゲがゆっくりと蠢いた。肩まで這い上がり、炎のような髪をかき分けて耳元に小さな頭を寄せる。

 火のような瞳が束の間伏せられ、ふいに閃いてリングレット見つめた。


「リングレット──この火竜(かりゅう)のために、もう一度申し開きをなさい」


 リングレットの青白い顔がゆっくりと上がり、藍色の瞳が燃えるような朱の瞳とぶつかった。


「かつてお前が(わたくし)のもとで、この火竜たちの世話をしたことを、この子たちは忘れてはいません」


 銅色の小さな頭が、振り向いてじっとリングレットを見つめている。


「わたしは──」


 ようやく押し出した声は、かすれて低かった。


「私が、炎を少しだけ操れるようになったとき、あなたがとても褒めてくださったから……ただそれが……嬉しかったから……」

「だから、トーリの火炎を手懐けたというの? この(わたくし)でさえ、あの炎には触れないというのに──そんなトーリの火口で産まれた娘だから、私はお前を愛したのに」


 ふいに遠くを見つめるような目をして、リングレットは再び地面を見下ろした。


「──だから、トーリの炎を操れば……あなたがまた、私を見てくださると……」


 その横顔は、蝋のように白かった。


(わたくし)がお前を愛さなくなったのではないわ──お前が、私の前から姿を消したのよ。お前は数百年というもの誰にも姿を見せず、そして突然、トーリの火炎を掲げて現れた──あのとき、すぐに炎を手放すことだってできたなずなのに、お前はそれをしようとはしなかった。理由すら、言おうとはせず……」

「あなたが──あんまり激しく、お怒りになったから……」

(わたくし)が怒ったのは、お前の行為が、自然の力に対する冒涜だったからよ、リングレット。お前の心があのとき、あんなに頑なでさえなかったら……」


 細い指が、尖った草の束を握りしめる。


「ほかの妖精たちが──誰もが、私を忘れ去っていて……誰も、私を恐れるばかりで……」

「何百年も姿を見せなかったあなたを思い出せなかったからといって、妖精たちを責めるのは、身勝手というものでしょう、リングレット」


 ベル=エスターが静かに、諭すように言う。


「誰も、私を知らない気がして……もう何も……残されてはいない気が、して……」


 俯いた色のない顔が、ふいに上げられた。藍色の瞳が戸惑ってさまよう。

 輝く結界の輪のすぐそばに、銅色の小さな竜が、軽い羽音をたてて舞い降りた。鉄色の目が、くるくると動いて藍色の瞳を見上げる。

 首を傾げてこちらを見つめる火竜に向かって、リングレットはふいに手を差し出した。


「っ!」


 その白い手が、輝く輪の真上で弾かれて落ちる。


「キゥ……」


 火竜が哀しげな鳴き声を上げる。その鉄色の目を見つめるリングレットの瞳から、ふいに涙があふれ出した。


「──この子たちは忘れません。老いたものが死に、お前を知るものが絶えても、かつて火竜を愛したリングレットの名を、この子たち決して忘れません──永遠に。リングレット……誰ひとり、お前を憎んだ者などいなかったのですよ」

「わたしは……!」


 声はかすれ、もう言葉にはならなかった。巻き毛が乱れて広がる。濡れた地面に額を押し当てて、肩を震わせてリングレットは泣いた。

 アンリには、もうどうすることもできなかった。リングレットの罪の大きさも、それに対して下される罰の重みも、アンリに理解できる世界の話ではない。

 ミステラ=リリアが踵を返したとき、アンリは、自分の無力を思い知って唇を噛んだ。


「このミステラ=リリアの庇護する火竜への、過去の献身的な愛情を以て、(わたくし)はリングレットへの罰の軽減を求めます」


 アンリは驚いて目を瞠った。輝く輪の中でゆっくりと、濡れた顔が上がる。

 ミステラ=リリアは、その蝋のような顔を見ようとはしなかった。


「このたび、クレア=ムーシュの命を危険にさらしたことも、過去の功績を以て免じられるべきことですか?」


 静かなシィラ=ドリーの声に、姫たちは互いに目を見交わした。


「このたび、命を危険にさらしたのはふたり──結果的に大事には至らなかったのですから、ここは当事者の意向を尊重するべきではありませんか?」


 エヴァ=ステラが穏やかに言った。


「一方の当事者については、兄であるエルデンのアンリより免罪の申し出がありました。ですから(わたくし)は、クレア=ムーシュの判断を以て決定すべきと考えますが、いかがです?」


 エヴァ=ステラの言葉に姫たちはそれぞれに瞳を合わせ、ひとりずつ頷いて、クレア=ムーシュを見つめた。

 クレア=ムーシュは四人の瞳を順に見つめてから、束の間目を閉じ、それからゆっくりと顔を上げてリングレットを見下ろした。


(わたくし)は──夢の外れであなたと過ごした時を、決して忘れないでしょう」


 見つめ合う瞳には、およそどんな表情もなかった。


「でも今は、(わたくし)の心に怒りはありません──もとよりいかなる憎しみも。リングレット、私はあなたを哀れだとは思いません。でも、このエルデンのアンリが言うように、どんな傷もいつかは癒えるなら──私の心が変わったように、あなたの心もいつか変わるというのなら、いま一度だけ、あなたを信じましょう──私のために力を尽くしてくれた、この小さな案内人の勇気に免じて」


 藍色の瞳が大きく見開かれ、新たな涙が湧きあがった。


「姫……」


 信じられない気持ちで、アンリはリングレットとクレア=ムーシュを見つめていた。どういう結果を招いたのか、正直よく理解できてはいなかったが──たぶん最悪な方には転ばなかった。

 力が抜けて座り込むと、腰のあたりに、煉瓦色のルクレチアが思い切り頭をぶつけてきて、そのまましばらく動かなかった。




 クレア=ムーシュは表情を変えず、胸の前に両手を差し出すと、ふっと吐息を吹きかけた。白い手のひらの中で空気が渦巻き、やがて白い珠の形になった。珠には鈍くきらめく細い輪が通っている。

 クレア=ムーシュが振り返ると、四人の姫が次々と、同じように手の上に小さな珠を創り出した。それぞれの輪を手に歩み寄り、クレア=ムーシュの輪の上に、四本の輪が重ねられる。五本の輪はかすかにきらめき、次に瞬きしたときには、クレア=ムーシュの手の上に、輝く五つの珠を通した一本の細い輪が乗っていた。

 五つの珠はそれぞれに、羽の白、草の緑、深い湖の色、移ろう虹色、そして炎の朱色に輝いていた。


 クレア=ムーシュは、細い輪を手に円い結界へ近づいた。まだリングレットを見つめて座り込んでいた火竜が、おずおずと後ずさる。

 細い白い手が首に回って新たな輪をはめるのを、リングレットは濡れた瞳を伏せたまま、身動きひとつせず待っていた。ふわりと、身を引くクレア=ムーシュの白いガウンが濡れて色のない頬をかすめる。


「その輪の五つの珠は、百年が過ぎるごとに、一つずつ消えていきます」


 クレア=ムーシュが戻るのを待って、ベル=エスターが厳かに語った。


「その間にわずかでも、あなたが自然や魔法の力に干渉すれば、そのたび輪には新たな珠が加わります。──すべての珠が消えたとき、あなたの前に、イストへの門は開かれるでしょう」

「──お心に感謝します……」


 言葉がかすれて消えたのは、あふれだした涙のせいだった。

 俯いて頬を濡らすリングレットの横顔を、アンリは少し複雑な気持ちで見つめた。

 それは、アンリにとっては永遠と同じ意味だったが──彼らにとっては、限りある時間に過ぎないのだろう。たとえそれが、気が遠くなるほど永い年月だとしても。




 イストから追放されるリングレットの行先は、エルデンだった。

 リングレットはフォーロットの更に北の、連なり続く岩山の奥に住むことを望み、姫たちはそれを許した。


「でも、雪が降るよ?」


 思わず声を上げると、姫たちや、リングレットまでが驚いたように目を見開いてアンリを見た。


「冬になったら、フォーロットより北は雪が積もって、とても人は住めなくなるんだ。もうちょっと……せめてフォーロットくらい南なら、そんなに長くは積もらないし……」

「アンリ──遊びに行くんじゃないんですよ?」


 傍らで、ルクレチアが呆れたように煉瓦色の尻尾を振る。


「でも、本当に……」

「火を熾すこと自体は、自然への干渉ではないのよ、エルデンのアンリ。無から生み出したり操ったりしなければね」


 ミステラ=リリアの声も、少し呆れているようだ。


「あの、でも……」


 それでも何とか冬山の厳しさを説明しようと、言葉を探すアンリを見上げて、リングレットがごく小さく微笑んだ。


「ありがとう、エルデンのアンリ──雪も寒さも、耐えられないものではないの。ただ、誰も訪れない場所へ行きたいだけ……でも、あなたの言葉は忘れないわ」


 その言葉は不思議と優しく、アンリは戸惑って俯いた。頬が紅潮していくのが分かる。


「僕はなにも……ただ、僕は……」


 言葉はたやすく唇から滑り落ち、それきりどうしても続けることができなかった。

 ふいに白い手が差し出され、見上げると、藍色の瞳が穏やかに見つめていた。少し躊躇って、アンリはそっと、その骨ばった手を握った。


「あの、元気で……」


 言ってから、どうにも間の抜けた台詞だったと思ったが、どうにもならなかった。


「気をつけたほうがいいですよ、トーリのリングレット──その子の前に不用意に足跡を残すと、一生追い回されることになりますからね」


 咄嗟にアンリは振り向いたが、煉瓦色のルクレチアは、つんとそっぽを向いていた。


「トーリのルクレチア」


 リングレットが静かに声をかける。ルクレチアはそっぽを向いたまま、琥珀色の目だけを動かした。


「サリオンがなぜあなたを連れているか、分かる気がするわ──少しだけね」

「それはどうも」


 ルクレチアの口調は、ひどく素っ気なくアンリには聞こえたが、その目は、藍色の瞳をじっと見つめていた。

 立ち上がったリングレットは振り向いてサリオンを見つめ、サリオンもその瞳を見つめ返したが、二つの唇が動くことはついになかった。


 結界としての意味を失くした輪の中央に、再びリングレットが立つと、輪が強い光を放ち始めた。


「火竜の庇護者リングレット」


 ふいに、ミステラ=リリアが声をかけた。


(わたくし)は、待たされるのが何より嫌いよ。よく憶えておきなさい」


 今や激しく輝いている円の中で、リングレットは一瞬目を見開き、それから深く(こうべ)を垂れた。

 光の柱が眩く輝き、次の瞬間、顔を伏せたままのリングレットと共に消え失せた。


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