3.眼差しは時に雄弁で(前)
性格も物腰も柔和な老シェストレム伯と、それなりに女性の扱いを心得ているダグは、長い旅路の友として、そう悪くない相手だった。
無事に海を渡り終え、三人仲良く馬車に揺られ始めた頃にはエディトもすっかり打ち解けて、屈託なく身の上話を披露していた。
「私は捨て子だったんです」
それもただの捨て子ではない。小舟に乗せられ、荒海に送り出された。はっきりと捨てる意思を持って捨てられた、筋金入りの捨て子である。
島に流れ着いた時は干からびる直前で、彼女を偶然見つけたシーヴァは「てっきり死んでると思ったぁ」らしい。
「養い親のこういう軽ぅい性格のおかげか、私もあんまり自分を可哀相扱いすることもなく、すくすくと素直に育ちました」
「それは……何よりです」
その受け答えが適切かどうかはともかく、ダグには他に掛ける言葉が見つからなかった。
彼女を海に押し出した者が誰であれ、生きてどこかの岸辺に流れ着くより、途中で命を落とす可能性の方が格段に高いと分かっていたはずだ。
隣に座る伯爵から「よく生きていてくれた」と涙目で労われ、エディトは照れくさそうに笑った。
随分重い過去だと思うが、この悲愴感のなさは何だろう……。
対面で一人だけ難しい顔をしているダグに、エディトがきびきびと尋ねた。
「それで、皇子はまだ十一歳でしょう? 花嫁選びなんてちょっと早過ぎない?」
「いいえ。ちっとも」
ダグは真顔で首を振った。
「触れを出してからすべての候補が皇都ウルサに到着するまで、おおよそ半年。そこから慎重にふるいをかけて、『最終候補の候補』を選出するのに半年から一年。或いはもっと。更に『最終候補の候補』から、今度は『最終候補』を選ぶのに――」
「途方もないわね」
「ええ、まあ」
レプスウルサが広大なことも、皇帝家の富と権力が途方もないことも純然たる事実だったから、大抵の者はこう説明されると慄きつつも「そういうものか」と納得する。
そう、皇子の花嫁選びは決して早過ぎることはない――早過ぎることなど、何も。
「めでたく内定ともなれば、最も相応しい者と皇子が互いを知る為の時間も必要ですから、時間は幾らあっても足りません」
「皇子が自分で選べないなら、誰にとっての『相応しい』なの?」
ダグが一瞬答えに窮し、伯爵がぷっと噴き出した。
エディトはそれ以上追求せず、ふいと窓の外に目をやった。尋ねてはみたものの、さして興味もなさそうだった。さっさと落ちて帰るのが自分の役目だと思っている。
無防備に晒されるエディトの横顔に、一瞬シーヴァが重なった。
「――なあに」
「いえ、すみません」
視線に気づき、ダグの方を向いたエディトに、ダグは何でもないと首を振った。
二人に血のつながりはないのだから、これはただの見間違いだった。
エディトがふと思いついたように尋ねた。
「もしかして、おばあちゃんも昔、花嫁候補だったの?」
「いえ、あの頃のレプスウルサはまだ、友好の証として外国から皇后をお迎えしていましたから」
事実ではあるが、別の事実を巧妙に覆い隠した答えだった。
「当時の皇帝、ヴァルテル三世が成し遂げた覇業により、空前の繁栄を迎えた今のレプスウルサは、もうそんなことをする必要はありません。今は皇帝が望んだ者が、誰であれ皇后です。たとえその女性の元の身分がお針子であっても、庭師の娘であってもね」
「ふうーん」
「だから、君が皇子の花嫁となっても、ちっともおかしくない訳です」
「アハハ。おかしなこと言うわね」
エディトは笑って取り合わなかった。
やがて馬車が停まり、御者が今夜の宿に到着したことを告げた。
ダグが先に降り、続いて出てくるエディトに手を貸す。ふわり、とエディトは透明な翅でも生えているかのように舞い降りた。
「体の重みがないみたいですね」
「そう? 島では皆こんなものよ」
「そうですか」
島であれどこであれ、ダグはこんな軽やかさを持つ娘など、一度もお目にかかったことがない。
ダグは差し出した腕を取るよう誘導し、「君なら貴族の娘の所作も、すぐに身につけるでしょう」と、何でもないことのように言った。
「貴族の娘の所作? すぐ落とされて帰るのに、そんなもの必要?」
きょとんと尋ねるエディトに、ダグは真剣な面持ちで頷いた。
「君の身を守る為に」
よく分からないと言いたげに首を傾げるエディトに、ダグは淡々と続けた。
「ひとつの不敬で呆気なく首が飛ぶ。宮廷とはそういうところです」
「え……」
「――すみません、少し大袈裟に言いました。何も難しいことはない。決まった型をいくつか覚えるだけです。お辞儀の仕方、入室の仕方、貴人の待ち方、歩き方もね。でもそれくらい、君ならすぐですよ」
エディトは少し眠そうに頷いた。疲れているのだろう。彼女は若いが、馬車の移動に慣れている訳ではない。彼女や祖父の負担を考えると、今後はもう少し緩やかな旅程にすべきだった。たとえ皇帝を少々待たせることになろうとも。
ここまでやらせておいて、ただの酔狂ではあるまいな、という懸念は今もまだ拭えなかった。
エディトの到着を今か今かと待ち構えているのは当の皇子ではなく皇帝で、皇子の方は「スコークスラゥンの魔女」が呼び寄せられたことさえ伝えられているかどうか。
軽い食事を済ませた後、伯爵とダグは部屋の前でエディトと別れた。
「私たちは隣ですから、何かあればすぐ呼んでください」
「はぁい」
緩い返事がシーヴァを彷彿とさせた。
「やれやれ……」と倒れ込むように部屋に入った伯爵は、こちらも疲れのせいか、琥珀色の蒸留酒をほんの数口やっただけで機嫌よくほろ酔いになった。
「シーヴァと仲直り出来て良かったよ……。会いにいったときは正直、『帰れ』と蹴り出されるかもしれないと思っていたから」
いつになく舌も回る。酒のせい、或いはもう時効だと思ったのかもしれなかった。
「まさか。喧嘩でもしていたというんですか? とてもそうは見えませんでしたが」
グラスを手に、小さな卓の対面に座ったダグが驚いて尋ねた。
伯爵はふっふっと肩を揺らした。
「私が騙し討ちのようなことをしたから、最後はカンカンだった」
「何をやったんです」
あの魔女の感情を乱すような何を祖父がしたのか、純粋に興味があった。
「死にたがっていたシーヴァを、生きるしかない状況に追いやった」
「そんなことが? ――ああ、そういうことか……」
「ダグ?」
――コンラードは命の恩人なんだ。