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加護であり、呪いのように

「マクシミリアン殿下、本日は申し訳ございません」

「まあ、お義姉様、たまには息抜きも必要よ。視察ばかりでは殿下も疲れてしまうわ。折角ピアース公爵領には落ち着ける素晴らしい場所があるというのに」

「ルーティナ、今日は予備日だから心配いらない。元々予定が押した時のために確保していた日だ。それを有効活用し、君と未来の義妹殿と過ごす時間にしただけだ」


ルーティナは心の中で溜息を吐いた。

忙しい日々を送る婚約者のマクシミリアン第三王子。これから半年後に控えたルーティナとの婚礼に向け更に多忙な毎日を送ることが予想されているのだ、せめて休める日にはしっかりと休養を取ってもらいたいというのに。

ところが、マクシミリアンの予定をどこからか聞きつけた義妹のセラフィが外出しようと誘ってきたのだ。


セラフィの提案した外出先は、意外にも静かな湖の畔だった。これが、本来のセラフィが好きな領都での買い物であればマクシミリアンに気と金を使わせ、ただ疲れさせるだけになってしまっていたことだろう。


そしてルーティナはマクシミリアンから、何故か彼の隣に座る義妹のセラフィへ視線を動かした。ルーティナの横でないこともそうだが、その距離感が不思議でならない。馬車が揺れる度に体をしなだれさせ密着しているのだ。マクシミリアンの婚約者であるルーティナの前で。


注意しようにも、マクシミリアンの前で事を荒立てるよりは邸に帰ってからの方が賢明だとルーティナはただその様を見ていたのだった。



湖に到着するとセラフィはルーティナの手を取りもっと水辺に近付こうと誘ってきた。普段ルーティナに話しかけもしないセラフィにしては珍しい行動だった。


誘われるがままに湖に近づくと、セラフィは楽しそうに笑いながら、一枚の紙をルーティナに見せた。


「お義姉様なら、これが何を意味するかご存知よね?」

「ええ、勿論。でも、どうしてあなたがそれを?お父様が、セラフィの嫌がるような結婚を考えることはないわ」

「そうね、お父様に関しては正解だわ。でもね、これを使うのはお義姉様よ。全くおめでたいのだから。お義姉様はここで殿下の愛を疑って水の精霊に問い掛けをするの」

「何故、わたしは疑ってなどいないわ」

「いいえ、これから疑うの。さあ、水の精霊の加護を全身で受けるといいわ」


呪文が書かれた紙をセラフィは湖に放り投げ、何か呟くと、すぐさまルーティナを湖へ突き落としたのだった。

そして、マクシミリアンを始め護衛の騎士や侍女へ向かい叫んだ、『お義姉様が湖へ』と。


春先の湖の水はまだ冷たい。すぐに水を含んだドレスは重くなり、ルーティナをその冷たさで包もうとしているようだった。

このまま湖の深層部へ引きずり込まれる、そう思った瞬間、ルーティナの耳に優しい声が聞こえてきた。


『分かった、ではそなたは猫にしよう。猫の姿で湖から返すとしよう』


そして次の瞬間聞こえてきたのは、セラフィの声だった。

「まあ、薄汚れた猫ね。どうせならトカゲやヘビにでもしてもらえばよかったのに」

意地悪そうな笑みを浮かべながらセラフィは猫の首根っこを掴み持ち上げた。ところがマクシミリアンが近づくと今度は困惑気味の表情へ変え、ルーティナである猫をそのまま地面に落としたのだった。


「セラフィ、ルーティナは?」

「それが、湖の中へ」

「湖?湖面すら揺れていないが」

「ですが、本当に湖にお入りになってしまったのです。全て正直に話しますので、どうかわたしを信じて下さい」

「にゃうう、なう、にゃー」

「いけません、お義姉様。殿下が濡れてしまいます」

「セラフィ、何故、猫をお義姉様と呼ぶのだ」

「それは…」


本来、婚姻後に聞くはずだったピアース公爵家と水の精霊との話に、マクシミリアンは驚きを隠せなかった。代々王家がピアース公爵家に婿入りすることが国の決まりだとは聞いていたが、そこに水を守る為の精霊が関与しているとは。


「ピアース公爵家の娘には時に精霊が加護を与えるのです。本人が望まぬ結婚をさせられそうな時や、婚約者からの愛を感じられない時に特別な。その加護を受けると、娘は何かしらの他の生き物になります」

「待ってくれ、では、ルーティナはわたしとの結婚を望んでいなかった、若しくは、わたしを信じていなかった、そして猫になったと言うのか」

「なあぁ、にゃうぅぅ、なう」

猫にされたルーティナはマクシミリアンの言葉を必死に否定しようとした。しかし、出て来るのは猫の鳴き声だけ。


「馬車の中でお義姉様は本日のことを殿下にお詫びしました。ですが、今日、どうしてもここに行きたい、どうにかしてほしいとわたしに相談してきたのは、お義姉様なのです」

「なあぁぁぁ、にゃう」

セラフィの言葉は嘘だと力の限り叫んでも、またもやルーティナは猫として鳴くしか出来なかった。


「元の姿に戻るにはどうすればいいのだ?」

「残念ながらそれはお伝えできません。わたしの意思でお伝え出来ないのではなく、水の精霊の力により」


マクシミリアンはセラフィからの俄かには信じがたい説明を、その後身をもって理解した。

水の精霊はピアース公爵家の女性にのみ加護を与えること、また、人に戻る方法も女性にしか伝えられないようにしていることを。


セラフィがルーティナを人に戻す方法を話し始めた途端、マクシミリアンは全ての音を一切拾えなくなったのだ。


「ルーティナ、どうして…、君はわたしに好意を持ってくれていなかったのか」

「なうぅぅぅ」

ルーティナはそんなことはないとマクシミリアンに必死に伝えた。それに気付いて欲しかった、好意がないならとっくにここから消え去っていると。


「君は半年で人の姿に戻ってくれるのか?」

「殿下、そればかりは誰にも分かりません。精霊のお心次第。ですが、殿下はお心を決めなくては。猫と結婚式を挙げるのか否か。お義姉様が人に戻らなかった時、どうするのかを」

「…」

「ピアース公爵家との婚姻を守ることに主眼を置くなら、わたしがお義姉様の代わりになります。猫のお義姉様では殿下の子を身籠ることは出来ませんが、わたしなら出来ます。考えて下さい、猫と結婚する変わり者と言われるかどうかを」


ルーティナは理解した。セラフィはとうとうピアース公爵家とマクシミリアンを手に入れようと策を講じてきたのだと。

ルーティナのモノを何でも欲しがるセラフィ。ドレスやアクセサリーに飽き足らず、まさか精霊の力を借りこんなことまでしてしまうとは。


「お義姉様、少しでも殿下を思い遣る気持ちがあるのなら、立ち去って下さい。お義姉様がここにいることは殿下を苦しめるだけです」

セラフィは言葉巧みにこの場からルーティナを排除しようとする。そしてそれはルーティナが人に戻る可能性を排除することにも繋がってしまう。


ルーティナは十年以上マクシミリアンとの関係を大切にしてきた。共に学び、共に笑い。マクシミリアンを思い遣る気持ちは誰にも負けないと自負出来る。それを、たった少し示す為の方法が、この場から消えることだなんて。それしか出来ないとセラフィに言われたルーティナは確かに小さな猫の姿。言葉も全て猫の鳴き声になってしまっている。


ルーティナは初めて『慕う』という言葉ではなく『愛している』とマクシミリアンへ向かい叫んだ。精霊がその言葉だけでもせめて人の言葉にしてくれないかと願いを込めて。

しかし、出てきたのは『なうぅぅぅ』という鳴き声だけだった。







「デリック、猫が襲われているぞ、助けてやれよ。おまえ動物得意だろう」


猫になってから三か月、ルーティナは貞操の危機を迎えていた。

湖から去った後、生きていく為に町へやってくれば丁度繁殖期。なんとか一度目の繁殖期を乗り越えたのもつかの間、またもや繁殖期が来たのだ。


喧嘩に勝った大きな雄猫ばかりが近づいてくる。猫に成りきれないルーティナは町でも食べられるものは限られているので小さいし、他の雌猫のように威嚇や猫パンチを繰り出せない。今までは何とか逃げ切っていたのに、目の前の雄猫は頭が良かったのだろう。ルーティナをこれ以上後がない袋小路に追いやったのだ。


人に戻れる望みが薄いなら、このまま猫としての自然の法則に従った方が楽なのかもしれない。子猫を産んで育てて。そんな人生ならぬ“にゃん生”も、ありのような気がする。目の前の雄猫は強そうだ、生まれてくる子猫達も強く生き延びていけるだろう。

ルーティナがそう思った時だった、あの日以来二度目となる首根っこを掴まれたのだった。


「ほら、逃げろ」

あの日は掴まれた後地面に落とされたが、今回は優しく地面に下ろされた。

「なううぅ、にゃ」


「おい、この猫、デリックに礼を言っているんじゃないか?」

婚約者すら猫のルーティナの言葉を理解してくれなかったというのに、通りすがりの男性が何故か何を言っているか理解してくれた。


「なあぁぁぁ、にゃうう」

「そっか、助けられて良かったよ」

「にゃ~」

「今の時期じゃあまた同じ目に合うかもしれないから、デリック、おまえが飼ってやれよ。俺は寮だから無理だ」

実際に助けてくれたデリックという男性、そしてルーティナの言葉を何となく理解してくれた男性。どちらでも良い、ルーティナは助けを求めるべく必至に頼んだ。勿論、猫の鳴き声しか上げられないが。


「俺にはおまえが何を言っているか分からないけれど、それでも良ければついて来い」

「なあぁぁぁ」

「やっぱこいつ人の言葉を理解しているんじゃないか?」

「そんな馬鹿な。野良猫なのに。ところで、アルト、猫は何を食べるんだ?」

「さあ?おまえの食べる物を少し分けてみろよ」


適当なことを言っている二人の会話を聞きながら、ルーティナは助かったと思った。今までもパンくずや野菜くずを探して食べていたのだ、人の食べ物を分けてもらえるのは本当に有り難い。

ルーティナは安全を与えてくれるだろうデリックという男性の後を必死になって追いかけたのだった。


そして漸く到着したデリックの住まい。家というよりは小屋だった。

「ちょっとここで待っていろ」


屋根のあるところに入れると思ったのも束の間、ルーティナはデリックから戸の外で待つように言われてしまった。

そして待つこと数分。デリックは腰巻一枚で、手にタオルを持っていた。


貞操の危機を乗り越えたルーティナだったが、男性と一緒に水浴びをするという、淑女にあるまじき行為をすることになってしまった。しかも、男性に体を洗われるというおまけまで付いている。

「なうううぅ、にゃん、にゃ」

止めてほしいといくら頼んでも、デリックの手はルーティナを洗うため、至る所に触れる。しかも、デリックも水浴び中。勿論何も着ていない。


「良し、きれいになった。拭き終わったら家の中に入れてやるからな。しかし、おまえ、本当に薄汚れていたんだな。洗ったらきれいなミルクティカラーになるとは」

「にゃう」

「領主様の一の姫、ルーティナ様の髪色みたいだな」

「なうううぅ、にゃ、にゃ」

「そっか、おまえも見たことがあるのか?俺も下っ端とはいえ、兵士だからお見掛けしたことがあるんだ。美しいだけじゃなく、俺なんかにも言葉を掛けてくれるお優しい方だった。三ヶ月前に突如消えてしまったらしいんだがな」

「なぁぁ、なう、なう」

「ああ、おまえもきれいになった。そうだ、おまえの名前はルーティナ様にあやかって、ルーにしよう」


ルーティナの鳴き声にデリックは返事をしてくれるものの、その遣り取りから分かるのは何一つ伝わっていないということ。でも、タオルで体から水分を取ってくれるデリックの手の優しさはルーティナに伝わってきたのだった。



デリックとの暮らしは思いの外楽しいものだった。

拾われてから二か月経った頃には、ルーティナはもうこのまま猫のままでいいと思えるようになっていた。デリックと一つの布団で寄り添いながら眠り、デリックの食べるパンの欠片をもらう生活。デリックが出掛けている間はうたた寝をしたり、家の中を少しだけ走ったり。

こんな生活を続けていれば、そのうち人間だった時の記憶も薄れてそのまま猫になれる気がするのだった。

猫として生きてゆく覚悟が決まったのならば、人間だった時の記憶ほどあって欲しくないものはない。


デリックはルーティナの言葉をあまり理解してくれないが、とても優しい。猫になった当初は、繁殖期真っ只中ということもあり、これのどこが水の精霊の加護なのかと思ったものだったが、今なら納得できる。これは加護だと。

猫のルーティナを追ってもくれなかったマクシミリアンと結婚しても、上辺だけの生活でこんな優しさを感じることはなかっただろう。



「ルー、帰ったぞ」

「なぁぁぁ」

「おまえには悪いが、明日から二日ばかり家を空ける。パンと水は多めに用意していくからな。それと窓は少し開けておくから、トイレはちゃんと草むらでしてくれよ」

人間だったことを忘れれば、トイレに関する諸注意をデリックから受けることにも抵抗がなくなるのかとルーティナは考えた。否、既に外でこっそり出来るようになっているのだから、猫なのではとも思えてくる。


「漸く、ルーティナ様の捜索に加わることが出来たんだ」

「にゃ?」

「そうか、おまえも喜んでくれるのか」

ルーティナは驚いた、喜んだのではない。まだ、自分は探してもらえているのだと驚いたのだ。あれからマクシミリアンは後悔したということだろうか。


「ああ、でも、これが最後になる。だから俺のような下っ端が本来は入れない公爵領の重要な湖や周辺を大々的に捜索することが決まったんだ。ルーティナ様がおられれば、来月は第三王子殿下との華燭の典だったというのに。今回見つからなければ、ルーティナ様から妹君のセラフィ様へと婚約者変更をして、一年後に結婚の運びとなるようだ」

ああ、そういうことかとルーティナは理解した。今のままではルーティナは行方不明。そこで区切りをつける為に、最後の捜索をし、ここで見つからなければ亡くなったと見做されるのだろう。一年後に結婚というのは、喪が明けたらということを意味しているに違いない。


そしてデリックの話から、探されるのは人間のルーティナ。デリックは一度も人間が猫になるなんて信じられるか、とか、ミルクティ色の猫を探すなどとは言っていない。

だったら、ルーティナが見つかることなど絶対にない。

そしてマクシミリアンもまた猫のルーティナを探したいと言ってもくれなかったということだ。


「ルー、俺が帰ってこないことがそんなに寂しいのか」

理由は違うが、デリックはルーティナの寂しいという感情を分かってくれたようだ。そして、ルーティナはこんな感情を抱くようならば、本当に人間であった時の記憶を忘れてしまいたいと思ったのだった。



二日後、デリックは暗い表情で家に戻ってきた。

「何の手掛かりも見つけられなかった。ルーティナ様は今どうしておられるのだろう」

「なうううぅ、にゃ」

「そうか、ルーも心配してくれるのか。残念なことだけれど、一月後、本来なら第三王子殿下と結婚するはずだった日に鎮魂の為の植樹をすることになったよ」


何という茶番。ルーティナはそう思うことしか出来なかった。







「デリック、やっとだな」

「ああ、これで鎮魂植樹式の警備が出来る」

「いつもは昇級試験で緊張のあまり必ず腹痛を起こしていたのに。だから、彼女にも腹痛デリックなんて呼ばれて、情けないって振られたのにな」

「アルトと一緒の時に拾った猫を飼ってから、頗る調子がいいんだよ。気付いたら腹痛も一度も起こしていない」

「へえ、お猫様様だな。もういっそのこと猫を彼女にしたらどうだ」

「彼女じゃないけど、大切にはしているよ」

「そうだな、デリックにとっては腹痛防止の猫神様かもしれないからな。人間程生きられないんだから、大切にしてやれよ」


デリックがピアース公爵領の兵士になったのは十五歳の時。三年後から年に二回ある昇級試験を受けられるようになり、挑戦を始めた。しかし、今迄デリックは悉く試験中に腹痛を起こしていた。ところが六回目の試験で初めてデリックは腹痛を起こさなかったのだ。

十八歳の時に初めて出来た彼女には二回目の試験の後で、兵士なのに緊張で腹痛を起こすなんて情けないと振られた。心機一転三度目の試験に臨んだが、そこでもまた腹痛を起こした。そのことは面白がった先輩兵達によって、瞬く間に広がり今では陰で腹痛デリックと呼ばれる始末。

ところが今回は腹の痛みを全く感じなかったのだ。それどころか、まるで猫になったかのように体を軽く感じ動くことが出来た。




「ルー、今日はご馳走だ」

「にゃあぁぁ」

「なんと昇級試験に合格した」

「なううううぅ、にゃ」

デリックが笑顔だとルーティナも嬉しい。その気持ちを伝えたくても、やっぱり全ては鳴き声になってしまう。


「そうか、ご馳走が嬉しいのか。ルーこそ食べる権利があるからな。おまえが来てから俺の運勢は上がり調子だ」

ご馳走が嬉しいのではないが、デリックがまた笑顔を見せてくれるようにルーティナは普段は出ないハムに噛り付いた。喜んで食べている様を見せれば、デリックも嬉しいだろうと。



そんな平和な毎日が続き、気付けばルーティナは猫になってからそろそろ一年を迎えようとしていた。

「ルー、実は隣国の騎士団に迎え入れられることになったんだ。おまえも一緒に連れていくからな」

「にゃあぁぁぁ、なう、なう」

「たまたまお忍びで来ていた隣国の第四王子殿下をお救いしたんだ。ルーが来てから、俺は本当にツイている。本来なら、国を出る手続きやらなにやら大変なのに、殿下の家臣の方々が全て面倒を見てくれるそうだ」


ルーティナは不意に不安に襲われた。今の猫という姿はピアース公爵領にある湖に住まう水の精霊の加護のお陰。もしも、この地から遠く離れたら自分はどうなってしまうのだろうかと思ったのだ。


デリックの傍に居たい。このままずっと猫であっても。隣国へ向かうことで加護がなくなり姿が空気のように消えてしまうなら…。違う、デリックの傍にいられるならもう空気になってもいいとルーティナは思った。

何も出来ないこんな小さな存在のルーティナに沢山の優しさを与えてくれるデリック。最初からデリックと猫のルーティナの間にはギブアンドテイクなど存在しなかった。ただ、大切に、慈しんでもらっただけだ。


「にゃうぅぅぅぅ、にゃ~~~」

「どうしたんだ、ルー」

ルーティナがデリックの胸に向かって飛び上がると、当然のように両手で抱きかかえられた。この優しい手は初めて会った時から、セラフィの様に扱いはしなかった。


「どうした、甘えん坊だな。そうだ、実は隣国へ行く前におまえが名前を貰ったルーティナ様の為に植えられた木に挨拶をして行こうと思うんだ。ルーも行くか?」

「にゃん、なぁ、なぁ」

ルーティナは精一杯自分も付いて行きたいとデリックに答えた。どうか伝わりますようにと。



本当に伝わったのかどうかは分からないが、デリックは植樹にルーティナを連れてきてくれた。それは、奇しくもルーティナが猫になったのと同じ日だった。湖までは大人の足で五分くらいのところだろうか。

「この木までは領民であれば入れるようになったんだ。もう、領民でなくなる俺には最後になるけどな」

「なううぅ」

「ルーティナ様が寂しくないようにと、第三王子殿下と妹君がこうして下さったんだ」


ルーティナに立ち去るように言ったセラフィ、そして追いかけもしなかったマクシミリアン。二人はただルーティナを想っているという姿を他者へ見せたいが故にそうしたに過ぎないのだろう。


と、その時、しっかりとした体躯を持つデリックですらよろめく強風が吹いた。いつまでたっても体が大きくならなかった小猫のルーティナはその風に飛ばされた。


「ルー!」

「んなぁ!」


ルーティナが飛ばされていった方向は許可なく入れない場所。無断で立ち入ればデリックは処罰される可能性がある。それでも、デリックは躊躇することなくルーティナを追いかけた。飛ばされた先に湖があることを以前の捜索で知っているからだ。小さな猫が湖に落ちれば死ぬ可能性があると思うと居ても立っても居られなかった。


デリックが湖の見える開けた場所に到着すると、ちょうど湖の上に小さな竜巻のようなものが発生していた。その渦の中に巻かれるようにルーティナが。


「ルー、ルー」

いくらデリックが呼びかけてもいつもの可愛い鳴き声をルーティナが発することはなかった。それどころか、渦に巻かれそのまま湖に落ちようとしている。


「待っていろ、ルー、今そこへ行くから」

そこへ、周囲の警備をしていた兵がやって来た。


「おい、そこの者、止まれ。ここは立ち入り禁止区域だ」

デリックは人、だからこの後捕まって処罰の対象になる。でも、ルーティナを助ければ、人ではなく猫なのだから捕まることはないだろう。大切なルーが助かるならば、自分はどうなってもいいとデリックは兵の静止命令を聞くことなく湖に飛び込んだのだった。


早春のまだ冷たい水はデリックでも堪える。あんな小さな猫ならばそのまま凍え死ぬかもしれないとデリックは思うと、兎に角竜巻の位置まで泳いで行った。


『おまえは誰?何をしに来た?』

竜巻が起きていたであろう所までやってくると、デリックは不思議な声を聞いた。

水の中、しかも立ち泳ぎをしているデリックには答える余裕はない。


『おまえは誰?何をしに来た?』

しかし声はまた同じ質問をする。デリックは一か八か声に助けを求める為に名を告げ、大切な家族である猫を助けに来たと必死に答えたのだった。


『その猫がそんなに大切なのか?』

デリックは間髪開けずに、俺にとって失うわけにはいかない存在だ、と叫んだ。


『そうか、良かったな』

すると不思議なことにデリックはルーティナを抱きかかえた状態で、湖底だと思われるところに立っていた。どうしてか、息も出来れば、目も開けていられる。


「ルー、大丈夫か?」

「なあぁぁぁ」

「良かった。おまえが無事ならばそれでいいんだ」


『デリックとやら、わたしの大切な娘を長い間預かってくれてありがとう』

「娘?」

『色々あって、猫になっていたが大切なことを知ることが出来た。だからもう大丈夫』

声が言っていることは良く分からないが、先程から聞こえてきたのは『良かった』や『大丈夫』。不思議な場所にいるが、デリックはこれ以上おかしなことになることはない気がした。

しかし、言わなくてはいけないことがある。


「あなたのお嬢さんを俺にいただけますか?」

『この猫をか?』

「はい。猫であろうとあなたの娘の姿になろうと、俺にはなくてはならない存在なので」

『魚でも?』

「どんな姿でも大切にします。ですが、彼女が魚ならば俺も魚にしてもらえませんか。傍で大切にしたいので」

『良かろう。良かったな、ルーティナ』

「えっ?」


驚いたのも束の間、デリックは自分の家の水場にいた。初めて猫のルーを洗った場所だ。しかし両手にはルーの重さ以上のモノが乗っている。

「え、えっと、あの…」

それは信じられないことにルーティナそっくりの女性。しかも、一糸纏わぬ姿。

デリックは直ぐに目を逸らし、その女性をどうしたらいいのかおろおろした。


「ありがとう、わたしを人間に戻してくれて、デリック様。わたしはあなたのルーです。本当の名前がルーティナというルーです」

「えっ?」

ルーティナの言葉に再びデリックは抱きかかえている女性を見ようとして、また目を逸らした。

「あの、あなたはあのルーティナ様ですか?」

「その理解で合っていると思いますが、わたしはあなたのルーです」


状況が状況なだけにあたふたおろおろしながら、デリックは最終的にルーティナを抱きかかえたまま家の中に入ったのだった。


「どこかの国では新婦を新郎が抱きかかえて家に入るんですって。デリック様はわたしをもらって下さったのよね?水の精霊様に宣言したもの」

「水の精霊?」


その夜、デリックはルーティナに起きたこと、この一年のことを全て聞いたのだった。


「本当にいいのでしょうか、その俺、あ、いえ、わたしがルーティナ様と結ばれて」

「まあ、デリック様がわたしを娶ってくれなければ困るわ。わたしを人間に戻してくれた方ですもの。それに、わたし、もうデリック様に何度も体を洗われているのに」


ルーティナが精霊から貰った加護は猫になることだけではなかった。人を癒す力を得ていた。それを使う為にもデリックと共にいたい。デリックからの愛情がその加護の源になるのだから。


「ですが、わたしは貴族ではありません」

「わたしもよ。わたしは猫のルーティナだもの。デリック様と、ううん、デリックと一緒に隣国へ行くわ」

「ルーティナ様…」

「デリック、いつものようにルーと呼んで。いつものように優しくして、そして、大切にして」

「ルー、これからは今まで以上に優しくして大切にする。それに、今度は人として愛してもいいか?」

「なんだかその質問狡いわ。だって聞く必要なんてないもの。愛して、デリック」


その夜、ルーティナは猫の時と同じようにデリックと共に眠り、幸せな夢を見たのだった。鼻と鼻とを着ける挨拶ではなく、唇と唇とを重ね合い愛を確かめ合った後に。まさかルーティナの夢とは対照的な重い真実を、マクシミリアンが精霊から見せられているとは知らずに。



真実を知ったからとマクシミリアンに出来ることは無かった。既に、セラフィと結婚しピアース公爵に入ることは決まっている。大切な湖を守ることで、国に水害が起きないようにしなくてはならない。

伴侶となる者がいつまた如何なる嘘を吐くのか。信じることも、きっと愛することも出来ないだろう。それでもマクシミリアンは王族。表面を繕い、決められたことならば心を殺して遂行するまでだ。



晴れ渡る青空の下行われたマクシミリアンとセラフィの結婚式の翌日。

湖底が見える程、湖の水が失われるという不思議なことが起きたのだった。




(終わり)




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― 新着の感想 ―
[良い点] 良かったです✨ルーティナの試練は本当に誠実な人を得るための布石だったのでしょうか? マクシミリアンは悪い人ではなかったかもしれないけれど、セラフィの悪辣さを見抜くことも、ルーティナを大切に…
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