2.皇子と魔女の夜
この夜を何度も繰り返しているから、次に何が起こるか知っている。
喉に焼けつくような痛みを感じ、血を吐くかと思ったあの日、シーヴァに分かっていたのはエディトの命が危機に晒されたということだけだった。
――コンラードは何をやってるの? ああもう、やっぱり一人で行かせるんじゃなかった。
シーヴァとて、宮廷がどんな場所なのか、まったく知らないという訳ではない。
さっと旅装を整え、小童がよこした札束をありったけ鞄に詰め込むと、「エディトのところへ行ってくる。後は頼んだよ」と、丁度すれ違った九歳のオッレに言い捨ててその足で島を出た。
――ふた月もあれば着く。それまでどうにか生きていて。
どこまでも続く広大な陸地を、昼夜を問わず馬車に揺られ、東へ、東へ。
皇都は遠く、間に合わないと何度も思った。他人が思うほど魔女は万能ではない。ひとっ飛びに皇都へ到着する術など、シーヴァは持っていなかった。
祈るような気持ちでようやく皇都に到着したその日、シーヴァの耳に飛び込んできたのは、雑踏の中から聞こえてきたウルサっ子たちの囁きだった。
――皇子様が惚れ込んでた田舎娘が死んじゃったってさ。
ああ、とシーヴァはその場に崩れ落ちそうになった。
そんな兆候は感じなかった。どちらかと言えば、数日前に温かく満ち足りた揺らぎを感じ、今迄のことは全部取り越し苦労だったかとすら思ったのに。
「それは、いつのことだい……」
「三日前だよ、きれいなお姉さん」
――三日……。
シーヴァは壁に手をつき、ぐったりとうなだれた。エディトがさほど苦しまずに逝ったことは分かったが、どちらにしろ逝ったことに変わりはなかった。
――あんたって子は、本当に老婆を働かせるよね。
昔はせいぜい数時間しか遡れなかったが、今ではやろうと思えば三日くらいなら遡れる。
疲れた体に鞭打って、シーヴァは時を遡った。
未来の記憶をとどめたまま、遡れるぎりぎりのところまで。
シーヴァが到着したのはエディトが死んで数時間後、夏の遅い夜が更けた頃だった。
足りなかった、と血の気が引いたが、希望はまだ潰えていなかった。
エディトが完全に行ってしまった徴がない。
何かが彼女を未だこの世界につなぎとめていた。何らかの約束――つまり、魔女の契約のようなものが。
ダグと二人、静まり返った夜のニヴィスノクティス宮殿に到着すると、シーヴァは無駄に広い敷地内を屋根なしの移動用馬車に揺られ、じりじりしながら礼拝堂へ向かった。
礼拝堂の入り口には、気取った片眼鏡が主を守る番人のように立っていた。
ダグが片眼鏡に近づき、何事か囁くと、片眼鏡がシーヴァに恭しく腰を折った。
生粋の宮廷育ちの優雅な所作だった。
「殿下は誰も入るなとの仰せですが」
「この私は別なのさ」
「そうでしょうね。レディ・シーヴァ、どうぞこちらを」
シーヴァは手渡された燭台を持ち、真っ暗な礼拝堂の中へ入っていった。
「蝋燭を」と声をかけると、「ああ」とかすれた少年の声が応える。
――馬鹿だね、こんなに寒いところで。
この声は何度聞いても痛ましかった。
シーヴァが礼拝堂内をそろそろと周って灯りをともすと、仄かな蝋燭の灯りの下で、ぴったりと棺に寄り添う小さな体が浮かび上がった。
否応もなく、何度も見せられるこの光景は、シーヴァへの罰に違いない。
この光景を何度も見るということは、シーヴァが何度も失敗しているということに外ならなかった。
「……何故、出ていかない」
「何故だと思う?」
のろのろと振り返ったラースが憔悴し切った顔をシーヴァに向けた。
「……誰だ」
「スコークスラゥンの魔女」
我ながら気取った名乗りに、毎回身悶えしそうになる。
単にシーヴァと名乗るより、こう言った方が早いだろうと思ったからこうしている訳なのだが、もっとましな名乗りはないものか。
ラースは小さな吐息を漏らし、救われたような顔をした。
「あなたの大事な養い子を死なせた僕を殺しに? ではさっさと頼む」
「馬鹿をお言い。私は私の娘の体を引き取りにきただけさ」
シーヴァは彼の要求を冷たく突っぱねた。
この子はエディトと同じところに行きたがっている。
そうはさせるもんかと思った。今度こそエディトをつなぎとめてみせる。だから……。
「返しておくれ。連れて帰るから」
ほんの少しの間でよかった。エディトの命を再び体に結び直すまで。
祈るように懇願すると、皇子の仮面が剥がれ落ちて、素のままの少年の顔が現れた。
涙ながらに「エディトを生き返らせて」と訴える彼を、シーヴァは何度もはぐらかした。出来るという確証もないまま、当てにならない希望だけを与えることは残酷に過ぎる。
「エディトは嘘つきだ」と、彼は何度も泣きじゃくった。
「僕を置いていかないと言った。――誓ったんだ。最果ての魔女の名において!」
「――あの子がそんなことを?」
初めて聞いた時は驚いたが、今では噛みしめるように頷いてしまう。
エディトがこの世に留まっている理由はこれだった。
皇子と契約したから。
彼を置いていかないと誓ったから。
よくやった、とシーヴァは小さな皇子の頭をぐしゃぐしゃに撫でてやりたいところだった。無自覚にあざとそうなこの皇子がもぎとった、エディトをこの世につなぎとめる一筋の細い糸。
だが、それとて永遠のものではなかった。魔女の自覚のないまま交わされたエディトの契約は不安定で、エディトがまだこの世に留まっているうちに命を定着させなければ、彼女の生は完全に失われる。
――そんな訳だ。返してもらうよ、小さな皇子。
「皇子、もうお眠り」
「眠る……?」
何故そんなことを言われるのか分からない、と言いたげな顔で、ラースはぼんやりと魔女を見上げた。
「夢の中でなら、お前をエディトに会わせてやれる。目が覚めた後、お前は夢の内容を憶えていないけれど」
「……」
それは優しい嘘、或いは甘やかで不実な暗示だった。
訝しげな表情は一瞬で消え、美しい皇子は呆気なく魔女の手に落ちた。
シーヴァは入り口に待機していた片眼鏡に皇子を預け、彼とダグが手配した宮殿内の使用人たちに場所を譲った。
エディトの棺は速やかに運び出された。
何度も繰り返すこの夜で、宮殿を出る最後の瞬間、シーヴァは何度でも、一度だけ、宮殿を振り返った。
遠い昔、ほんの短い間だけ、ここに住んでいたことがある。
林檎のいい匂いに引き寄せられ、雇われのお針子に交じって何食わぬ顔でしれっとここに入りこんだのが始まりだった。
優しい秋の夜だった。
シーヴァと林檎だけの甘い世界に一人の男が入り込んできた。
美しいけれど、一人ぼっちのその男は、シーヴァがいる木の下までやってきて、驚いたような顔をした。
――お前はものを考えておらぬのか。
――失礼な。……あら、あんた、難儀だね。
しゃくしゃくと林檎を齧りながら、シーヴァは面倒な力を持っている男を見下ろした。
男が不思議そうにシーヴァを見上げた。
――その林檎は私の許可なく食べてはならぬのだが。
――へえー。
シーヴァは気にせずしゃくしゃくと齧る。
男がふっと微笑んで、唐突に言った。
――……私が死ぬまででいい。お前、私のそばにおらぬか。
――ええー?
――さすれば、私の林檎は好きなだけ食べてよい。
――ふうん……いいよ。契約成立だ。
シーヴァはふわりと男の腕の中に降り、そのまま寝室に運ばれた。
今思えば、よくもまあ、と思わないでもない。
――これも何かの縁だから、まあ看取ってやろうかね……。
最初はその程度の気持ちだった。
男の命が後どれほども残っていないことは、男もシーヴァも知っていた。
だが、あまりにも短いその一年が、一生分の恋と苦しさをシーヴァに教えた。
棺に寄り添う小さな皇子は、あの時残されたシーヴァそのものだった。




