82:ギャルに記憶を飛ばされた
いつの間にか自転車に乗って家に帰ってきていた。一回だけ信号待ちしたのは朧気に覚えてるんだけど、他はもう、どう漕いできたのか。ずっと頬が熱くて、脳も熱暴走してるみたいだった。
キス、された。
本人は待たされた仕返しみたいなこと言ってたけど、流石に無理がある。仕返しなら頬に飛んでくるのは唇じゃなくてビンタのハズ。というか、きっとアレは照れ隠しだ。
彼女自身も照れるようなことと認識した上で、やったんだ。友達にする親愛のキス? でも流石に洞口さんにもしてるの見たことないから、その線も薄そう。じゃあやっぱり、そういうこと……なんだよね。少しずつ、そうじゃないかなって思い始めてたところに、今回のキス。これで勘違いだったなんてオチ、ないよね?
「夏なのに、春が来た」
「こら、姉を呼び捨てにするな」
すぐ近くから声がして僕はその場で飛び上がった。ホラー映画の視覚演出でも喰らったみたいに、心臓がバクバクしてる。
「ははは。何やってんの、弟よ。お姉ちゃんが家に入れんでしょ」
そうか。僕が玄関の前で黄昏てるから、姉さんが入れなかったのか。コンビニにでも行ってたのか、ラフな格好で立ってる。
「デートはどうだった……って!?」
「え?」
なんか僕の顔を改めて正面から見て、メッチャ驚いてる。
「そっかあ、大成功かあ。良かったね。カノジョ持ち!」
「え? え?」
「なんだ、気付いてないの? 家入って鏡見てみ?」
そう言って僕の背中に手を当て、家の中に押し込んでいく姉さん。僕はされるがまま入って、靴箱の上の壁にかかった鏡を見た。右の頬に赤い口紅が薄くついていた。
「あ……」
感触も残ってるし、疑ってたワケじゃないけど、何よりの動かぬ証拠を見せられて。改めて、あれは現実のことなんだと突きつけられた。
なにかもう、叫びだしそうだった。
ようやっと正式に友達になれて、それだけで感情のキャパが限界寸前だったのに、更にそれ以上の感情を巻き起こされたんだ。処理しきれないそれらが、口から飛び出したがってる。
「う、うわぁぁぁ」
姉さんが見ている恥ずかしさのせいで、強い叫び声は上げられず、さりとて胸の内だけに留めおくことも出来ず、実に中途半端な叫び未満の呻き声が口から漏れでた。
「いや、どういう感情だよ」
僕にも分かるもんか。
「ちょ、ちょっと走ってくる!」
「ええ? もう夕飯だよ!?」
「すぐ戻るから!」
返事も待たず、走り出す。どこを目指してるのか自分でも分からない。そもそもなんで走ってるのかも分からない。なのに足を止められなかった。
だけど流石は僕。アドレナリンが出ていてなお、スタミナの壁は高く、すぐにペースダウン。息を切らしながら、300メートルくらい先の児童公園に駆け込んだ所で、足が止まった。
「はあ、はあ。キス、され、た。ほっぺ、に」
言葉も切れ切れなのに、言わずにはおけなかった。右頬に軽く触れる。彼女の唇と自分の指先では、月とすっぽん。感触なんて全く違うのに、自然とあの場面をリフレインした。
『良かったね。カノジョ持ち!』
姉さんの言葉も脳内で甦る。
カノジョ。まだだけど、これからそうなっていくのかな。本当に淡い、友達の少し上くらいの気持ちは持たれてるのかなとは疑ってたけど。まさかこんなに積極的なアプローチをされるなんて。
星架さん自身の例え話を引用させてもらうなら、有名国立大学の方が、願書も出してないのに、逆指名で入学しないかと言ってくるような。
「……そんな旨い話」
あるのかなあ。冷静になったら、なんだか有り得ない気もしてきた。でも星架さんが僕を弄ぶなんて、やっぱりとてもじゃないけど考えられないし。
「弄ぶワケじゃないけど、仕返しで困らせてみたって線は?」
照れ隠しじゃなくて、イタズラ。意外とお茶目な人だし……いや、やっぱ苦しい。軽い子ならまだしも、自分の方があんな真っ赤になっちゃうような子が、そんな類のイタズラは選ばないと思う。じゃあやっぱり彼女の気持ちは淡いモノじゃなくて、本当に僕をパートナーに選んでくれようとしてる?
そもそも僕は、どうなんだろう。また友達が出来たってだけで嬉しいけど。星架さんとの関係は友達で良いのか、それともなれるのなら恋人になりたいのか。
「もっとよく考えなくちゃ」
友達の好きと異性の好き。今まで考えたこともなかった。と言うか、こんなに親しくなった女の子なんて初めてだから、当たり前なんだけど。
……何にせよ、すぐに答えが出るような話じゃないよね。
「はあ~」
取り敢えず。今日はもう家に帰ろう。
公園のヒグラシたちの大合唱に急かされるように、僕は来た道を引き返すのだった。