音が僕の気持ちを運んで
割れた窓。
土の匂い。
ぎしぎしと音がなる床。
緑が絡みついたドア。建付けが悪いからキィキィと嫌な音を立てる。
そして古びたピアノ。
僕にとってそれが世界のすべてだった。
美しいものの具現。僕はこの場所が大好きだ。誰よりも、何よりも。僕だけの場所。この廃墟となった小学校の音楽室で僕は休日のほとんどを過ごす。
そこで僕は、彼女に出会った。
朗々と澄んだピアノの音が流れていた。
いつのまに調律されたのだろうか。それはのびやかに美しく、そしてはかなくどこか物悲しく、僕は目を閉じて音色に浸る。
美しいピアノの音が、僕を包み込む。
その場所が色づいたのは、きっとこの音のおかげだ。
「誰?」
「緒方……」
「私は間宮……。ねぇ、またここに弾きに来てもいい?」
「祝日はいつもいるから、いいよ」
「じゃあまた、祝日に」
それが僕と彼女の約束だ。
◇ ◇ ◇
さらさらとカーテンが音を立てて、風に揺れている。
あたたかな日差し。校庭から聞こえる部活動の声。鳥のさえずり。
チョークの匂いがする。古い教室の匂いが僕の鼻孔をくすぐって、僕はほぅとため息を吐き出す。
そして聞こえるのは、美しいピアノ。
きっと校庭に響いているこの音が僕は大好きだった。僕だけじゃない。きっとみんなが好きだ。
彼女、間宮さんは、いつもこの中学の音楽室でピアノを弾いていた。発表会があってその練習をしているという噂だが、僕は詳しくは知らない。
ただ僕は、彼女が休日にピアノを弾きに行く場所を知っていて、それをいつも独り占めしている。
僕と彼女はただの同学年の友達だけど、僕は彼女の特別になった気持ちがして、得意になっていた。彼女は学校のマドンナだからね。
美しい音色が響く。僕は再びうっとりと目を閉じて、そうして音に浸る。
それが、ぴたりと止まった。
不思議に思って顔を上げると、彼女の隣に同学年の生徒が数人立っていた。
彼女の演奏を途中で止めるなんて、なんて奴らだろう。
彼らは僕の内心など知らないというように、彼女に詰め寄る。
「一緒に部活やらない?」
よくよく見れば軽音部の生徒たちだった。
「ピアノこんなに引けるんだもん。一緒に音楽活動しようよ。ピアノ担当がいなくてさ」
そんな安っぽいセリフが吐き出されて、僕は不機嫌になった。
「彼女はそんなのやらないよ」
僕が言うと、初めて僕の存在に気づいたように、彼らは僕を見て嗤った。
「なんで緒方がそんなこと言えるんだよ。ちょっとあっちいってて、今間宮さんと話しているの」
「間宮さんはバンドはやらないよ。ね」
僕が言うと、間宮さんは小さくうなずいた。
「ごめんね。バンドとか、あまり興味がなくて、私ピアノ一人で弾くのが好きなの」
「それはみんなでやるのを知らないからだよ。楽しいよ!」
無責任なことを言う。
粗末な部活動の演奏に彼女の音はもったいない。
だから入らないで。
僕の願いを聞いてくれたように、間宮さんは丁寧に断った。
よかった。よかった。僕はほっとした。だってこれでまた彼女の音を独り占めできる。
「もったいないよ。知ってるよ。間宮さん廃墟になった小学校のピアノ弾いてるでしょ。あれもう古いし汚いし、全然きれいじゃないし。あんなところで弾いてるなんてさ」
言われて僕はむっとした。
確かに廃墟部、実際にはほとんど幽霊部員で僕しかいないけど、僕が好んで行く廃墟の小学校は汚いけれど、あそこはとても神聖な場所なんだ。
最初は僕一人だったけど、今は間宮さんも来る特別な場所。
僕たち二人の大事な場所。
僕はそれを汚されたような気がした。
「そんなの間宮さんの勝手だろ」
僕は間宮さんの荷物を持つと、間宮さんの手を取って歩き出した。
「ちょっと緒方!」
軽音部の生徒が僕を引き留めようと僕を呼ぶ。答えたのは彼女だった。
「ごめんね。私、あそこでピアノ弾くのが好きなの」
それは僕の心を震わせる。優しい言葉だった。
音楽室を出た彼女は黙り込んでいた。
「私がバンドするって言ったら、怒る?」
そんなことを聞かれる。
僕は一瞬当たり前だと答えようとして、けれどそんなことを友達の僕が言うことじゃないと気付く。
「怒らないけど」
「けど?」
「……」
「幻滅する?」
「そんなことないけど」
「けど?」
「……」
結局彼女の問に僕は答えられなかった。
あれから、軽音部の勧誘は頻度を増した。今は発表会がないという間宮さんはとうとう「一回だけ」と言って一緒に練習し始めた。
僕は音楽室の前の廊下を歩きながらうつむく。
曇り空。冷たい風。
さびれた掃除道具の匂い。古びた部屋の粗末な匂い。
うるさい音。騒がしい音。耳障りな音。そこに彼女の電子ピアノの音が混じる。
少しだけ音がきれいになった。
それでもなんて粗末な演奏だろう。
彼女の音はこんなものではない。
でも。きっと、あの廃墟で聞く音だって、彼女の音ではない。
本当の美しい音色はきっと、照明に照らされた音響設備の整った広い演奏会場でもっとも発揮されるに違いない。
わかっているのに僕は。彼女の音を独り占めしたいんだ。
彼女にすこしだけ裏切られたような気持になって、僕は速足で音楽室を通り過ぎた。
ああ、彼女を連れて行かないで。
そう思うのに僕には止める手立てがない。
この廃墟で彼女の音だけが僕の奇跡だったのに。
どうか彼女を連れて行かないで。
次の土曜日、廃墟で一人、僕はたたずんでいた。
まるで世界に取り残されたようだ。たった一人。幽霊部員たちは当然来ない。
僕は一人でビデオを回す。グランドピアノの鍵盤の蓋の上に一眼カメラを置いて、何を撮影するでもなく。
「結局一人で僕はここにいる。でも前からそうだった。彼女がここに現れるまで、僕はずっと一人でこの場所が大好きだった。これまでと何も変わらない。僕にとってここがすべてだ」
僕は一人つぶやく。自分にいい聞かせるように。
ふと、小さな足音がした。
廃墟となった音楽室のドアを開けて、間宮さんがぽつんと立っていた。
僕は茫然と彼女を見つめる。
「どうして? 今日も軽音部の練習じゃ……」
尋ねると彼女は不思議そうな顔をした。
「どうしてって、だって休みの日はここで弾こうって約束したでしょう? 発表会がないから、ここに来れるし」
「でも部活が……」
「平日みっちりやってるから大丈夫よ」
言って、彼女は古びた椅子に腰を掛けると、しなやかな指で鍵盤をポーンとたたく。
それから笑ってのびやかに音楽を奏で始める。
ビデオの中にはきっと彼女の指が映っているだろう。
僕はそれをきっと宝物にする。
ああ、こんな粗末な僕の言葉では言い表せないけれど、気づいてしまったらしょうがない。
顔があつい。
頬がきっと赤くなってる。息が上がる。胸が苦しい。
ああ、僕は、君が好きだ。