1.最も相応しい者(前)
こんなタイトルですが、めちゃめちゃ切ない話になる予定です。
我らが地上の父にして、広大なるレプスウルサを治め給う皇帝陛下が触れを出した。
――余の息子に最も相応しい者を連れてくるように、と。
こうして皇子ラースの花嫁選びが始まった。
皇子は現在十一歳。咲き初めの薔薇にも喩えられる、それは美しい少年だという。
触れから二月半遅れてレプスウルサ最果ての孤島、スコークスラゥンにも皇帝の使者が到着した。
身なりの良い老人と若者の二人連れである。
本土と島を分かつ海に翻弄され、老人は顔を土気色にしていた。
若い方が老人の肩を抱きかかえるようにして支え、「祖父上、しっかり」と声をかけていた。
通りかかった島民たちは物珍しさに足を止め、場違いな二人を遠巻きに眺めた。
洋梨のような体を曲げて、ハンカチで口元を覆っていた老人は、彼に注がれる視線に気づいてすっと背筋を伸ばした。
「レディ・シーヴァ・テルフェルトにお目にかかりたい」
島民がおおっとどよめく。
頭のてっぺんから出ているような声で、うちの島長をレディなんて小洒落た名でお呼びになるなんて、こいつぁもしかしなくてもお貴族様ってやつじゃないのかい。
皆の疑問に答えるように、老人の栄えある名と爵位、及び来島目的を若い方が告げた。
「コンラード・シェストレム伯爵が皇帝の親書をお持ちした、とレディ・シーヴァに伝えてくれ」
「皇帝の? ってことはもしかして、皇子様の花嫁選びの件かい?」
赤ら顔の漁師に尋ねられ、若者はニッと口の端を上げた。
「よく分かったな」
「何とまあ、こんなところまで」
皇帝と来れば、今はどこもかしこもその話題で持ち切りだった。島民たちは「あんた方も大変だねえ。スコークスラゥンくんだりまで」と呆れとも同情ともつかぬ眼差しを二人に向けたが、島に来たのが単に触れの内容を伝えるだけの下級官吏ではなく、皇帝の親書を携えた使者だということが一体何を意味しているのか、ほとんどの者は気づいていなかった。
気づいた者は賢明にも口を噤んだ。
連れの若者は伯爵と同じ姓を持ち、名をダグといった。暗褐色の短髪、精悍な顔立ち。軍に籍があり、昨年の夏は属州で起きた反乱の平定に行っていたという。島民の質問には何でも気軽に答えた。老いの身には厳しい長旅を仰せつかった祖父伯爵を見かね、子爵位持ちの孫が同行してきたらしい、という話はその日のうちに島中に知れ渡った。
二人は蜻蛉のように軽やかな少年たちに先導され、海を見下ろす一軒家に案内された。
「シーヴァ、お客さんだよ。本土のお貴族様で、皇帝のお遣いだって」
ストーブの上の鍋をかき混ぜていた、暗い金髪の女が振り返ってにこやかに微笑んだ。
「運が良かったねえ、今日は海が穏やかだったろう」
孤島を囲む海と同じ色の目をした、美しい女だった。
――この女が。
ダグは呼吸も忘れて彼女を見つめた。
祖父と同年代だと聞いていたが、目の前の女はどう見繕っても四十を過ぎているようには見えなかった。
少年たちは来た時と同じようにわっと出ていった。
「レディ・シーヴァ――」
「ただのシーヴァ。さんも要らない」
老シェストレム伯爵は眼差しに賛美を湛えてシーヴァに腰を折った。
「あなたはちっともお変わりにならない」
「皇帝が何の用」
彼女の方では昔話に花を咲かせる気はないらしかった。
伯爵は苦笑し、皇帝の親書を恭しく差し出した。
――余の息子に最も相応しい者を、余の忠実なる僕に託すよう。
「ふん……頼みごとをする時も偉そうなのは血筋かね。小童が」
一瞥したシーヴァが呟き、顔を上げてにっこりと笑った。
「残念だが、ここには皇子様と釣り合う娘なんかいないのさ」
「いるはずです。レデ――」
ぎろりと睨まれ、ダグが慌てて敬称を引っ込める。
「いるはずです。最も相応しい者が」
「……」
無言を貫くシーヴァをちらりと見やり、ダグは持参したトランクをおもむろに開けた。
覗き込んだシーヴァが胡乱げに尋ねる。
「何これ」
「陛下のお気持ちです」
見せるだけ見せてダグは蓋を閉じる。
「三万ソリス。不足はありますまい」
「あらまあ。対岸にちょっとしたお城が買える」
鼻で笑われ、ダグの背に冷や汗が流れた。
――まずい。札束は逆効果だったか。
シーヴァは美しい目を伏せ、小声でエディト、と呟いた。
伯爵とダグの脳内に、カランカランと割り木がこぼれ落ちるような小気味よい音が響いたのは、その直後のことだった。
二人の背後で扉が開き、「呼んだ?」という澄んだ声が続く。
驚いて振り返った二人の前に、榛色の目をした年の頃十五、六の少女が立っていた。瞳と同色の髪を三つ編みにし、後頭部に巻き付けている。
――人か……?
登場の仕方もさることながら、少女の透き通るような美貌が、お伽話に出てくる月夜の森の妖精をダグに思い起こさせた。
「ああ、この子はエディト」とシーヴァは伯爵とダグに娘を紹介し、次いで二人を娘に紹介しようとした。
「本土から来たお客さん。コンラードと、ええと……」
「……ダグ」
「ダグだって」
「こんにちは」
少女がぺこりと頭を下げる。伯爵が「こんにちは、お嬢さん」と柔和に微笑み、ダグは無言で小さく会釈する。
少女は二人の横をすり抜け、まっすぐシーヴァの許へ向かった。
形の良い頭、軽やかな身のこなし。
当然のような顔をしてシーヴァにふわりと抱きつく娘を、シーヴァの方でも優しく腕の中に迎え入れた。
ダグは仲の良い二人の様子を間抜けのように見守った。
魔女め、どういうつもりだ……。
「皇子に最も相応しい者」の話をしている真っ最中に、何故この子を呼んだのだろう。もう悪い予感しかしないが、さすがにそれはないと思いたい。確かに可愛い子ではあるが、皇子には少々……。
ダグの懸念は的中した。
「皇子が花嫁をご所望だとさ。ここはひとつ、お前に行ってもらおうかね」
「待って、おばあちゃん。皇子ってまだ十一歳の子供でしょう? とても綺麗な子だと聞くけど、私、五つも年下はちょっと」
――それはこっちの台詞なんだが? 五つも年上のお嬢さん。大体君、仮にも皇帝の一人息子を相手に、物怖じしなさ過ぎだろう。
シーヴァはころころと笑った。
「安心おし、可愛いエディト。向こうにも選ぶ権利はあるさ。というより、向こうにしかないのさ。皇帝から親書が届いた以上、スコークスラゥンからも娘を出さない訳にはいかない。だが、十やそこいらの娘たちに、つらい長旅をさせるのは気の毒だろう」
「ああ、そういうこと」
娘が納得したように頷いた。行ったことはないけれど、皇都が途方もなく遠いところにあるのは何となく知っている――そんな感じの頷きだった。
「そういうこと。選ばれずとも、花嫁候補は褒美をもらって故郷に帰れる。悪い話じゃないだろう」
「あら」
「――お待ちください」
ダグが堪らず割って入る。