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12.リングレット

 薄いカーテン越しに、午後の最後の光が差し込んでいる。


「──クレア=ムーシュ!?」


 リングレットは慌てて周囲を見回した。


 (ひず)みへと身を躍らせたクレア=ムーシュを見たとき、リングレットにもまた、躊躇する余裕はなかった。この機を逃せば、永遠にここから抜け出すことはできないかもしれない。

 クレア=ムーシュの消えた歪みへと、ただ闇雲に飛び込み──気がつくと、自分がいったいどこにいるのかも分からなかった。


 振り返るとそこに、ごく薄いカーテンに覆われた天蓋付きの寝台があった。中に人影を認めて、リングレットはそっと布をめくった。

 少女は目を開いていた。淡い茶色の瞳を何度も瞬いて、不思議そうにリングレットを見つめている。癖のない髪は茶色っぽい金髪で、体を起こすと、肩から枕へ音もなく流れた。

 リングレットは眉をひそめた。


「クレア=ムーシュ……?」


 青白い顔はイストの姫クレア=ムーシュのそれだったが、髪の色も目の色も違う。第一、リングレットを見つめる表情が違った。

 リングレットはもう一度、狭い室内を見回した。


「ここは──エルデン? じゃあ……」


 再び、金髪の少女に向き直る。少女はまだぼんやりと、リングレットの揺れる漆黒の巻き毛を見つめていた。


「クレア=ムーシュね? あなた──私がわからないのね?」

「きゃあぁ!!」


 突然の悲鳴に振り返ると、戸口に若い娘が立っていた。


「だれか……王女様が……!!」


 そのまま駆け去る娘を、リングレットは成す術なく見送った。どうすべきか……と悩む間もなく、遠ざかった足音が何倍にも増えて戻って来た。


「クララ!!」


 最初に駆け込んできた男は、寝台に腰掛けるリングレットを見て、驚いたように戸口で立ち止まった。背後で何人かが、ぶつかりそうになって悲鳴を上げる。

 怪訝そうな顔をしたのは一瞬で、寝台に身を起こす少女の姿を認めた途端、男は目を見開いて駆け寄って来た。


「おお、クララ……クララが目を覚ましておる! ご婦人──我が娘、フォーロットの宝クララを眠りの病から救ったのは、そなたか?」


 じっと金の冠を頂いた男を見つめていたリングレットは、微笑んで立ち上がった。


「ご無礼をお許しくださいまし、陛下」


 優雅に裾をさばいて膝を曲げる。


「王女様の病の噂を偶然にも聞き及び、お力になれればと馳せ参じました、下賤の女にございます。一刻を争うことゆえ、お手打ちを覚悟でこのように忍んで参りました次第……」

「ああ、良い──そのようなこと」


 王のやつれた頬を涙が伝う。


「今まで誰にも治せなかったものを……よくぞおいでくださった」


 言って寝台に近づこうとする王を、リングレットは慌てて押しとどめた。


「お待ちください、陛下。王女様のお体は、病のためにひどくお疲れです。今少し休養せねば、口をきくこともままなりませんでしょう……」

「おお、そうか……」

「お許しいただけますならば、今しばらく、お世話をさせていただきたいのですが……」

「言うまでもないこと、ご婦人よ」


 フォーロットの王は、喜びに涙を流してリングレットの白い手を両手で握りしめた。


「かの魔法使い、サリオンでさえ救えなんだ王女の命──よくぞ救ってくださった。重ねてお礼を申し上げる」


 途端に、リングレットの表情が強張った。


「サリオン……? あのサリオン──でございますか?」


 しかし泣き笑う王は、リングレットの様子には気づかない。


「できるだけのことはしようと言っていたのだがな……どこかへ行ってしまったきり戻らぬ。だがそんなことは、もうどうでも良い」

「そう、ですか──ああ、王よ。騒ぎ立てては、病み上がりの王女様の体に障ります。お話しできるようになりましたらお呼びしますゆえ、しばらくお人払いを……」

「おお、そうだな──ではご婦人、クララのこと、くれぐれも……」


 ざわめく人々を追い出すと、リングレットは扉に鍵を掛けた。唇を噛んで振り返る。少女は、不思議そうにリングレットを見つめている。


「サリオンが関わっているなんて……よりによって……」


 歩み寄ると、少女は首を傾げて長身を見上げ、ふと、腰まで届く漆黒の巻き毛に手を伸ばした。

 指先で艶やかな巻き毛を弄ぶ少女を見下ろして、リングレットは唇を歪めた。


「馬鹿なまねをしたものね、姫様──よりによって、エルデンへ逃げ込むなんて。まあ……私から逃げられるなら、どこでも良かったのでしょうけれど」


 不思議そうに見上げる茶色の瞳は、無邪気で幼い。


「おかげで私には好都合だわ──さあお嬢さん、これを外してちょうだい」


 言って、リングレットは首にまとわりつく巻き毛を払いのけた。

 細い首に、輝く幅広の首輪がぴたりとはまっていた。金属とも布とも判らないそれは、濃い緑色に見えたかと思うと輝く白や炎の朱色にも見え、深い湖の色でもあり、移ろい定まらない虹色にも見えた。

 角度や光の加減で様々に色を変える不思議な輪を、金髪の少女はもの珍しげに見つめた。


「外すのよ、クレア=ムーシュ。さあ、触って!」


 その手を捕らえて輝く首輪に触らせても、少女は興味深そうに撫でるばかりだった。リングレットが苛立って手に力を込める。


「外すの──取りなさい! 記憶を失くしたって、言葉くらいは分かるでしょう!?」


 思わず怒鳴った直後、キン、と硬い音がした。

 リングレットの首から離れた輪を、少女が不思議そうに手の中でひっくり返している。

 一瞬ぽかんと目を見開き、それからリングレットは力が抜けたように笑い出した。


「はは……お礼を言うわ、クレア=ムーシュ!」


 勝ち誇ったような笑い声が聞こえているのか──少女は様々に色を変えて輝く首輪にすっかり心を奪われているようで、リングレットを見ようともしない。


「さあ、それを渡しなさい、クレア=ムーシュ」


 しかし少女は輪を握りしめたまま、どうしても離そうとしない。


「──渡しなさいったら!!」


 そのとき、突然外が騒がしくなった。悲鳴と、なぜか馬の嘶く声が、遠くから次第に近づいてくる。


「……っ」


 忌々しげに舌を鳴らし、リングレットは駆けだした。



 * * *



「エルデンってどういうことです、ヴァニー?」

「知らないよ! でも、この(ひず)みはエルデンへ繋がってるんだ!」


 サリオンとヴァニーの顔は青ざめていたが、アンリは、何がなんだか分からなかった。


「エルデンへ行けば柱の姫がどうなるか……クレア=ムーシュが自ら行くはずがないでしょう」

「僕に分かるわけないじゃないか!」

「……どうなるの?」


 アンリはそっと、ルクレチアに囁いた。朱色の尻尾がぱたんと地面を打つ。


「簡単に言えば──記憶がなくなるんですよ」


 口調は素っ気なかったが、その琥珀色の瞳は険しかった。


「とにかく、エルデンのどこへ行ったか探さないことには……」


 サリオンが顎に手を当てて考え込む。ヴァニーは怒ったように、何もない地面を見下ろしていた。


「あ、きれい」


 無邪気な声にアンリが振り向くと、まるで状況を理解していないらしいクララが、何かを手にして微笑んでいた。


「なに、クララ?」

「髪の毛よ。きれいな巻き毛──だめ、見せてあげない」


 笑って、手の中に隠そうとする。


「見せてよ」

「だーめ。きっと、木炭の髪のお姫様のよ──黒い巻き毛のお姫様」


 アンリは諦めてため息をついたが、その無邪気な声に、サリオンとヴァニーの顔色が変わった。


「クララ、それ見せて」

「ええ?」


 真剣な口調に驚いたように目を瞬いて、すぐにクララは巻き毛をヴァニーの手に乗せた。


「これ、どこにあったの?」

「そこよ。その、倒れた木のところ」


 ヴァニーは眉を寄せて唇を噛んだ。サリオンが近づいて、その手もとを覗き込む。


「まさか……」

「──お前たち!」


 突然、振り返ってヴァニーが叫んだ。ざわりと、周囲の曖昧な景色が揺らぐ。


「無に(かえ)る前に、夢の支配者ヴァニーの言葉を聞け! ここにいた、夢ではない者たちが何をしていたか見せるんだ!」


 周り中から、低い呻き声が響いた。嘆くようなすすり泣きも聞こえる。


「──解放してください、我らが支配者よ……」

「我らには、もう何も形作る力はありません……」

「どうぞこのまま……我らを無へ……」


 低い声は疲れているようで、かすれて今にも消えてしまいそうだった。ヴァニーの紫色の瞳が燃えるように険しくなる。


「見せるんだ!」

「ああ……」


 ため息と呻きが泣き声の中に消え、一瞬、辺りに静寂が落ちた。


「──!」


 倒れた木々が、揺らぎながら次々に起き上がる。

 再び森のように立ち並んだその一本の根元に、白い髪の少女の姿がぼんやりと浮かび上がった。蔓のようなものが、細い体に幾重にも巻きついて自由を奪っている。白い顔は怒りに歪んで険しかった。

 ふいにすぐ横に背の高い人影が現れて、驚いてアンリは脇へ飛びのいたが、揺らめく影はただ座り込む少女を見つめていた。

 こちらのことは見えていないらしい。


「リングレット……!」


 サリオンが眉を寄せる。

 それは背の高い、美しい娘だった。漆黒の巻き毛が腰まで豊かに垂れている。

 消えそうに揺らめく娘は笑って何か話し、白髪の少女も何か言い返していたが、二人の声は聞こえなかった。


「あれがクレア=ムーシュ……?」


 アンリは、信じられない気持ちで、縛られて口を噛みしめる少女を見下ろしていた。少女の瞳は空色で、険しい表情はクララとはまったく違っていたが、その面立ちはやはりクララとそっくりで、見つめていると混乱する。

 と、突然、強い衝撃が過去の幻たちを襲った。地面が波打って千切れ、ねじれた木々が砕けて飛び散る。


「あっ!」


 衝撃は、クレア=ムーシュのきつい戒めをも引きちぎった。

 それは一瞬のことだったが、戒めから逃れた途端、クレア=ムーシュは地面に身を投げた。(ひず)みがその小柄な体を呑み込む。

 息を飲んで見つめるアンリの目の前で、リングレットは、巻き毛を翻してクレア=ムーシュの後を追った。

 そして次の瞬間、揺らめく幻はすべて消え失せた。


「ありがとう……もうおやすみ」


 再び辺りは静まり返り、ヴァニーが奇妙に静かな声音でそう言うと、低いため息が一度だけ聞こえた。




 サリオンは、再び地面の歪みを見つめていた。


「……あの衝撃は?」

「僕だ」


 ヴァニーの声は、低く落ち着いていた。


「冠につられてイストへ行ったあとで、夢の中へ戻ったとき……僕はとても腹を立てていたから──あれは、僕の怒りの波だと思う。夢の外れへは、ちょっとした衝撃も、何倍にもなって伝わるから……」

「──衝撃で、夢と現実の境目が歪んだんですね。そのときには、クレア=ムーシュの体にはクララの意識が入ってしまっていましたから、クレア=ムーシュは、自分の体に戻ることができなかったんでしょう」


 サリオンの声も、奇妙なほどに落ち着いている。


「サリオン──さっきの巻き毛の妖精は、あの追放されたリングレットなんですか?」


 ルクレチアの声に、サリオンはようやく顔を上げた。


「ええ、そうです──ヴァニー、今すぐ私たちをエルデンへ送ってください。この(ひず)みの向こうは、恐らく、フォーロットのクララのところです」

「でもクララの体は……」


 言いかけて、ヴァニーは目を見開いた。


「じゃあ、クララの体にクレア=ムーシュが?」

「なんですって!?」


 驚いたクララが声を上げる。


「ほかに考えられますか? リングレットは、クレア=ムーシュの後を追っています。恐らく記憶を失くしたクレア=ムーシュは、リングレットの命ずるままに彼女の首輪を外してしまうでしょう」

「……リングレットって?」


 アンリがそっと囁くと、ルクレチアはうるさそうに尻尾を振った。


「イストを追放された罪人ですよ」

「追放……?」


 それ以上訊く余裕はなかった。


「じゃあひとまず、クララはクレア=ムーシュの体に戻すことにするよ。その方がクララも、クレア=ムーシュの体も安全だろうから」


 ヴァニーが手を差し出すと、言われた意味を理解していない様子のクララは、ただ嬉しそうにその手を握った。


「クララを戻したら、エルデンに来てください。私のいる場所は分かるでしょう」

「分かったよ……時間が経っちゃったから、場所が少しずれてると思うけど──気をつけてね」


 最後の言葉を、ヴァニーは少しだけ照れくさそうに呟いた。




「──わあ!!」


 悲鳴を上げた馬丁を、アンリはよく知っていた。


「お……王子!?」

「ごめんね、驚かせて」


 言って、アンリは周囲を見回した。


「どこです、ここは?」


 唐突に目の前に現れた一行に、その場にいた全員が悲鳴を上げていたが、サリオンは気に留めたふうもなくアンリに駆け寄った。


「中庭だ──ずいぶんずれたね。こっちだよ」


 アンリは手近な入り口から城内へ駆け込んだ。


「アンリ様!?」


 通路で出会う人すべてが青ざめて悲鳴を上げる。怪訝に思って振り向くと、サリオンの後ろに、キャンベルローズとメイアッシュまでもがついて来ていた。


「こっち!」


 クララの寝室へ行くには、大広間へと続く通路を一度通らなければならない。

 大広間の手前で曲がって階段を駆け上がりかけたとき、突然背後で大きな物音が聞こえた。


「サリオン殿!?」


 驚いたような声に、思わず足を止めた。


「これはどうした騒ぎだ!?」

「父上……!」


 広間から出てきたところらしいフォーロット王は、両脇に、引きつった顔の官吏と近習を従えていた。


「アンリ? ここで何をしておる」


 ようやくアンリの姿を認めたようで目を見開く。


「お前──今度は何の邪魔をしておるのだ?」

「え……?」


 次に会ったら、まずは勝手な行動を叱責されるとばかり思っていたので、いつもと変わりない父の口振りに、アンリは驚いて言葉に詰まった。


「言ったばかりではないか。誰の邪魔もせぬ限り……」

「フォーロットの王よ」


 静かな声が割って入り、フォーロット王は驚いたように言葉を切ってサリオンを見た。


「クララ王女はどうしていますか?」


 すると、王は途端に頬をゆるめた。


「おお──そのことなら、もう心配はない。せっかくお戻りくださったところ申し訳ないが、実はつい先ほど目を覚ましたのだ!」

「えっ?」


 アンリは驚いて声をあげたが、父は嬉しそうにしゃべり続けた。


「今は大事を取ってやすんでおるが、幸いにも救ってくれたご婦人が介抱してくれているので……」

「その婦人とは誰です?」


 サリオンの口調は厳しく、王は驚いたように目を瞬いた。


「いや……そういえば、まだ名を伺っていなかった──黒い、見事な巻き毛の背の高い……あ、サリオン殿!」


 突然サリオンが駆けだし、すぐにアンリも続いて階段を駆け上がった。騒々しく駆け抜ける一行に城内は騒然としたが、アンリは少しも気にならなかった。城内を馬が二頭駆けていたら、多少騒ぎになるのは仕方がない。


 樫の扉は開いていた。夕日が差し込んでいる。寝室の扉も開け放たれ、迷わずアンリはサリオンに続いて駆けこんだ。


「クララ……?」


 天蓋のカーテンが半端に開けられて、体を起こした金髪の少女の姿が見えた。驚いたように目を見開いてサリオンを見つめている。


「クレア=ムーシュ……」


 歩み寄るサリオンの輝く銀の髪に向かって手を伸ばす、その小さなもう一方の手に輝く輪を見つけて、サリオンはため息をついた。


「サリオン!」

「うわあ!!」


 突然、サリオンの傍らにヴァニーが姿を現し、ようやく追いついてきたフォーロット王が悲鳴を上げた。


「静かにして、父上」


 アンリにたしなめられて、慌てて両手で口を塞ぐ。

 ヴァニーは父子を振り返りもせず、サリオンの手もとを覗き込んでいる。


「それ、首輪……?」

「ひと足遅かったようです──ヴァニー、クレア=ムーシュとクララの意識を入れ替えてあげてください」


 寝台の少女は、目の前に立ち尽くす二人を不思議そうに見比べている。


「サリオンはどうするの?」

「リングレットを追います」


 緑の石のような瞳を束の間見つめ、ヴァニーは小さく頷いた。


「ほかの姫たちに事情を話すよう、クレア=ムーシュに伝えてください。もう一度、審判が必要になると思いますから」

「分かったよ」


 ヴァニーが瞼に手をかざすと、途端に薄茶色の瞳が閉じた。その背を支えてそっと寝台に戻し、サリオンは細い指の間から輝く輪を抜き取った。


「あの、サリオン殿……クララは……」


 フォーロット王の控えめな声に、答えたのはヴァニーだった。


「大丈夫、すぐ戻すよ。──じゃあ後でね、サリオン」


 言ったときには、すでにそこにヴァニーの姿はなく、王は再び悲鳴を飲み込んだ。


「王女はじき目覚めます」


 急にサリオンに振り返られて、王は口を手で押えたまま頷いた。


「意識は元気そうでしたから、すぐに回復するでしょう。体の方は長い眠りで衰弱していますから、しばらくは安静にしてよく様子を見るのが良いでしょうね」

「分かった……そうしよう」


 ようやく声を絞り出して、王は気を落ち着けるように軽く咳ばらいをした。


「しかし──あの黒髪のご婦人は、いったいどこへ……」

「彼女は、自分を何と言っていましたか?」


 サリオンは少し眉を寄せた。


「何も──クララの病の噂を聞いて来たのだと……クララを休ませる必要があるとかで、すぐに扉に鍵を掛けてしまったので……そういえば──」


 言って、王は少し考え込んだ。


「──魔法使いサリオンの名を出したとき、少し慌てた様子だった、ような……クララが目を覚ましていたので、あのときは気にも留めなかったが……」


 サリオンは少し目を伏せてため息をついた。


「では私が関わっていると知って、慌てて逃げ出したのでしょう。彼女は罪人です」

「なんと……」


 驚いた表情をしてはいるが、アンリには、父があまり状況を理解していないのがよく分かった。


「私たちは、これから彼女を追います。──アンリをお借りしますが、よろしいですね?」


 その言葉に、アンリ自身驚いたが、顔には出さずにいた。

 王が驚いて目を(みは)る。


「アンリを、と申されたか……?」

「それが彼の名前で間違いないのなら──彼に掛けられた呪文の力で、罪人の跡を追います」

「──危険はないのであろうな?」


 王は不安げに顔を曇らせたが、その不安が、アンリにはどこか虚しかった。


「一番危険なところは、もうとっくに過ぎましたからね。あれ以上の危険に遭うことはもうないでしょう」


 その口調は、驚くほどルクレチアに似ていた。

 王が怪訝そうに眉をひそめる。


「それは、どういう……?」

「詳しく説明している時間はありません。アンリが無事に戻ったら、事情は彼からゆっくり聞いてください」


 そう言うと、サリオンは王に構わず歩き出した。

 当惑した様子で立ち尽くす父王に、アンリは軽く頭を下げ、それからサリオンを追って部屋の外へ向かった。


「しかし──サリオン殿、アンリ、もう陽も暮れるが……」

「サリオンは慣れているから大丈夫だよ──じゃあね、父上」

「アンリ……」


 呆然とした呟きを背後に残して、アンリはもう振り返らなかった。


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