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1.眠れる王女

「サリオンを捜してまいれ」


 一瞬の静寂の後、広間はざわめきに満たされた。


「灰色のサリオンを──でございますか?」


 ようやく老式部官が口を開いた途端、明らかな動揺が、着飾った高官たちの間に広がった。


「銀のサリオンを……?」

「かの放浪者を、ここへ……?」

「死の先触れとも言われる──」


 高まるざわめきを、王は肘掛けに笏を打ち付けて、乱暴に終わらせた。


「どれでもいい。魔法使いサリオンを、ここへ連れてくるのだ」


 苛立たしげに立ち上がった王を、怯えたように見上げて、次いで高官たちは窺うように互いに顔を見合わせた。



 * * *



 四日の後。

 フォーロットの王は、落ち着かなげに正装を玉座に埋めていた。


 その姿が、期待していたように厳めしくも威圧的でもなかったことに、王は安堵していた。

 全身を灰色に包んだその姿は、どう推察しても、二十歳を越えているようには見えなかった。煉瓦色の猫がその足下で、さして興味もなさそうに窓のステンドグラスを眺めている。


「貴殿が、サリオンか?」


 金を貼った玉座も居並ぶ大臣たちも、まるで気にするふうもなく、サリオンはまっすぐに王を見つめていた。(ほど)けば床に届きそうな髪は背後でひとつに編まれて、午後の光が揺れるたび、銀の輝きが瞬いている。


「いかにも」


 緑の瞳は硬質の石のようだ。

 当然のように腰を屈めようともしないその態度が、そしてそれを、当然のことのように受け入れている自分自身が、王をひどく当惑させていた。

 大粒のエメラルドを頂いた笏をしっかりと握りしめ、いくらか毅然として見えるようにと祈りながら姿勢を直してから、王はわずかに身を乗り出した。


「……魔法使いか?」


 低く言った途端、広間を満たしていた囁き声がぴたりと止んだ。沈黙が、何かを期待して膨れ上がる。

 しかしサリオンは、かすかにため息をついて肩をすくめただけだった。


「なんとでも──お好きなように」


 その声は、詩人の歌声のようによく通ったが、どこかうんざりしたように投げやりだった。足元の猫が、琥珀色の目に軽蔑の色を滲ませる。

 王は慌てて咳払いをした。


「いや……ご足労に感謝する──サリオン殿」


 しかし、サリオンはまっすぐに王を見つめたままで、口を開こうとしない。

 きまりの悪い思いをしないために、王はすぐに再び口を開かねばならなかった。


「実は、貴殿の力が必要なのだ、サリオン殿」


 宝石を嵌め込んだ金の王冠がひどく重く感じられて、それがいっそう、王を居心地の悪い気分にさせている。


「我が最愛の娘にしてフォーロットの宝──王女クララの病を治して欲しい」


 自分の言葉にいっそう、胸が苦しくなる。


「医術の心得はありません」


 王の苦しみも広間を埋める重い沈黙も、まるで気にする様子もなく、サリオンは静かに言った。


「頼みは貴殿だけなのだ!」


 それはなかば悲鳴だった。

 正装に押し込めていた感情が、弾けたようにあふれ出す。


「国中の……いや、呼べるだけの医師も薬師もすべて頼んだ。洞窟の賢人から田舎の藪医者まで、すべてだ。名高い魔術師もどの呪文師も、伝承や迷信に通じた古老たちも──誰ひとり、クララの目を開かせることはできぬのだ……!」


 静寂に、張り上げた声が空虚に響いていることは分かっていたが、あふれ出した思いを止めることはできなかった。


「残る望みは、魔法使い──貴殿だけなのだ! この世界にただ一人の、貴殿にも癒せぬ病なら……」


 口をついた自分の言葉に驚いて、王は笏を落としそうになった。

 血の引く音さえ聞こえそうだ。自分はいったい、何を言おうとしたのか──


 唇は言葉の続きを形作ったまま、王は必死に息を(こら)えていた。

 言葉にした途端、恐怖は形を持ってこの無力な父を襲うだろう。


 ふいに、緑色の瞳が逸らされて──王は思わず、すべての言葉を吐き出したい衝動に駆られた。

 しかし声が形になる前に、石のような瞳が再び、うろたえきった王の視線をとらえた。


「王女はどちらです」


 その途端、足下で煉瓦色の猫が、呆れたように大きくため息をついた。




 花のモチーフを全面にあしらった樫の扉の前で、青い服の少年が所在なげにうろうろしていた。


「アンリ」

「父上……」


 数人の侍者だけを従えてサリオンを案内してきた王は、不機嫌に顔をしかめた。


「ここで何をしておる」

「あの……何か、できないかと思って、僕……」

「お前に何ができるというのだ」


 苛立たしげな王の表情に、少年はきまり悪そうに俯いた。


「サリオン殿が診てくださるのだ。お前が余計なことを考える必要はない」


 少年は何か言いたげに顔を上げたが、唇はついに動かなかった。


「できぬことをしようと思うな。誰の邪魔もせぬ限り、何をしても良いと言っているであろう」

「……はい。父上」


 父の強い口調に、少年は再び目を伏せると、王と、そしてサリオンに礼をして歩き去った。

 そのうなだれた後ろ姿をため息をついて見送り、王は自嘲ぎみにサリオンを見上げた。


「息子のアンリだ。末の子ゆえ、少々甘やかされてしまって──ご兄弟はおありか?」


 言ってしまってから、ひどく間の抜けた問いだったことに気づいて、王は取り繕うように鍵束を取り出した。真鍮の鍵が鍵穴にぶつかって、何度も鈍い音をたてる。

 ようやく鍵がはまって、ほっと息をついたとき。


「憶えがありませんから、いないんでしょう」


 すぐ背後で穏やかな声がして、王は思わず鍵束を取り落としそうになった。

 振り仰ぐと、サリオンは考え込むふうで、わずかに眉をひそめていた。何か応えようとしたものの適当な言葉が見つからず、ただ曖昧に笑みを返して、王は再び鍵に集中した。


 花の扉を押し開くと、午後の斜光が柔らかく床を漂っていた。磨き上げられた揃いの調度は、日暮れ時にその彫刻が一番美しい。

 しかし今、そこに人の気配はなく、王はため息をついてサリオンを中へと導いた。従者たちは扉の前に残り、若い近習ひとりが、生真面目に煉瓦色の猫の後ろに従った。

 奥の扉を開き、王は無言でサリオンを促した。




 陽光は薄いカーテンで遮られていた。

 天蓋の下。白い枕に広がる髪は茶色がかった金色で、その鈍い輝きが頬の白さを際立たせている。その美しい陶器のような寝顔が、今の王には辛かった。


「娘のクララだ」


 声はかすれて、まるで眠りを妨げることを恐れているかのようだ──目覚めを何よりも望んでいるというのに。


 まっすぐに部屋を横切ったサリオンは、天蓋の下にその長身を屈めた。

 その背の真ん中あたりまで届く灰色の三角帽子の先端で、スモモほどの大きさのガラスの鈴が、銀の髪を透かして輝いている。三つ編みが背を滑るたび、転がるように揺れるその様子はどこか愛らしく、王は思わず口元をほころばせた。

 何と噂されようと、その姿はほんの若者にすぎない。

 フォーロットの王が、いったい何を恐れることがあるだろう。


 猫が、音もたてずに寝台に飛び乗った。


 ふと、王は眉を寄せた。

 はっきりとは判らない。ただ何か──奇妙な感じがした。


 寝台の端に座り込んで、猫は興味深そうに王女の顔を眺めている。

 その煉瓦色の小さな頭ごしに覗き込むようにして、サリオンは首を傾げている。


 最後に王が聞いたのは、近習がそっと閉める扉の音だった。上質の絨毯は足音を吸い込み、厚い石の壁が外部からの物音を遮っている。


 王はゆっくりと唾を飲み込んだ。

 サリオンが動くたび、透き通った鈴の中で小さな玉が確かに転がるのを、王は見た──この耳を聾する静寂の中で。


「驚くべきですよ、サリオン」


 懸命に平静を保とうとしていた王は、この途端に思わず後ずさり、同じように息を呑んだ近習の足を踏みつけた。長身の青年は、礼儀正しく悲鳴を噛み殺して王を支えた。

 煉瓦色の猫が琥珀色の目を細めて振り返ったとき、王の唇は、ほとんど悲鳴の形に開いていた。


「これが取り替え子でないなら、自然の力の慈悲深さに敬服しますよ、あたしは」

「サリオン殿……!」


 ようやく、王は悲鳴以外の言葉を見つけた。


「それ……その、猫──しゃべって……!」


 しかし聞こえているのかいないのか、サリオンは振り返りもせず、手を伸ばしてそっと王女の白い頬に触れた。


「さるご婦人によく似ているんですよ、王女が。──いつから眠り続けているんです?」


 王は必死に近習の腕にすがりつき、琥珀色の瞳から目を逸らそうとしていた。

 言葉に合わせて動いていた鋭い牙の残像が、いつまでも消えない。


「王? 王女が──やめなさい、ルクレチア」


 応えようとしない王を振り返って、ようやくサリオンは様子に気づいたようだった。咎めるように、傍らの猫を見下ろす。

 煉瓦色の猫は呆れたように王を一瞥(いちべつ)してから、澄ましてそっぽを向いた。


「王女が眠り始めたのはいつです?」


 ようやく猫から目を逸らして、王は居ずまいを正そうと努めた。


「あ──十……いや、十一日目だ、今日が」


 背筋を伸ばしてなんとか気を落ち着けようとしたが、その爪がまだ近習の腕に食い込んでいることには気づかなかった。長身の青年は懇願するような目でサリオンを見つめて、それでも身動きひとつしなかった。


「ずっと眠ったままですね?」


 再び王女の寝顔を覗き込んだサリオンの穏やかな声に、王はいくばくかの希望が湧き上がってくるのを感じた。


「さよう──どうだ、何か……」

「手遅れですね」


 瞬間、王にはその言葉が理解できなかった。


「なん……」

「大丈夫。苦しみはしないでしょう」


 振り返った瞳は石のようで、硬いその光を振り払うように、王は激しく首を振った。気遣うように腕に置かれた手を振りほどいて、サリオンに駆け寄る。


「何もできぬと言うのか!!」

「陛下!」


 慌てて制止しようとする近習を乱暴に振り払い、王はサリオンの両腕を掴んで、その細い体を揺すぶった。見下ろす緑色の瞳に表情はない。


「この綺麗な顔を見よ! まだ衰弱してはいないはずだ! 何かあるはずだ──そうであろう!?」

「陛下……!」


 若い近習の声は涙でくぐもっていた。その強い腕に抱えられるようにして引き剥がされても、王の体はサリオンに向かって行こうとしていた。


「何かできるはずだ!! 何か──なんでもいい……何かしてくれ……!」


 ふいに力尽きて、王は近習の腕をすり抜けて床に座り込んだ。


「頼む、サリオン殿──この無力な父を、憐れんでくれ……」

「陛下……」

「目の前で死んでゆく最愛の娘に、私は何ひとつ、してやれないのか……? クララが助かるためなら、私はこの国を手放すことも厭わぬ……」

「手放されても受け取るつもりはありませんが──いずれにせよ、時が経ちすぎています」


 見上げた途端、涙があふれた。歪む視界に、銀の髪が眩しかった。

 絶望は、思い描いていたような闇ではなく、目を射るまばゆい光だった。




「でもサリオン。あなたはこの子に、借りがありますよ」


 牙の奥でくぐもる高い声も、今度は王を驚かさなかった。

 煉瓦色の猫は、王とサリオンのやり取りなど一切関心ない様子で、じっと王女を見つめていた。

 サリオンが振り返って再び寝台に歩み寄る様子を、王は座り込んだまま、なかば夢見心地で見つめた。


「五年ほども前だと思いますけどね」


 サリオンはわずかに眉を寄せたようだった。


「……傷の手当てをしてくれた?」

「あなたはお礼をすると言ったのに、この子はどうしても受けようとしなかったじゃありませんか」

「──本当にあの子ですか?」


 すると猫は、澄ましたようにつんと顎を反らした。


「あたしはあなた方とは違って、匂いでものを見るんです」


 軽蔑しているようにも聞こえる言葉を気にする様子もなく、サリオンは指を顎に当てて、束の間考え込んだ。


「確かあそこは山あいの村はずれで──あの子はどう見ても、羊飼いの娘でしたが」


 振り返ったサリオンに見つめられて、王は言葉に詰まった。


「あ……クララは……」

「つい先ほど、あなたが『末の子』と呼んだ少年は、この王女よりも年上のようでしたね」

「あ──その……」


 ひどく後ろめたいような気分で、ゆっくりと王は立ち上がった。


「つまり──少々、事情があって……クララは二年前まで城の外で育ったのだ。お察しいただけると思うが……」

「そうですか」


 再びサリオンは、白い寝顔を見下ろした。

 そして。


「死神」


 突然のその言葉の響きにぎくりとし、王は思わず近習と顔を見合わせた。


「──死神?」


 再び、サリオンが呼びかけるように言う。しかし、応える物音はない。

 するとサリオンはため息をつき、肩に掛けていた袋の口をほどいた。


「ひ……!」


 王と近習は、思わず手を取り合った。


「死神──起きなさい、死神」


 いくらか苛立たしげ言いながら、サリオンが麻袋から取り出したのは、白い頭蓋骨だった。

 息を詰めて見つめていると、どこからか深い吐息が聞こえた。


「……恨もうぞ、サリオン」


 そのなめらかな低い声は、どう考えても、剥き出しの白い歯の間から聞こえているようだった。


「我が麗しの君よ──そなたは私が生きていたときには、決してそのように熱心に呼んではくれなかった……」

「お前の()れ言に付き合っている時間はありません」


 不機嫌に言うと、サリオンは頭蓋骨を王女の寝顔へと向けた。


「──五日と持つまい」


 動かない顎で低い声が言う。その言葉は王の耳で震えて、意味を持たなかった。

 頭蓋骨を片手に持ったまま振り返るサリオンを、王は怯えて見つめていた。


「あと三十年といったところだな」


 空ろな眼窩(がんか)が王と向き合った途端、低い声がなめらかに言った。


「そこまでは訊いていません」


 苛立たしげに言って、サリオンは頭蓋骨を無造作に麻袋に押し込んだ。


「ああ、麗しのサリオン……」


 きつく結ばれた袋の口で、嘆くような声がくぐもって消える。


「サリオン殿……それは──」


 王がようやく震える声を押し出すと、掛布の上で、猫が呆れたように鼻を鳴らした。


「今日びの王様は、頭蓋骨も知らないときているんだから。その頭に詰まってるのは、いったい何だと思っているんです?」

「黙っていなさい、ルクレチア」


 サリオンの声には、どこかうんざりしたような響きがあった。

 煉瓦色の猫は、澄まして王と近習を眺めている。


「王」


 穏やかな声で呼びかけられて、フォーロットの王はすがるようにサリオンを見上げた。


「原因を、探す術がないわけではありません。できるだけのことはしてみますが──間に合う可能性はあまり高くないでしょう」


 それだけ言うと、サリオンは立ち尽くす王の脇をすり抜けて、扉へと向かった。煉瓦色の猫が、気取ったように尻尾をぴんと立ててあとに続く。


「ま……待ってくれ! 何か──私は、何をしたら良いのだ……?」


 王は慌てて、サリオンの腕にしがみついた。


「呼びかけてください」


 王の手を振り払おうとはせず、変わらない静かな声でサリオンは言った。


「遊び相手か親しい方に、始終話しかけさせてください。もしかしたら、王女の耳に届くかもしれません。三日経っても目覚めないときは──諦めてください」


 すり抜けていくサリオンの細い腕を、王はそれ以上とらえておくことができなかった。


「三日……?」


 静かに閉じる扉の音を、王は遠くで聞いた。


「──陛下!」


 崩れる王の体を支えきれずに、近習も傍らに膝をついた。


「しっかりしてください、陛下! 大丈夫です。できるだけのことはすると、おっしゃったではありませんか」

「あと、三日……?」


 王の目が何を見つめているのか、若者には判らなかった。


「陛下……!」


 力のない腕をつかんで揺すぶりながら、涙を流したのは若者のほうだった。


 

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