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14.〈間-はざま-〉

 ここから真っ直ぐに帰るようにと説得するサリオンに、アンリは断固として抵抗した。


「僕はまだ、本物のクレア=ムーシュに会っていないんだからね──それくらいの我が儘を聞いてもらえるぐらいには、役に立ったはずだよ」

「あなたの負けですよ、サリオン。怖がりの王子様も、ずいぶん成長したようじゃありませんか」


 サリオンは少し怒ったようにため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。ルクレチアが琥珀色の瞳でアンリを見上げて、小さく笑う。


 サリオンが手を貸すと、リングレットは素直に立ち上がったが、その顔は青白くやつれて、口をきく気力もない様子だった。

 サリオンが手綱を引き寄せると、キャンベルローズは少し怪訝そうな顔をした。


「どこへ行く気だ?」

「岩の門ですよ」

「──この岩山の中にも、門があるんじゃないの?」


 アンリは首を傾げた。リングレットは、そこへ行こうとしていたんだと思っていた。サリオンは、背後に広がる荒涼とした岩の峰を仰ぎ見た。


「この岩山の、()にあるんですよ。下手に岩を動かして行こうとすれば、支え合った岩が崩れて再び大地震を起こしかねません」

「え、じゃあ……どうするつもりだったの?」


 少し躊躇いながら訊くと、リングレットは疲れたように目を上げた。


「考えてなかった……ただ門が──門にさえたどり着ければ、イストへ帰れると……岩を砕いてでも……」


 呟いて、再び目を伏せる。


「なんだって、また時間をかけて来た道を戻らなきゃならないんです?」


 キャンベルローズの鞍に飛び乗って、ルクレチアが言った。


「あたしたちが、もう一度首輪をはめるわけにはいかないんですから。一刻も早く、リングレットを姫たちのもとへ連れて行くべきでしょう」

「逃げるような力はもうありませんよ、彼女には。それに、あの巌が一番近い門なんですよ、ルクレチア」


 言い聞かせるようにサリオンは言ったが、ルクレチアは呆れたように鼻を鳴らした。


「山を崩さなくたって、岩の下の門へ行く方法はあるでしょう。ね、もぐらの守護者殿?」


 途端、サリオンの顔が曇った。


「どうせあなたには、リングレットを縛る気なんてないんでしょう? だったら、彼女が元気になって気持ちが変わる前に、あたしたちはイストへたどり着くべきですよ」


 サリオンはなおも何か言いたそうに顔をしかめたが、結局口は開かず、ふいにその場に屈みこんだ。まだ気が進まない様子でため息をひとつつき、それから右手で、固い地面を三度叩く。


「……あなた、まだもぐらの守護者をやってたの」


 リングレットが少し意外そうに呟いたが、サリオンは何も応えなかった。


 それは地面の下から聞こえてきた。ひっかくようなかすかな音が、深いところから近づいてくるらしい。

 出所を探して視線を落とし、アンリは目を見開いた。

 サリオンの目の前の地面が急に盛り上がり、現れたのは小さな灰色の頭だった。ごく小さな目を眩しげに瞬いて、じっとサリオンを見上げている。

 サリオンはため息をついた。


「……この岩山の下に埋もれた泉の門まで、私たちを連れて行ってください──今すぐに」


 すると小さな頭は一度引っ込み、しばらくすると、地面がかすかに振動し始めた。初めにもぐらが現れた穴が突然落ち窪み、直径がアンリの身長ほどもある穴が崩れて現れる。

 驚いて見下ろすと穴はサリオンの背丈よりずっと深く、その底で、何十匹ものもぐらがこちらを見上げていた。




 それは、お世辞にも快適とは言い難い道だった。

 一行が苦労して下りた穴の底で、もぐらたちは岩の下へと延びる横穴を掘っていく。明かりはサリオンが灯した小さな松明ひとつで、粗削りの壁や天井からは、絶えず土くれが降りそそいだ。

 横に続くトンネルの高さは、キャンベルローズの大きな体が首を倒して入るのがやっとで、怯えたメイアッシュを中に引き込むためには、目隠しをしなければならなかった。アンリは少し首を縮めるだけですんだが、サリオンとリングレットは、中途半端に腰を屈めなければ歩けなかった。


 ほの暗い明かりは、後ろを歩くアンリたちまではあまり届かず、サリオンの銀の髪が気まぐれに明かりに映えて輝るのが、暗闇でひらめく水面のように瞬いて見えた。

 リングレットはサリオンのすぐ後ろを歩いていたが、その手が、ふいに灰色の三角帽子に伸びたようだった。


 コロ、ン……


「え……?」


 アンリは驚いて目を瞠った。

 コロン、とさらにもう一度、ガラスの音色は土壁にうつろに響いた。


「こんなもの、まだ持っていたの……」


 かすれたような低い声。サリオンがわずかに振り向いたようだ。


「どうしたって、壊れたりしませんからね」


 逆光で、その表情までは分からない。コロコロと、珠の転がる音が続いている。


「トーリの火口に投げ込めば、燃えてなくなるわ……あの炎から生まれたんだから」

「知っています。でもこれは、あなたが私のために作ってくれたものですから」


 リングレットが手を離したのだろう。ガラスの鈴は、何度か澄んだ音を響かせ、ふいに沈黙した。


「あなたのそういうところ、大嫌いよ。知っていた?」

「ええ」

「──それならいいの」


 呟いたきりリングレットは黙り込み、サリオンも、再び前を向いたらしかった。

 アンリは、足下を歩くルクレチアを見下ろした。


「──ねえ、ル……」

「何も言いませんよ」


 妙に冷たい声音だった。


「なんだよ、まだなにも……」

「詮索すべきでないことも、世の中多いんですよ、王子様」


 その口調は、いつもの小馬鹿にするような調子とはまったく違っていて、アンリは言い返すことができなかった。行き場のない気持ちを抑えようと息を吐くと、ふいにルクレチアが顔を上げた。かすかな明かりに、琥珀色の瞳が閃く。


「それにあたしは、リングレットに会うのはこれが初めてなんですからね。何か聞き出そうっていうのは、お門違いですよ」

「え、そうなの?」


 驚いて目を見開くと、ルクレチアは怒ったように、ぷいと顔を逸らした。


「あなた、サリオンの話を聞いてなかったんですか? リングレットがイストを追放されたのは、もう何百年前だと思っているんです。あたしが、そんな年寄りに見えまして?」

「……そうだね」


 言って、アンリはそっと微笑んだ。


「そんなお婆さんのはずないよね──せいぜい、三百歳くらいにしか見えないもの」

「まあ……!」


 暗がりでも、ルクレチアの毛が黒ずむのがはっきりと分かった。アンリが喉の奥で笑い声を殺すと、ルクレチアは尻尾を大きく振りながら足を速めた。


「いいことも言うんじゃないか」


 アンリの耳元で、キャンベルローズが低く囁いた。


「まあ、筋が通っているぶん死神よりはましだが、そいつの口の悪さは筋金入りだからな──まったく、親の顔を見たいと思うだろう?」

「出来損ないのペガサスよりはましですよ」


 少しくぐもったような高い声には、いつもの調子を取り戻したように棘があった。


「あのサリオンに育てられて、いったいどうしたらそんな性格になれるのか、私にはいまだに理解できないね」


 キャンベルローズの低い声に、アンリは目を見開いた。気付いて、白馬が鼻を鳴らす。


「驚くだろう? あれで、産まれたときからサリオンに育てられたっていうんだから」

「産まれてすぐに、親兄弟とは死に別れたものですからね。故郷でいたたまれなくなって逃げ出してきた誰かとは、違うんですよ」

「探求の旅に出た、と言ってもらおうか」


 キャンベルローズのその澄ましたような言い方は、ルクレチアそっくりだったが、アンリは口には出さないことにした。


「翼がない理由を探す旅、ですか?」


 ルクレチアが鼻で笑う。


「簡単じゃないですか。あんたが出来損ないだからですよ。そんなに翼が欲しいなら、素直にクレア=ムーシュに頼んだらいかがです? いつでも立派な翼をこしらえてくれますよ──二枚でも、四枚でもね」


 キャンベルローズは怒りを抑えるように鼻を鳴らした。ルクレチアは澄ましたまま、尻尾を振り立てている。


「──見ない間に、ずいぶんにぎやかなお供を連れて歩くようになったのね」


 ほんの少しだけ可笑しそうに、リングレットが囁くのが聞こえた。


「普段はもう少し、おとなしいんですよ」


 感情の見えない静かな声に、キャンベルローズとルクレチアは、お互いそっぽを向いたまま黙り込んだ。


「最後に会ったあなたは、もっと恐ろしげだったわ──そう、角がないせいね。角はどうしたの、一角(いっかく)のサリオン?」

「もう、ずいぶん前に死にました」

「そう……」


 リングレットは、腰を屈めたまま俯いた。

 もぐらたちは、もぐらなりにかなりの速度で土を掘り進んでいたが、それでも歩みは自然、ゆっくりしたものにしかならなかった。


「残念ね──あの一角獣(ユニコーン)は気に入っていたのに」

「彼女も、あなたのことが好きでしたよ──一角なんて呼ばれたのは、久しぶりです」


 二人の声は穏やかで、同じ二人がついさっき炎に包まれて戦っていたのが、アンリには少し不思議だった。


「変わらないのね、サリオン──だからあなたは嫌いだわ。どうしていつも、私の前に現れるの……」


 その声は疲れたように、吐息の中に紛れて消えた。


「……あなたが変わったからです、リングレット」


 相変わらず穏やかなその声には、どこか哀しげな響きがあった。気づいたのか、リングレットが喉の奥で笑う。


「どこまでも優しい、幸せなひと──あなたは永遠を知らないわ。無限の時を、流れていることさえ分からない、果てのない時間を……逃れるためなら、何だってできたのよ……それがどんな罪でも。あなたには分からない──永遠に……」


 サリオンは応えなかった。


「あの……イストへ──姫たちのところへ連れて行ったら、彼女はどうなるの……?」


 アンリはそっと、足下のルクレチアに囁いた。


「そりゃあ、追放されるんじゃないですか? 何といっても、クレア=ムーシュの命を危険にさらしたんですから。元々、追放されていたはずの身なんですしね」


 淡々と、ルクレチアは囁いた。

 薄暗いトンネルはすぐ背後で闇に消え、距離も方角もつかめない感覚が〈(はざま)〉を思い起こさせて、アンリの足を重くする。


 あの瞬間──確かなものは、澄んだ甲高い鈴の音色だけだった。

 こだまのように繰り返し聞こえていた、悲鳴とも泣き声とも分からない声を──アンリはずっと、幻だったと思おうとしていた。〈間〉に永遠に囚われた何ものかが、救いを求めて嘆き続けているとは──どうしても思いたくなかった。


 ふいに耳を静寂が襲って、アンリははっと我に返った。

 動きを止めたもぐらたちが、何かを期待するように、小さな目でじっとサリオンを見つめていた。

 トンネルの行き止まりに大きな石が見え、サリオンが力を込めてそれを横へ転がすと、かすかな水音が聞こえてきた。サリオンは松明を、傍らの石に立てかけた。


 岩のすき間に、小さな泉が湧いていた。

 水面は湧き出す水で絶えず波紋を作っているが、どこか岩の間に流れ込んでいくらしく、周囲にあふれ出す気配はない。

 サリオンは泉の前に膝をついた。


「泉よ──イストへの門よ」


 静かに語りかけると、澄んだ水面にひとつ大きな波紋が立った。


「──久しく呼ぶものとてなかった、この私に語りかけるのは誰か?」


 声は水泡のように震えた。


「サリオン」

「おお、鱗の理解者よ──そなたのために、閉ざす道があろうか」


 一度大きく波打ったかと思うと、突然、水面にはさざ波ひとつ立たなくなった。

 トンネルの脇にひと固まりになってじっと見つめるもぐらの群れを、見下ろしてサリオンはため息をついた。


「私たちが立ち去ったら、このトンネルを元の通りに埋めてください。地面に痕跡ひとつ残さないように」


 もぐらたちは何も応えなかったが、サリオンはもう彼らを見てはいなかった。松明を土で消し、暗がりで振り返る。


「今度は、しっかりとついて来てくださいね、アンリ」

「──うん」


 頷いた顔が青ざめているのが、闇に紛れて分からないのが、アンリには嬉しかった。恐怖も不安もないわけではなかったが、気持ちは驚くほど落ち着いていた。


「リングレット?」


 静まり返った水面を見つめたまま、サリオンに促されてもリングレットは動かなかった。漆黒の巻き毛が闇に溶け込んで、その長身の輪郭をぼやけさせている。


「リングレット──大丈夫ですよ」


 闇の中、サリオンの灰色の腕がリングレットに向かって伸びるのが、かすかに見分けられた。

 息を詰める気配がして、次の瞬間、二つの影は水面へと吸い込まれるように落ちていった。




 コロ、ン……

 あれは、ガラスが触れる音。


 今度は、見失わなかった。

 そこは闇の中のようで、しかしすぐ前を行く二つの人影を、アンリはしっかりと見つめていた。

 解けて広がる銀の髪の上で、ガラスが転がって響く。裂けたガウンから伸びたリングレットの細い手が、すがりつくようにサリオンの手を握りしめていた。


 たぶん、一瞬だったのだろう。瞬きもしなかったように感じたから。

 それともずっと、目を閉じていたのか──二つの影は、願望じみた幻だったのか──聞こえてくる、どんなに聞くまいとしても耳の奥に入り込んでくる、悲鳴や泣き声と同じように……


 押し寄せる無限の中の一瞬と、時間すら意味を失くす永遠とを区別することが、いったい誰にできるだろう──


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