11.夢の痕跡
白い、まるでお伽話に出てきそうな立派な城の前に、アンリは立っていた。
家畜のいない囲いがいくつもあり、濃い緑の草地がどこまでも続いている。
「──クララ?」
クララは、見慣れた茶色っぽい金髪に、真珠の冠をかぶって草の上に立っていた。羊飼いの少女が着るような簡素な白いドレスから、素足が膝まで覗いている。
「なあに、アンリ──そのかっこう」
言って少し顔をしかめる。アンリは慌てて自分の体を見下ろした。
「あなた、王様になりたいんですか?」
いつの間にか足下にいたルクレチアの体は、今は鮮やかな朱色で、全身の毛がまるで炎のように揺らめいている。
アンリは、途方に暮れて自分の体を見回した。
服は見慣れた薄い青で、短めのブーツは履き古して馴染んだものだった。しかし肩からは、毛皮の縁のある真紅のマントがくるぶしまで下がっていた。知らない間に、手にはエメラルドを頂いた笏を握りしめている。頭の違和感は冠を乗せているせいだと、確かめなくても判った。
「夢の中では、よくあることですよ」
振り向くと、サリオンとヴァニーが立っていた。サリオンの解いたままの髪はまばゆいばかりに輝きを増していたが、それ以外に、二人の様子に変わりはない。
「夢の源は無意識です。ですから夢の中では、人は無意識に思い描いた姿になることが多いんですよ」
背後から現れたキャンベルローズが物珍しげにアンリを眺めていたが、その背には、一対の見事な純白の翼があった。
クララは呆れたように腕を組んだ。
「アンリ、王様になりたいって思ってたの? そんなこと無理に決まってるじゃない。あなた、自分に何人お兄様がいるか分かってる?」
「分かってるよ、そんなこと! ただ……ただ、父上みたいになれたらって──思っただけだよ……」
気恥ずかしくて俯くと、嫌でも真紅のマントが目に入った。
せめて王笏だけでもどうにかできないものかと、考えた瞬間、アンリの手から笏が消えた。
「全部まやかしだからね」
驚いて自分の手を見つめるアンリに、ヴァニーが言う。
「あんまり、突拍子もないことを考えないほうがいいよ。ここは、無意識に影響される世界なんだから」
「ヴァニー、クレア=ムーシュが現れたのはどこですか?」
サリオンは少し急かすように声を掛けた。
「ああ──お城の近くだったと思う。ね、クララ?」
ヴァニーが声を掛けると、クララは嬉しそうに微笑んで駆け寄り、並んで歩き始めた。
炎のようなルクレチアが、尻尾を立ててアンリを見上げる。
「ほら。あなたの出番ですよ」
アンリは大きく息を吐き、それから、背筋をできるだけ伸ばして歩きだした。どうにもできないものなら、せめて格好にふさわしい態度でいたい。
「おお、フォーロットのアンリ──まさに王者の風格」
その芝居がかった口調には聞き覚えがあったが、その声はずいぶん高いところから聞こえてきた。
「……誰?」
振り向いてから尋ねるまでには、少し時間がかかった。
碧い目はどこか楽しげで、波打つ金髪が色白の整った顔立ちを引き立てている。背はサリオンよりも高く、痩せてはいたがその衣服は明らかに高貴な出自を示していた。真珠色の服には金糸で蔦や花が刺繍され、長く垂れる鮮やかな青いマントの縁には銀糸の鳥が舞っている。革のブーツは磨き上げられて、折り返しは白銀の毛皮で飾られていた。
しかし、アンリにはその顔に見覚えは少しもなく、しかもこの青年は、首から下が透けて向こうが見えていた。
「誰、とはつれない言葉。そなたとは、幾度も言葉を交わした仲ではないか」
青年は上機嫌でアンリの肩に長い腕を回したが、半透明の腕は、置かれても何の感触もなかった。
「死神ですよ、アンリ。これが生きてた頃の姿です。まったく……夢の世界に来るっていうと上機嫌なんだから」
ルクレチアは少し苛立っているようだった。
「言うまでもないこと、気まぐれなルクレチア。夢の中でなら、この死神、かつてのように麗しのサリオンと肩を並べることもできるというもの──おお、我が君があんなところに!」
踊るように駆けだした半透明の青年を、アンリは呆気にとられたまま見送った。それから、急かすようにこちらを見上げるルクレチアに気づいて歩き始めたが、何かが引っ掛かっていた。
「……メイアッシュは?」
ようやく気づいて見回すと、すぐ背後で、栗毛のメイアッシュはうなだれていた。
「お前まで……」
アンリは悲しくなって呟いた。ルクレチアが喉の奥で笑っている。
恥ずかしそうに目を伏せる若駒の馬具はすべて金糸で飾られ、金とエメラルドの飾りのついた鞍には、真紅の鞍敷が掛けられていた。
「それはあなたのせいですよ。忠義な子じゃないですか」
笑って、ルクレチアはさっさと歩いていってしまった。メイアッシュは俯いたまま、上目遣いにアンリの表情を窺っている。ため息をついてその首を優しく撫で、アンリは足早にルクレチアを追った。
バラのアーチのある中庭の片隅で、アンリは立ち止まった。
「わかる?」
ヴァニーが心配そうに見つめている。
壁のようにそびえるバラの生け垣を、アンリはじっと見上げた。
「ここから──」
目にはっきりと何かが見えているわけではなかった。
アンリは少し考えて、それから斜め上を指さした。城の向こうはどこか曖昧で、空なのか森なのか、輪郭がぼんやりと歪んで判別できない。
「──こっち。むこうに向かってるよ」
「何もないじゃないの、アンリ」
ヴァニーにぴたりと寄り添っているクララの口調は、ひどく棘々しい。その表情は夢見るようで、ずいぶん子供っぽく見えた。
アンリはちょっとむっとしたが、ヴァニーは真剣そうに頷いた。
「大丈夫、僕が道を作るよ。君は方向を教えて」
アンリの指さす彼方を見やり、それからヴァニーは、腕にすがりついているクララを見下ろした。
「でもその前に──まずは君をエルデンに帰すね、クララ」
「──ええ」
少し拗ねたように、でもすぐにクララはヴァニーの腕を離した。ヴァニーがクララの白い額に手を当て、クララも素直に目を閉じる。
何も起こらなかった。
「──ヴァニー?」
サリオンが怪訝そうに声をかけたが、しかし一番うろたえているのはヴァニーのようだった。
「どうして……?」
「どうしたの?」
クララも不思議そうに目を開く。
「戻す体が、見つからない──クララの体が、どこにあるか分からないんだ」
「どういうことです?」
サリオンは眉を寄せたが、ヴァニーは泣き出しそうに顔をしかめていた。
「わかんないよ──エルデンに、クララの戻るべき体が見つからないんだ……こんなこと、どうして……」
「──私、もう死んじゃったの!?」
クララが悲鳴を上げた。アンリは血の引く音を聞いたような気がした。
サリオンは表情のない目で、傍らの青年を見上げた。
「どうです、死神?」
死神は、今初めてクララに気づいたように目を見開いた。首から下が半透明で向こうにバラの生け垣が見えているので、その様はひどく異様だ。
「いや、美しい姫よ。まだ三日はもつだろう」
「三日!?」
クララは再び悲鳴を上げたが、死神は機嫌が良かった。血の気の失せたクララに、愛想良く笑いかけている。
「では、まだ大丈夫ですね。時間がありませんから、先にクレア=ムーシュの行方を追いましょう。そのうちに体が見つかるかもしれませんし」
クララはまだ青ざめ震えていたが、サリオンは気にするふうもない。アンリは何か声をかけようとしたが、サリオンとヴァニーに先を急かされてしまった。
死神だけがにこにこと話しかけていたが、半透明の青年を見上げるクララの表情は遠目にも引きつっていた。
クレア=ムーシュはほぼまっすぐに移動していたので、アンリには、その痕跡をたどるのは難しくなかった。
確かな地面が見えていたのは白い城の周囲だけで、その向こうは地面とも空とも海とも見分けられない。ヴァニーが「放ってしまった」と言う通り、痕跡は空中を弧を描くように横切って、曖昧な景色の彼方へと続いていた。
アンリが痕跡を追って足を踏み出すと、ヴァニーがその足下に見えない道を作り延ばしていく。虚空を歩くようで初めは恐ろしかったが、周囲の景色が乱れて混沌としてくるにつれ、恐怖も紛れてしまった。
時には目の前に、崩れかけた山だの青一色の町だのが現れて痕跡を塞いだが、ヴァニーは身振りひとつでそれらを除けたり消したりしていった。そしてそのたび、夢見るクララは身に迫る恐怖も忘れてしまったのか、歓声をあげて喜んだ。
「我が麗しのサリオン──やはりそなたは、いつも正しい」
アンリのすぐ後ろにサリオンが続き、その傍らで、死神は相変わらず上機嫌だった。
「これなる若者の才はたいしたものだ。あと五十年足らずの命とは、なんとも惜しい限り──」
アンリが思わず振り返ると、死神は愛想良く笑った。
「いちいち気にしてたら、身がもちませんよ。寿命のことなら、五十年後に考えたらいいじゃありませんか」
ルクレチアは少し苛立っているようだ。キャンベルローズは死神の声の届かない、ヴァニーやクララよりも後ろをメイアッシュを従えて歩いている。
「本当に、あと五十年なの? どうして死神にはそれが分かるの?」
「質問はひとつずつと、前にも言いましたけれどもね」
ため息をついて、炎のようなルクレチアはアンリを見上げた。
「あの際限ないおしゃべりには辟易しますけど、寿命に関しては嘘は言ってませんよ。だから死神っていうんです」
「サリオンが付けてくれたのだ」
歌うように、死神が口をはさむ。聞いているのかいないのか、サリオンは明後日の方を見たまま歩き続けていた。
「この姿で生きていた時分には、別の名前を持っていたのだが、死んでしまってはその名も相応しくはないと言ってな──良い名であろう。死期を識る今の私に、これほど相応しい名はあるまい。なあ、サリオン──我が麗しの君よ」
サリオンは応えなかったが、死神は楽しげだった。
「寿命が分かるから、サリオンは死神を連れているのかな──サリオンが『死の先触れ』って呼ばれるのは、たぶん死神のせいでしょう?」
アンリはルクレチアを見下ろして、そっと言った。死神はすっかりアンリに興味をなくしたようで、応えもしないサリオンに向かって上機嫌であれこれと話しかけている。
「さあね──死んで、嵩張らなくなったからじゃないですか? なにしろ生きてた頃には、やかましい上に場所を取っていましたからね」
さして関心もなさそうにルクレチアは言う。
身振りを交えた際限ないおしゃべりにアンリも少しうんざりして、クレア=ムーシュの痕跡に意識を集中した。
辺りは次第に薄暗くなり、目に見えるすべてのものは歪み、ねじれてうごめいていた。常に周囲は動き、揺れ、上も下も定かでない感覚が〈間〉を思い出させて、アンリを不安にさせる。
ヴァニーも少し不安そうで、辺りを何度も見回していた。
「もう、ここは夢の外れだよ」
「気味が悪いわ……」
クララはヴァニーの腕にすがりついて離そうとしない。
奇妙にねじれた、木にも見えるどす黒いものが、歪んだ地面に森のように立ち並んでいる。その間を、クレア=ムーシュの痕跡はさまようように続いてた。
暗い色の蔓のようなものがいくつも頭上に垂れ下がり、アンリたちの行く手を遮ろうとする。払いのけるとそれらの蔓は、途端にもろく千切れて地面に落ちた。木のように見える黒いものは、どれもねじれたり裂けたりして、触るとそこから崩れて折れた。踏みしめる地面までが、波のようにゆっくりとうねっていくのが分かる。
「ここは、いろんな夢の残骸が無に還る場所だよ。夢のいちばん外れだ──こんなところにクレア=ムーシュが……?」
ヴァニーの声は怪訝そうだった。死神までが、黙り込んで辺りを見回している。
触る前から何もかもが崩れている、少し開けた場所があった。その真ん中で、アンリは立ち止まった。
「どうしました?」
サリオンがすぐに近づいてくる。
「ここまでだ」
アンリはしゃがみこんで、歪んだ泥っぽい地面に触れた。固いが弾力がある。
「ここから、どこかへ行ってる」
顔を上げると、ヴァニーが目の前に立っていた。膝をついてアンリの触れている地面を調べ、眉を寄せる。
「──本当?」
「うん」
ヴァニーは険しい表情で顔を上げた。
「分かりますか、ヴァニー?」
「歪みはあるよ」
言って再び、アンリに険しい目を向ける。
「本当にここなんだね?」
「僕が嘘ついて何になるのさ」
少し腹を立ててアンリが答えると、ヴァニーは何も言わずに立ち上がった。
「どこへ抜ける歪みです?」
サリオンは眉をひそめた。
ヴァニーは、まるで怒っているようにため息をついた。
「エルデンだよ」




