2.最も相応しい者(後)
シーヴァは鋭い一瞥をダグにくれ、娘の頭にキスをした。
「用はそれだけ」
「はぁい」
エディトが軽やかに出ていくと、ダグは非難するような眼差しをシーヴァに向けた。
「レ……シーヴァ。皇子と年の釣り合う娘がいるなら――」
「いるけど、最も相応しい娘をご所望だろう?」
シーヴァは「何を言っているのだこの坊やは」と言わんばかりの呆れ顔をしていた。
「エディトが最も相応しい。この私の見立てに不服があるなら、好きに選んで連れておいき。だが、皇帝が欲しいのはお前が選んだ娘? それとも私が選んだ娘?」
そう言われては、ダグには返す言葉がなかった。
シーヴァはにっこり笑って手を叩いた。
「さあさ、長旅で疲れたろう。漁師のバルタサールの家が今頃、この島唯一の宿屋に早変わりしている頃さ。今夜は新鮮な海の幸を堪能して、たっぷり眠るといい。しばらく滞在するんだから、皆に乞われりゃ皇都の話の一つや二つ、ケチケチしないでしてやっておくれ。皆、娯楽に飢えているから」
「我々は遊びに来たのではありません。悪いが明日にでも――」
「ざんねーん。今夜からまたしばらく海が荒れる。皇帝陛下のご威光をもって、海をお鎮めになりゃ行けるだろうが」
「……」
ぎり、と奥歯を噛みしめるダグの隣で、伯爵が穏やかに微笑んだ。
「海が荒れるんなら、仕方ないよねえ」
「祖父上!」
「ダグ、私は年寄りだ。少し休ませてもらえたらありがたいね」
冗談めかして言われ、ダグははっと顔を赤らめた。当然だ。祖父の負担を考えれば。
ダグが神妙な顔で「分かりました」と頷いた瞬間、それが合図であったかのようにバルタサールの息子が現れ、二人を連れて出ていった。
一人になったシーヴァはダグが置いていったトランクを撫でた。
「紙幣なんて洒落たもの、ここでは何の役にも立たないが。まあ、もらっておこうかねぇ……」
果たしてその夜から海は荒れた。
その日から度々、シーヴァと二人で海辺や丘を歩きながら、しみじみと語り合う伯爵の姿が目撃された。
ダグは二人の様子を少し離れたところから冷ややかに見ていることもあれば、二人のことなど忘れたように島の男たちと酒を飲み、馬鹿話で盛り上がっていることもあった。
彼がシーヴァの見立てに納得しているかどうかは定かではなかったが、花嫁候補を独自に見繕うような素振りは毛ほども見せなかった。
その日、ダグがエディトともう一人の娘を見かけたのはほんの偶然だった。
決して後をつけていた訳ではない。何となく一人になりたくて、木立の中を散策していただけだったのだ。
黙々と歩いているうちに、花が揺れる野原が突如目の前に現れ、そこに二人の少女がいた。
大きな木の幹にもたれ、本を片手に座っている黒髪の娘と、彼女の膝に頭を乗せ、くつろいでいるエディト。
余所者の目に晒されているとも知らぬ、無防備な少女たちの姿は、初夏の木漏れ日のようにきらきらと眩しかった。
「いやらしい目で」
「誤解です」
まるで最初からそこにいたような顔をして、シーヴァがいつの間にかダグの隣に立っていた。
「あなたこそ、今日はうちの祖父上と一緒ではないんですか。毎日毎日、片時も離れていられないのだとばかり思っていましたが」
「変な勘繰りしてんだね。男ってどうしてすぐそっちに発想が行っちゃうんだろう」
つまらなさそうに言われ、ダグは激しい自己嫌悪に陥った。
「すみません、今のは本当に……」
「コンラードは命の恩人なんだ」
「え」
「あの人がいなくなってから、死人同然になっていた私をコンラードが生かしてくれた」
ダグはシーヴァの横顔をまじまじと見つめた。
そんな話は初耳だった。
――祖父上、どういうことでしょう。ヴァルテル三世が崩御した後、魔女は夜空を飛んでさっさと逃げたのではなかったのですか。
「――ねえ、それより見てよ!」
と、シーヴァは蕩けるような眼差しを少女たちに向けた。
「ゆくゆくは私の跡取りにと育てた、私の大切な娘たち。賢く冷静なミリヤムと、勘のいいエディト。私がここからいなくなった後も、二人で島を守っていってくれたらと……」
「そんなに大切な養い子の一人を、我々が連れていってしまっていいのですか」
「嫌だと言ったら置いていってくれるの?」
――それはない。
度重なる己の失言に、ダグは舌打ちしそうになった。
「そんなこと言っちゃうなんて、やっぱりコンラードの孫だねえ……」
シーヴァは苦笑し、ふと首を傾げた。
「エディトが実の孫じゃないって何で分かったの」
「見た目。ですが、それ以前にそもそもあなたは子を産んでいないでしょう」
「へえぇー?」
「魔女は子を産むと普通の女になるというが、見たところあなたはまだ魔女だ」
「そうかい。物知りさん」
「何で『おばあちゃん』なんて呼ばせてるんです。実年齢はともかく、見た目はエディトの母親か、姉と言っても通用しそうなあなたがそう呼ばれるのはすごい違和感なんですが」
「母さん、なんて柄じゃないだろ」
シーヴァはふいと顔を背けた。おや、照れている。スコークスラゥンの魔女にこんな表情が出来るとは――これは意外な発見だった。
「ですかね」と応えるダグの声は、多分に笑みを含んでいた。
「……皇子が必要としているんだろ」
連れていってもいいのか、という気遣ったつもりで残酷な問いに対する答えだった。
「――はい」
残念ながら。
スコークスラゥンの魔女にはきっと、何もかもお見通しなのだろう。
先々代皇帝、ヴァルテル三世の最後の恋人にして、彼を狂気の淵から救い出した人。
「暗闇で苦しみもがく男に手を差し伸べるのは、いつだって気のいい魔女なのさ」
美しい魔女はそう言って、世界を包み込むような目で笑った。
「――善き魔女よ」
ダグは真面目くさった表情を作って厳かに告げた。
「あなたが愛する養い子を騙くらかして、まんまと皇子の許へ送り出したこと、私も永遠に記憶に留めておくこととしよう」
「ちょっとぉ?」
「俺も、共犯だ」
ダグは口の端をニッと持ち上げた。
シーヴァがハァとため息をつく。
二人が共犯となって数日後、海は鏡のように平らになった。
そうなるだろうとあらかじめ告げられていた皇帝の使者と、スコークスラゥン選抜の花嫁候補は前日の内に荷造りを終えていた。
シーヴァはエディトの頭にキスを落として言った。
「可愛いエディト。間違うこともまた正しい。あっちへ行くかこっちへ行くか、前に進むか留まるか、すべてはお前の心が知っている」
シーヴァが旅立っていく若者たちによく使う餞の言葉だった。
シーヴァの声が普段よりも少し切なげだった、とこの時のエディトは気づくこともなく。
帰ることを信じて疑わぬエディトは皆に笑顔で手を振った。