15.審判
そこは湧き出る泉のほとりだった。
大きく息を吐いて、アンリは柔らかい草の上に座り込んだ。たて続けに、静まり返った水面からキャンベルローズとメイアッシュが現れて、草地に降り立つ。
水面には相変わらず波紋ひとつ起きなかったが、アンリはもう、それを不思議なこととも思わなかった。傍らで暗い煉瓦色のルクレチアが、土くれで汚れた体を不機嫌そうに見回している。
顔を上げるとすぐ側で、サリオンとリングレットが膝をついていた。俯いたリングレットの体は小刻みに震えているようで、乱れた巻き毛に隠れて表情は窺えない。手はまだしっかりと、サリオンの手を握りしめていた。
サリオンは首を傾げて、黒髪に隠れた顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
かすかに頷いて、リングレットはサリオンの手をようやく離した。
サリオンは立ち上がって、木立に囲まれた周囲の様子を見回している。
「あの……」
アンリが躊躇いながら手を差し出すと、リングレットはのろのろと顔を上げた。疲れたように表情の落ちた顔は、まだ青白い。
藍色の瞳がぼんやりと茶色の瞳を見上げ、差し出された小さな手に落ち、もう一度子供っぽい顔を見上げて──白い手がようやくアンリの手を取った。
サリオンは二人の様子を束の間見つめて、何も言わずに木立へと歩いていった。
アンリの手を握ったリングレットの骨ばった指は、まだ少し震えていた。ゆっくりと立ち上がったその背はアンリよりもずっと高く、アンリには支えられそうもなかったが、それでも寄り添ったまま、リングレットはアンリに手を任せていた。
木々の間で何かがきらめいた。
「サリオン?──そこにいるのは、サリオンね?」
歌うような涼やかな声。
「まあ、サリオン──鱗の理解者よ!」
まばらな森を抜けるとそこに、鏡のような穏やかな湖面が広がっていた。胸まで水につかった青白い髪の娘が二人、目を見開いてこちらを見つめている。
「まさか、泉の門を通るなんて!」
サリオンが岸辺に膝をつくと、娘たちは競い合って、サリオンの手に触れようとした。
「姫は──シィラ=ドリーは塔ですか?」
両手を娘たちに預けたまま、サリオンが言う。二人は瞬きして顔を見合わせた。
「姫様は、羽の塔に行かれたわ──あなたが知らないなんて!」
「クレア=ムーシュが目を覚まして、姫たちを呼んだのよ」
「そうですか──ありがとう」
サリオンが立ち上がると、娘たちは名残惜しそうに手を解放した。
「また来てね、サリオン!」
「きっとよ──!」
木立の間で一度振り返ったアンリは、手を振りながら湖面から身を乗り出した娘たちの腰から下が、輝く鱗に覆われているのに気がついた。しなやかなヒレのある尾が、名残惜しげに水面を叩いて音を立てた。
湖の周囲の地面は砂混じりで柔らかく、それが下生えに覆われて固くなると、サリオンは再びキャンベルローズに乗った。サリオンの後ろに乗せられたリングレットは、不安げに地面を見下ろしている。
「落ちませんよ」
それでも、怪訝そうに鞍をつついたり象牙色の毛皮を撫でたりしていたが、最後には諦めた様子で、リングレットはサリオンの腰に腕を回した。
揺れる灰色の三角帽子が何度も顔にぶつかるので、リングレットは片手で帽子を押さえた。そのおかげで木立から草原へと駆けるあいだ中、ガラスの鈴はコロコロと澄んだ音を響かせていた。
小刻みに震えるガラスの音を聞きながら、翻る銀の髪と灰色のマントと、もつれてなびく漆黒の巻き毛を、アンリはずっと見つめていた。
白く震える羽の塔の周りには、大勢が集まっていた。
大きく円を描いてざわめいている様々な住人たちの真ん中に、五つの小柄な人影が見える。そのひとつが、歓声の中をこちらに向かって駆け出した。
「──サリオン!!」
ざわめく輪の外でキャンベルローズから滑り下りたサリオンの首に、真っ白い人影が飛びついた。大きく波打つ純白の髪が翻り、サリオンは苦笑して腰を屈めた。
「ああ、サリオン──我が救い主よ!」
呆然として鞍から滑り下りたアンリは、まだ鞍の上に座っているルクレチアの、呆れたようなため息を間近で聞いた。
「これでまたひとつ、呼び名が増えましたよ」
白い腕をつかんで促されて、クレア=ムーシュは渋々の様子でサリオンから離れた。それから、サリオンの背後に立つ、疲れた様子のリングレットを見上げる。
どこか懐かしいような奇妙な気持ちで、アンリはその白い髪の少女を見ていた。
大きな空色の瞳は見開かれていたが、そこに、夢の中で見たような怒りの色はもうなかった。その顔はやはりクララにそっくりで、そして見間違えようもないほど、違っていた。
サリオンが差し出す輝く首輪を受け取って、クレア=ムーシュは改めてリングレットへ向き直った。
「──これを再び課すかどうかは、私の一存では決められません」
リングレットはただ青白い顔で、小柄な少女を見つめていた。
サリオンとクレア=ムーシュが近づくと、ざわめくひとの輪は大きく広がって静まり返った。
幾重にも膨れ上がったその輪の一番内側のあたりに、ヴァニーが立っている。藍色がかった黒髪は不揃いながらもいくらかまとまり、その額で、真珠を飾った銀の冠が陽光を浴びてきらめいてた。
「サリオン──宿り木の賓客よ」
輪の真ん中から、緑の髪を滝のように垂らした〈地〉の姫ベル=エスターが、軽やかに近づいてきた。黄緑色の花を編み込んだ草の冠をかぶっている。
サリオンが膝をつくと、小柄な少女は腰を屈めて、サリオンの額に唇づけた。それから振り向いてアンリを認め、小さく微笑む。
「エルデンのアンリ、また会えて嬉しいわ」
少しだけ背の低いベル=エスターから頬に唇づけを受けて、アンリは目を見開いた。赤くなった顔を見て、ベル=エスターがいっそう笑う。
跪いたままのサリオンの前に、不思議な髪色の少女が歩み寄った。
「ご苦労でした、サリオン──虚ろの朋友よ」
身の丈ほどもある硬質の髪は、虹を絡ませてでもいるように、少女の歩みに合わせてさらさらと色を変えて輝いていた。何色とも判らない瞳は石のように穏やかで、ひどく大人びて見える。
腰を屈めてサリオンの額に唇づけると、虹色に透けるガウンが揺れて、様々の宝石を連ねたベルトが硬い音を立てた。癖のない髪が、サリオンの頬にさらさらと触れる。
「エルデンのアンリよ、エヴァ=ステラ」
もの問いたげに顔を上げた少女に、ベル=エスターが言った。
〈土〉の姫エヴァ=ステラは、考えるふうで少し首を傾げ、それからごくかすかに微笑んでアンリの頬に唇づけた。
「鱗の理解者よ」
その瞳は真珠のようだった。深い湖のような色の髪が波打って、サリオンの頬をかすめる。髪と同じ色の薄いガウンの胸元で、大粒の真珠が連なって鈍い輝きを放っていた。
サリオンの額に唇づけた〈水〉の姫シィラ=ドリーは、小首を傾げてアンリを見上げ、それからかすめるように頬に唇づけた。
「サリオン──我が陽炎の寵児よ」
オレンジ色のガウンが翻る。逆巻くように揺らめく髪は、まるで炎そのもののようだ。
ふと振り返ると、たたずむリングレットはじっと目を伏せたまま、朱色の少女を見ようともしていなかった。
〈火〉の姫ミステラ=リリアは、剥き出しの腕をサリオンの首に回して額に唇づけた。その腕に、コウモリのような翼のある銅色の小さなトカゲが巻き付いて、鉄色の瞳をしきりに動かしていた。
近づく朱色の髪は燃えるようで、熱さすら感じられそうで、思わずアンリは後ずさりそうになった。
勝気そうな美しい顔は一瞬しかめられたが、すぐに悪戯っぽく微笑んで、細い指がアンリの顎をつかまえて赤い唇が頬に触れた。柔らかい感触は冷たかった。
「羽の擁護者サリオンよ、あなたに感謝します」
最後に歩み寄った〈気〉の姫クレア=ムーシュは、目を閉じてそっとサリオンの額に唇づけた。
「その髪のせいで、私はとうぶん皆から意地悪をされそうよ──ベル=エスターったら、みんな私のせいにするんだから」
唇を寄せたまま、そっと囁く。波打つ白い髪の陰で、サリオンは少しだけ微笑んだようだった。
クレア=ムーシュが振り向いたとき、アンリは少しうろたえた。少女のような瞳の、妙に大人びた表情はクララとはまったく違っていて、やはり取り違えるほどよく似ていた。
「エルデンのアンリ──小さな案内人よ」
その顔はアンリといくらも変わらない少女のものだったが、見つめられるとやはり、アンリは自分のほうがひどく幼い子供であるように感じてならなかった。
「あなたの果たした功績は、このイストで栄誉と共に永く語られることでしょう」
クレア=ムーシュは爪先立って、アンリのこめかみに唇づけた。白い羽根の耳飾りが揺れて、アンリの首筋をかすめる。
「──ありがとう、お兄様」
その声は、たぶんアンリにしか聞こえなかった。
驚いて身を引くと、クレア=ムーシュは微笑んで片目をつぶってみせた。
「どうしたんです?」
ルクレチアが怪訝そうに見上げている。
アンリは真っ赤な顔で、踵を返したクレア=ムーシュの翻る白いガウンを呆然と見つめていた。
静まり返ったひとびとの大きな輪の中央で、五人の姫は半円を描くように並んだ。
サリオンが手を差し伸べると、リングレットは黙ってその手を取り、導かれるままに姫たちの前まで連れられて来た。人や獣や、そのどちらともつかないものたちが、固唾を飲んで見つめている。
ベル=エスターが、片手をリングレットに向かって差し出した。
「結界を」
厳かな言葉に、四人の姫もそれぞれに片手を差し出す。
ふいに空気が渦巻いたかと思うと、リングレットの足下に、五つの輝く輪が次々と落ちた。細い輪は重なり合って一本の線となり、その輝く円の真ん中で、リングレットは疲れたように膝をついた。
サリオンの説明はひどく簡単で、そそり立つ三枚の岩のことやせめぎ合った炎の海のことは、ほとんど語られなかった。そして泉の門に至った経緯については、サリオンはひと言も触れなかった。
サリオンが語る間、リングレットはほとんど身じろぎもせずに、ただ俯いていた。一度だけ、ためらうような瞳が居並ぶ姫たちを見上げてさまよったが、冷たい朱色の瞳にぶつかると、力を失くして地面に落ちた。
「私は判断を下す者ではありません。すべては柱の姫の手に委ねます」
最後に静かに言って、サリオンは輪の中心から下がった。
静寂が落ちる。
知らず、アンリは藍色のマントの端をきつく握りしめていた。
「罪状は明白です」
真珠色の瞳のシィラ=ドリーが、冷たいほど穏やかな声で沈黙を破った。
「二度までもイストを脅かした者に、私は追放を求めます」
うなだれたリングレットの肩が、びくりと強張る。
「──罪人には、申し開きをする権利があるわ」
声を響かせたのは、ミステラ=リリアだった。リングレットの顔がゆっくりと上がる。その藍色の瞳を見下ろす朱色の瞳は、燃えるように厳しかった。
「五百年前、お前は申し開きすらも拒絶しました。今、語るべきことがあるなら──お話しなさい、リングレット」
しかしリングレットは、再び地面に目を落とした。
「なにも……」
その声は低く、かすれていた。
「……お話しするようなことは、何も、ありません……」
「では、受け入れるのね? 〈間〉を永遠にさまようことを──今度は、夢の中へ逃げ込むことはできないのよ」
「……私は……ただ、あなたに──」
言いかけて、ふいにリングレットは言葉を切った。骨ばった指が、湿った草を握りしめる。
「──いいえ……もう何も、私のために言うべきことはありません」
疲れた顔を隠している乱れた漆黒の巻き毛をじっと見下ろし、ミステラ=リリアは小さくため息をついた。
姫たちは互いに目を見合わせて、それぞれ小さく頷いた。
ベル=エスターが、厳かな面持ちで一歩足を踏み出す。
「では、審判を──」
「待ってください!!」
弾かれたように、アンリは飛び出していた。




