13.花嫁候補たち
やんごとなき咲き初めの薔薇がおみ足を負傷したからといって、彼の花嫁選びが中断されることはない。
今や十数名にまで絞られた彼の花嫁候補たちは、今日もニヴィスノクティス宮殿の一角に集められ、粛々と選抜試験を受けていた。
今回の科目は刺繍である。モチーフは自由。
――やったわ……!
エディトは心の中で快哉を叫んだ。エディトの刺繍の腕は可もなく不可もなくといったところで、皇子の花嫁にどれほどの技巧が求められるのかは知らないが、今度こそ間違いなくふるい落とされる。
――でも、私は万全を期す。
宮廷の選考基準は謎めいている為、エディトは万が一にも発想や目の付けどころを評価されることのないよう、無難なイニシャルを刺すことにした。シーヴァのSである。愛する養い親の瞳を思わせる群青の糸を針に通し、エディトは機嫌よく刺繍を始めた。
「まぁ……ご覧になって……? まぐれで残っただけの方が、随分張り切っていらっしゃるわぁ……」
――出たな、洟たれ。
シャルヴァール公爵家のお姫様は、当然のごとく最終候補に残っていた。
エリーザベツは神経質なか細い声で、苦々しげに吐き捨てた。
「見るに堪えないとはこのこと」
どっちが? 見てたわよ、無様にティーカップを落としてびしょ濡れになってたとこ。
随分と偉そうな口を叩くから、せめて二、三歩は持ちこたえるのかと思いきや、エリーザベツは二秒と持たなかった。あの試験でのエリーザベツの評価など下から数えた方が早かったはずで、まぐれどころか家の力で残っただけの娘になど、エディトの方でもとやかく言われる筋合いはなかった。
「殿下に取り入った手口は、お見事と言う外ありませんが……」
エリーザベツは大仰にため息をつく。決して褒めている訳ではないことがよく分かる口調だった。
エディトが負傷した皇子を助けた一件は、既に知れ渡っていた。
エディトは彼女を一切相手にせず、ほとんど曲線のないSを黙々と刺繍する。他の候補者たちも今日はそれぞれの手元に集中しており、取り巻きたちの頷きや追従笑いがなければ、一人では吠えられないエリーザベツもじきに大人しくなった。
エリーザベツが口を閉じてから小一時間ほど経った頃、年配の女官が再び現れ、「では終了。刺繍したものはそのまま持ち帰ってよろしい」と宣言して、この日は解散となった。
――え、これで終わり?
――作成したものはどなたもご覧にならないの……?
少女たちは困惑して顔を見合わせた。
しばしの沈黙の後、誰かが「……あれは実は、刺繍をしている時の姿勢の正しさを見られていたのでは」と言えば、「他の候補者たちとのやり取りから垣間見える、為人をチェックされていたのでは」と誰かが応える。
年配の女官は開始と終了を宣言する時だけ現れたが、身分の低そうな若い女官が二人、ずっと同室に詰めていた。
これに顔色を失ったのはエリーザベツである。
「あれしきのことで」と言い捨てて「気分が悪いのはこちらだわ」と出ていった。
――相変わらず訳の分からないところだわ。さっさと落ちて島に帰りたい。
軸のないIを刺繍した絹のハンカチをたたみ、帰ろうとしていたエディトはアンニェリカに「お茶でも」と声を掛けられた。
彼女は勝手知ったる様子でいくつもの扉の前を通り、奥まったところにある優美な一室へエディトを連れていく。
「母の個室よ。宮殿に来た時に使う。私も使っていいと言われているの」
ほどなくして温かい紅茶と、前回とは違うフレーバーの焼き菓子が出てきた。
アンニェリカは優雅に菓子を口に運び、「美味しい」というエディトの呑気な言葉を無視して辛辣に言い捨てた。
「シェストレムの名を出せばいいのに。そうすればあの馬鹿は黙る」
「でも身分は彼女の方が上でしょう?」
エディトが当惑して尋ねた。残念ながら、エリーザベツのシャルヴァール家は公爵家で、シェストレム家は伯爵家ではなかったか。
無邪気なことを、とアンニェリカは笑った。
「貴族間の力関係は、実際の爵位ですべてが決まるというほど単純なものではない。その辺りは入り組んでいて複雑で、いちいち説明はしないけど、いやしくも公爵家の人間ならば、シェストレムを敵に回そうとは思わないはず。ものを知らないその辺の侯爵家風情の傍系はどうか分からないけど」
「あなたって本当にずけずけ言うわね」
これで世間では「慎み深く淑やかなご令嬢」として通っているというのだから、アンニェリカ・オッセウスという娘は本当に空恐ろしかった。
「シェストレムは陛下の大事なご用を果たすけれど、陛下はお遊びのように、本当に下らないことに彼らを使う時もある。そうやって目くらましをするの。……エディトさん、あなたを迎えにいったのはシェストレムだとか」
アンニェリカは美しい顔をエディトにずいと近づけた。
「あなたは、どっちだろう――」
――陛下の大切なご用? それとも、下らないお遊びの方?
至近距離にある彼女の面差しは、咲き初めの薔薇と謳われる彼女の従弟を彷彿とさせた。
――彼はどうしているだろう。
エディトごときが気軽に会えるような相手ではなかったが、広い寝台にぽつんと座る彼の姿はエディトの脳裏に焼き付いていた。順調に回復しているのだろうか。
「……下らない方よ。どう考えても」
ダグはともかく、老シェストレム伯爵は本当に気の毒だった。幸いなことに、最近はエディトをお供に邸内を散歩したり、一緒にのんびりとお茶をしたりするくらいには回復している。久しぶりに見たエディトのなかなかの貴婦人ぶりに、伯爵はまるで実の祖父のように目頭を熱くしていた。
「さあ、それは」とアンニェリカは皮肉げに笑った。
「まあ、いいけれど――私は、あなたが選ばれたらいいと思う」
「何故?」
エディトは驚いて尋ねた。早々に落ちて帰る気でいることを知っているくせに。
「あなたがいい」
アンニェリカはそう言って、ティーカップに口をつけた。それですべてを説明し終えたと言わんばかりの態度である。エディトは「これだからご身分の高いご令嬢は」と内心ため息をついた。
アンニェリカは独り言のようにぽつりと漏らした。
「ラースもきっと、そう言うと思う」
――皇子様が? 何で?
そう思ったが、アンニェリカの口調には、どことなく他人が入り込めない、二人の絆を感じさせるものがあり、そのせいでエディトは何となく尋ねそびれてしまった。
代わりに、エディトは香り高い紅茶に口をつけた。
彼女は以前、「ラースからは嫌われている」と言っていたが、実際はそうでもないのだろうか。
宮廷では、言葉はしばしば真逆の意味となる。
「嫌われている」というのは宮廷風の言い回しで、本当は「そんな軽口も言い合える、遠慮のない仲」という意味なのかもしれなかった。




