180:陰キャがヒーローだった
<星架サイド>
「仕事、行かなくちゃ」
ママがとんでもない事を言い出した。いや、言葉だけに留まらず、グッと足に力を込めて立とうとさえし始めた。
「ちょ、だ、ダメだって! 何かの病気かも知れないんだから!」
「大丈夫よ。大袈裟なんだから」
なんでそんなに楽観視できるのか意味わかんないんだけど! ママのこういう強さに救われる時もあるけど、時と場合を考えて欲しい。
いや、落ち着け。アタシまで感情的になっちゃ、止めれるものも止められない。こういう時は、康生みたいな慎重な思考で。
……うん、そっか。こう言おう。
「無理して職場で倒れたら、恥ずかしいよ? 余計に迷惑も掛かるし」
本当はこんな言い方したくないけど。ママみたいな世間体を気にしがちな、プライドの高いタイプは、これが恐らく一番効く。
事実、効果は覿面だったようで、小さく唸って考え込み始めた。ここは畳み掛けよう。
「昨日までの繁忙期は立派に皆勤でこなしたんだからさ」
「……」
「取り敢えず、少し休んでみて考えよう?」
「……わかった」
ちょっと拗ねるような口調だけど、何とか了承してくれた。ホッと息をつく間もなく、考える。この間に、病院に連れていく手筈を整えて、逃げられないようにしないと。
けどそれは、アタシ一人じゃ無理だ。救急車を呼ぶって言ったら絶対嫌がるだろうし。マンションの下までタクシーに来てもらって……ああそうだ、病院も調べないと。それから勤め先にも、いや派遣会社の方か、電話しないと。
やるべきことがグルグルと頭の中を巡り、その荷重にどんどん心が押しつぶされていく。ふと自分の指先が軽く震えているのに気付いた。
アタシはママにそのまま休んでいるように言いつけ、自室へ戻る。机の上のスマホをひったくるように掴んで……真っ先に浮かんだのは康生の顔だった。頼りないようで、ここぞの時はキチンと頼りになる、アタシの自慢のカレシ。
「……もひもし」
ツーコールの後、寝起き丸出しの声。そのお間抜けさに、さっき拭った涙がまた出てきた。
「星架さん?」
「……康生」
アタシの涙声に、電話越しでも康生の雰囲気が変わったのが分かった。
「どうしたんですか?」
落ち着いた低い声。
「ママが……ママが……倒れて」
「救急車は?」
もっとビックリされるかと思ったのに、康生はひたすら冷静だった。もしかすると早朝の電話とアタシの涙声から、少し予想がついてたのかも。
「今は落ち着いてて。意識もハッキリしてるし。多分、本人が嫌がると思って」
「……分かりました。取り敢えず、すぐにそっちへ行きます」
その言葉に、アタシは自分で思っていた以上の安心感を覚えた。康生が来てくれる。医者でも何でもないのに、それだけで胸につかえていた鉛の大部分がスッと消えたような気さえする。
「星架さんはその間、麗華さんの容態をよく見ておいてください。刺激を与えないように。あと急変するようなら迷わず救急車を」
「う、うん」
「すぐ、10分以内に行きますんで!」
それだけ言って康生は電話を切った。
アタシはリビングへ取って返すと、ママの傍につく。顔色は普通。脈動も乱れがあるようには見えない。目の焦点もあってる。
……さっきより冷静に容態を見ることが出来てる。康生の言葉が効いてるんだ。ここに居ないのに既に寄り添ってくれてるような、そんな心強さを感じる。
「ママ……」
「大丈夫。休んでたら良くなるから」
「お仕事はお休みね?」
「……」
「ママ」
「……そうね。仕方ないか」
「それから本当は救急車」
「大袈裟! 嫌だからね。マンション中に知られるじゃない!」
だから何!? とこっちも大声を出しそうになったけど、グッと堪える。刺激を与えないように。康生の言葉が蘇って、何とか押しとどめた。救急車の話はやっぱダメだ。いたずらに興奮させるだけだ。
「でも病院は行こう? 何かの病気かもしれないし」
「……」
「ママ」
ママは逃げるようにアタシから視線を逸らしてしまう。
「誠秀さんは……」
「え?」
「ん、なんでもない。病院に行くって言ったって、救急外来から調べないといけないし……」
ママがそこまで言いかけた時、突然チャイムが鳴った。アタシは慌てて、インターホンに駆け寄る。また涙が出そうになった。もう来てくれた。時計を見ると、あれから8分くらい。本当に10分もかからずに来てくれるなんて。
「康生!」
「お待たせしました」
すごいよ康生。強キャラみたいになってる。
アタシはすぐに解錠ボタンを押して、康生を通した。
「康生クン、呼んだの?」
「うん。さっきの今で来てくれたんだよ!」
興奮で声が上擦ってしまう。そんなアタシを見て、ママは少しだけ寂しそうに笑った。さっき口をついて出た「誠秀さん」という名前。アタシにとっての康生が誰よりもヒーローなのと一緒で、ママにとっては……




