10.夢の子供
灰色の羽の少女が呼ばれ、孔雀の形の香炉を運んできた。細かな透かし彫りの施された蓋から、清々しい香りが流れ出ている。
白く薄い煙の漂う蓋の上に、サトリは白い羽根を二枚乗せた。
「さあ──姫様」
寝台に腰掛けたクララは香炉を受け取ると、ひどく緊張した面持ちで目を閉じ
大きく息を吸った。
「……夢の子供よ──白き羽に仕える者よ。羽の姫クレア=ムーシュの声に、今、応えよ」
そっと息を吐いて、目を開く。
しかし室内は静まり返ったまま何も起こらず、空色の瞳にうろたえた色が走った。
「……!」
前触れも何もなく、クララの前にヴァニーが跪いていた。
「クレア=ムーシュ──我が姫」
ゆっくりと顔を上げる。つい先刻、宿り木の塔に現れたときとは打って変わって、穏やかに笑みさえ浮かべていた。
「ヴァニー……」
クララがほっとしたように小さく笑う。その表情に、ヴァニーは眉を寄せた。
「よく来てくれましたね、ヴァニー」
穏やかな低い声に、ヴァニーの表情が一変した。驚いて振り仰いだ瞳がサリオンを認め、不機嫌そうに曇る。それでも、クレア=ムーシュがすぐ前にいるためか、ヴァニーは目を逸らしただけで何も言わなかった。
「姫を目覚めさせてくれたことには感謝します、ヴァニー。でも残念ですが、彼女はクレア=ムーシュではありません」
ヴァニーは眉をひそめた。困ったように微笑む白髪の少女に向き直り、それからもう一度、今度は怒ったようにサリオンを見上げる。
「クレア=ムーシュじゃないか」
その口調は、拗ねた子供のようだった。
「あの……ごめんね、ヴァニー。私の名前は、クララっていうの。あなたはずっと、クレア=ムーシュって呼んでたんだけど……私、あんまり気にしてなくて……」
躊躇いながら話しかけるクララに、ヴァニーは目を見開いた。
「クララ……?」
困ったようにクララが頷く。ヴァニーの顔から色が失せていくのが、アンリにも分かった。
サリオンの説明はとても簡潔だった。そしてそれを聞いている間に、ヴァニーの顔は目に見えて青くなっていった。
「だって、真珠の冠をかぶっていたから……」
呆然と目を見開いたまま、ヴァニーは両手を床についた。
「約束してたんだ……真珠の冠をくれるって。だから──王女だって言うし……髪も金色できれいだったし……一緒に遊んでくれるんだって、そう思って……」
「だって、私の冠も真珠なんですもの……」
クララの手はかなり躊躇って、ようやくヴァニーの肩に触れた。
「私の髪は金色だし、それに私、本当に王女なんですもの……一緒に遊んでくれて、とても楽しくて、わたし……」
言葉はさまよって、息に紛れた。
ヴァニーは濡れた空色の瞳を見上げたが、言葉は出なかった。
「クララは、一度鏡を見たと言っています。それをあなたが、どこかへ放ってしまったと」
「あれは幻だよ……」
上の空で答えてから、ヴァニーははっと顔を上げた。
「よく作るんだよ、クレア=ムーシュの幻を。来てくれないときに一緒に遊ぶのに……でもあのときは、クレア=ムーシュがいるのに幻が現れたから──作ったつもりはなかったのに──だから……」
「だから?」
サリオンの瞳が少し険しくなる。
ヴァニーの顔から、再び色が消えた。
「邪魔だったから、腹が立って、それで──消えろ、って……」
「消したんですか!?」
サトリが悲鳴を上げる。ヴァニーは慌てて首を振った。
「ちがう! 放り出したんだ──夢の世界、から……」
言いつのる唇が次第に震えて、紫色の瞳が泣きだしそうにサリオンを見上げた。
「サリオン……僕、そんなつもりじゃ──だって知らなかった……!」
サリオンの瞳は石のようで、アンリにはその表情はよく分からなかった。
「たぶんその幻が、本物のクレア=ムーシュでしょう。問題は、どこへ行ってしまったかですか……」
「まさか、〈間〉まで飛ばされたんじゃ……!」
ヴァニーの言葉に、アンリの背筋は冷たくなった。
あの無限──上も下もない、自分という存在すら曖昧に分からなくなる、あの──
「それはないでしょう」
しかし、サリオンの声は落ち着いていた。
「〈間〉ならば柱の姫の力が及びます。クレア=ムーシュが〈間〉まで飛ばされたのなら、とっくに自力でイストに戻っているはずです」
「そうか……そうだよね……」
ヴァニーはいくらか安心したようだったが、その顔には相変わらず色がなかった。
「……姫はどこにいるんです、サリオン?」
泣き出しそうに小さな声で、サトリが言う。
サリオンは眉を寄せてヴァニーを見つめた。
「夢の世界へは確かに行って、イストへは戻っていない──とすると、やはり夢のどこかに、まだいるのでしょうね。夢の中では、姫といえども自由には動けませんから──たぶんどこかに、引っ掛かっているとか……」
「どこかって……僕が言うのもなんだけど、夢の中で人探しをするのは……」
ヴァニーが困ったように眉をひそめる。
「知ってるだろうけどさ──夢は常に動いているんだよ。いろんな人が来るからね。外れの方は、夢の残骸でいろんなものが歪んで不安定になってるし……」
「優秀な道案内がいるから、心配いりませんよ」
急にサリオンの視線が向いて、アンリは驚いた。クララが気づいて顔をしかめる。
「──ぼく?」
「眠っていたにしろ、あなたはもうクレア=ムーシュを知っているんですから。跡を追うことはできるでしょう?」
「できる、と思うけど……夢の中で?」
それが具体的にどういうことなのか、アンリにはよく分からなかった。
「ヴァニーが手を貸してくれるでしょう」
ヴァニーを見下ろすサリオンの瞳は、まだ少し厳しかった。ヴァニーが素直に頷く。
「ではまず、クララをエルデンに帰してあげてください。それから、クレア=ムーシュを探しに行きましょう」
アンリは残って自分は帰されることに、クララは少しだけ不満そうだったが、文句は言わずに寝台に横になった。
ヴァニーが手でそっとその瞼を閉じると、もう、クララは静かな寝息をたてていた。
白い寝台の横、羽根の壁のほかは何もないところに向かって、ヴァニーが両手を掲げる。
「じゃあ、みんな僕に……」
「サリオン!!」
その声はあまりに唐突で、サリオンまでもがびくりと体を強張らせた。
ヴァニーは手を下ろして振り返った。
「そなたが私を拒み続けたのは、私がそなたよりも背が高かったからか!?」
「だれ──死神?」
ヴァニーは驚いたように目を瞬いている。
サリオンはかなり不機嫌そうな表情で、肩から下げた麻袋の口を開いた。
「なぜそなたは、自分よりも小さい者ならば、こうも簡単に道連れするのだ! 私の同行を許したのも、私がこんなに小さくなったからなのか!?」
サリオンが無造作に取り出して寝台の上に放っても、まだ死神は叫んでいたが、サリオンは聞く様子も見せなかった。眉を寄せて、頭蓋骨を取り出した袋の中を覗き込んでいる。
「──アーデル、ユーン、そんなところで何をしているのです」
アンリは驚いて、思わずサリオンの手もとを覗き込んだ。
彼らにとってはとても深い袋の底で、二人の小人は決まり悪そうに座り込み、満面の笑みを顔に貼り付けていた。
「その……サリオン殿、つまり──貴殿を説得するには、やはりお側近くでお仕えすべきかと──何か我らにできることも、あるやもしれませぬし……」
しかし灰色の髭のアーデルの声は、サリオンの石のような瞳の下で消えていった。そわそわと、落ち着かなげに互いに目を見合わせている。
「アーデルにユーンって……侏儒の?」
ヴァニーの紫色の瞳が一瞬輝いたのを、アンリは見た。
小人たちの顔がさっと青ざめる。
「ヴァニー……!?」
「サリオン! 見えぬではないか! その小人たちと何をしているのだ!?」
死神は放り出されたときに、ちょうどそっぽを向いて掛布の上に乗っていた。
「黙らないと叩き割りますよ!」
濃い煉瓦色のルクレチアが、すぐ隣に飛び乗って怒鳴りつける。
「おお、気まぐれなルクレチア……」
そう呟いて、頭蓋骨は静かになった。
「侏儒も連れていくの、サリオン?」
嬉しそうにヴァニーが近づくと、袋の中で、小人たちは震えてさらに縮こまった。二人の様子を見つめてから顔を上げたサリオンの唇は、小さく微笑んでいた。
「──そうですね。ついて来たいと言っていることですし。面倒を見てくれますか、ヴァニー?」
「あ、いや、サリオン殿!」
アーデルが慌てて声を張り上げる。
「やはり、我らごとき非力な者では、お邪魔になるばかりのようだ。ご無礼はお許し願って、このたびは失礼するといたそう!」
「僕は構わないよ」
ヴァニーの手が今にも触りたそうに麻の袋に伸びたが、サリオンは間際で、袋を床に下ろして開いた。二人の小人が転がるように飛び出して、サリオンのブーツの後ろに隠れる。
「サトリ、あとで二人を郷まで送ってあげてください」
サトリが頷くと、サリオンは腰を屈めて二人と視線を合わせた。
「これでもついて来るようなら、お二人の身柄はヴァニーに預けることになりますよ。私は今取り込んでいて、お相手できませんから」
「決して……!」
硬い顎髭のユーンは、人形のように何度も首を振った。
「どうかお許しを……!」
小さな手を握り合わせて跪く。サリオンは小さくため息をついて体を起こした。麻の袋に死神を無造作に入れて、再び肩から掛ける。
「行きましょうか、ヴァニー」
「うん……」
縮こまる小人たちを見下ろして、ちょっと残念そうにため息をつき、それからヴァニーは再び壁に向かって両手を掲げた。
一瞬、それは陽炎のように見えた。
ヴァニーの目の前で、空気が細長く歪んで揺らいでいる。
「ついて来て」
肩越しに言ったときには、もう歩き出したヴァニーの素足の先が消えていた。
アンリは驚いて立ちすくんだが、サリオンは振り向きもせずにヴァニーの後に続いていた。歪んだ空気に触れたところから、その体がどこかへ消えていく。
「〈間〉じゃありませんから、大丈夫ですよ」
キャンベルローズはメイアッシュを促して、さっさとサリオンに続いていたが、ルクレチアは足下でアンリを待っていた。
「どうかクレア=ムーシュを……お願いします」
すがるような瞳のサトリに小さく礼をして、アンリは意を決した。
「お気をつけて、我らが王よ……!」
かなり控えめな声を背後に聞いたと思った次の瞬間──そこはもう、羽の部屋ではなかった。




