第三のルーク
キングやクイーンそっちのけでずいぶん長くポーンの話が続いたろう。こいつらは軽んじられているようでそうじゃあない。きちんと連結したポーンの隊列はそりゃあ強いもんだ。どんな駒でもなまなかには切り込めない。こういうとこがチェスの魅力だ。
駒たちは似通ったとこを持ちながら異なってる。最も弱き者が勝利の鍵を握る時があり、最も強き者が勝利を消失させる時もある。だが常に揺らぐことのない真理もある。他者と手を携えた者は無類の強さを発揮するってことさ。
三つ目の特殊ルール「キャスリング」は、キングとルークが連携する動きだ。これは入城、砦入り、なんていわれることもある。アンパッサンと同じくプレイヤーが持っている権利で、してもしなくてもいい。違うのは動く駒がポーンでなくキングとルークというとこだ。
ざっくりというと、キャスリングはプレイヤーが自分のキングとルーク一つを一手のうちに両方うごかす行為だ。一手で二つだぞ。二倍うごかせるんだ。
しかもだ。キングは一マスしか動けない駒なのに、キャスリングに限ってはニマス動ける。つまりキャスリングはキングを二手、ルークを一手、合わせて三手分うごかせる。誰がどう考えても破格にお得だ。もしかして恐ろしい代償があるんじゃと疑う奴がいても不思議じゃない。
ところがだ。キャスリングをやって不利になることはあまりない。こまかく言えば時機があって、しない方が良いときもあるし、チェスがうまい奴ほどそれを見極めるもんだが、基本的にはした方がいい動きだ。
なにしろ一手で三手させる上、多くの場合は戦術的にも有利になれる。だからチェスを覚えたての頃は、すぐにこの権利を行使した方がいいといえるほどだ。
それじゃ実際に見てもらおうか。まずはもうおなじみの初期配置に並べよう。
よし、ここからキングとルークだけを残してと。
黒の方からも見てもらおうか、こうだな。
こうしてみるとキングと左右のルークの距離が一マス異なっているのがはっきりわかるな。そこもよく確認してごらん。
さてそれじゃキャスリングをしてみるぞ。見ていてごらん。まず白の右へのキャスリングだ。
キングが右へニマス動き、ルークは左に二マス動いた。ふたつの駒がすれ違って移動したことになる。チェスの基本ルールからしたら有り得ない動きだ。
今度は左へのキャスリング。
キングは左へニマス動き、ルークは右に三マス動いた。
黒のキャスリングだ。
逆側だとこうだな。
この動きがキャスリングだ。キングとルークがどちらもニマス動く側のを単にキャスリング、あるいはショート・キャスリングといい、その逆側に動くのをロング・キャスリングという。ルークの移動するマスの数が一マス多い方がロング・キャスリングだ。どっちの方向に動いてもキャスリングだ。移動後のキングと盤の端との距離はショートとロングで異なるぞ。
キングが端の方にすうっと動いて、代わりにルークが中心に入っていく。これによってキングの脇腹の片方は盤の端に、もう片方はルークに守られる形になる。キングが盤のすみっこにある城に入って門が閉じられたって寸法だ。今はわかりやすいように駒をどけてあるが、初期配置だとキングとルークの一マス上のランクにはポーンが並んでるから前は城壁になってる。
キャスリングをするときは今俺がやって見せたようにまずキングを手に取る。で、右か左かニマス動かして、それからその方向にあるルークを手に取って動かす。
キングが先ってのが大事でな。ルークを先に手に取るとキャスリングではなくて単にルークを動かすだけの手という扱いになってしまう。要注意だ。チェスには手に触れた駒は必ず動かすというルールがあるから、キャスリングするつもりで先にルークに触れてしまうと万事休す、ルークだけ動かして手を終わらせる羽目になるぞ。これも慣れだな。
キャスリングが手数からみて得というのははっきりしとるが、じゃあこのキングが端に寄ってルークが真ん中に入ってくる動きは何の意味があるのか。このルールも由来がよくわからんが――王や指揮官が戦争に際してする入城の表現としては芸術的だ――俺が思うにチェスの駒の強さとの兼ね合いだ。
白と黒が互いにキングズ・ポーンを突いた序盤の盤面で見てみよう。クイーンとビショップの効きを矢印で示した。〇は進むと相手のキングを狙えるマスだ。
初期配置のキングは周囲を配下に囲われている割に安全じゃあない。ポーンが一つ前進するだけで斜めに動けるビショップ、クイーンが一気に前に出られるようになる。だから初期配置のキングには急所が存在する。
それぞれ〇をつけたキングの斜め前のポーンはキングのみに守られている状態だ。序盤でここを相手に狙われると非常に危険だ。いちばん最初に俺がやってみせた試合の流れは白がこれを突いたものだ。ここでもう一回やってみよう。
1. e4
1...e5
2. Qh5
2...Nc6
3. Bc4
3...Nf6
4. Qxf7#
白は最初から黒キングの急所に向けてしっかりとした狙いをもってクイーンとビショップを進めてた。黒の方は危機への対処を間違ってしまったのであっさりキングが追い詰められてしまったってわけさ。
要はチェスの出だしというのは、クイーンたちの攻撃の苛烈さに対してキングの守りが薄いんだ。キャスリングのルールによってこの攻守の偏りが中和されているというのが俺の見解だ。駆け引きも増してるしな。すればルークは中央に移動でき機動力の高さを活用しやすくなる。キングは安全になる。しかし、その一手をいつ指すかは奥が深い。ポーンのプロモーションのようにキャスリングをめぐる攻防もある。
非常に役立つこの特殊ルールはどちらのプレイヤーとキングも最初から持っている権利だが、行使するにはいくつかの条件を満たしている必要がある。さっきやってみせたキャスリングはそれらを満たしている。これから順に説明しよう。
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キャスリングの条件その一、キングとルークの間がすべて空白のマスである。
これは理解しやすいな。さっき見せたようにキングとルークがすっとすれ違うから、間に他の駒がいたらできない。まずはそれらにどいてもらわにゃいかんわけだ。
初期配置からすぐにキャスリングを目指すんなら、白ならキングの右のビショップとナイト、黒ならキングの左のビショップとナイトを早々に別のマスに移動させる必要がある。ナイトはポーンの隊列を飛び越えてすぐにでも移動できるがビショップはそうはいかんから、まずポーンを移動させる必要がある。白の最短のキャスリングの一例を見せよう。
1. e4
1...e5
2. Nf3
2...Nc6
3. Bc4
3...Bc5
4. O-O
ポーン、ナイト、ビショップを動かせばこのようにすぐキャスリングできる。黒も似たように三手動かせば四手目で最短のキャスリングできるが、これは実際にはなかなか難しい。というのは黒は後手番だから白の指してくる手に対応せにゃならん。その分キャスリングの為の手が指しづらく、変にこだわると形勢が白有利になる。
黒番でするときは白の繰り出す手に対応しながら駒を展開して、その中で自然にキャスリングの準備を整えていくようにな。最初のうちは黒でやってる時はキャスリングできたらもうけものくらいの気持ちでもいいだろう。
黒がなるべく早くキャスリングを目指すとたとえばこういう風だな。いまの白最短キャスリングの続きでやってみせよう。
4...Nf6
5. d3
5...O-O
こういう風なところだ。最初は大変だがそのうち慣れるもんだ。チェスだって畑仕事だってなんだってそこはかわらん。
条件その二、キングとキャスリングする方向のルークの両方が初期配置から一度も動いていない。
キャスリングはキングがたった一度動けばその時点で権利が消える。その後に初期配置のマスに戻っても権利は戻らない。ルークも一度動いたらもうキャスリングに参加できない。両方のルークが動いたらキングが動いてなくてもキャスリングできなくなるんだ。どちらか片方のルークは動いてないなら、そのルークの方にはできる。
俺がなるべく早くキャスリングをした方が良いとすすめるのは、試合展開が進めば進むほどキングとルークを動かす可能性が高まるからだ。慣れてくると自分なりのタイミングの取り方がわかってくるが、それまでは望まん状況でキングを動かして権利を失うことになるよりも前にやるのをすすめる。
条件その三、キングがチェックされていない状態である。
そのまんまだが、ひとつ注意点がある。あくまでチェックされている間だけ不可になるんだ。チェックを防げばまたキャスリングできるようになる。だがチェックから逃げるためにキングを動かしたら条件その二を満たさなくなりできなくなるからな。場合によってはキャスリングの権利を放棄せざるを得ないこともある。たとえばこういう状況だ。
黒キングは相討ち覚悟で突っ込んできた白クイーンにチェックをくらった。こうなると黒はキングを動かして白クイーンをとるしかなく、黒はキャスリングできなくなる。相手のキングを攻撃することで権利を失わせるのは有効な戦術の一つだ。
この条件その三によってチェスではチェックされてるキングをかばってルークが出てくるキャスリング、ましてチェックメイトされてるキングを逃がすキャスリングは反則にあたるから不可能だが、実際の戦争じゃそういうルークもいたんじゃないかと思うことがある。そういう奴は死ぬのをわかってて尚、身を挺するだけの意義を見出していたんだろう。たぶん、後のことは仲間たちに任せてな。生き物の命と意思ってのは規則をぶち破るほど激しいもんだ。
条件その四、キャスリングするキングの移動するふたつのマス――通過するマスと移動先のマス――に相手の駒が効いていない。
これはすこしわかりづらいが、キングは自害できないという基本ルールに由来する。盤面を見ると納得できるはずだ。
白のキングとルークが一度も動いてないとしてもこの状況ではキャスリングはできない。キングが入城しようとしたところをガツンとやられてしまうからだ。帰城を急いで伏兵に討ち取られた王もいるんだろうな。
黒のキングのロング・キャスリングで示すとたとえばこうだ。
これは無事入城できると安心した王さまが城門前でひと息ついていたところを狙撃された、そんな情景が浮かぶ。さいわいチェスだとこの状況だとキャスリングは不可とされるので、王さまは狙撃されずにすむ。
この条件には抜け穴めいた注意点がある。キングが移動するマスに相手の駒の効きがある場合はキャスリング不可だが、ルークが移動するマスに相手の駒が効いていてもキャスリングはできるんだ。ショート・キャスリングの場合はキングとルークの移動マスが同じなので関係ない。ロング・キャスリング特有の話だ。特殊ルールのさらに特殊ルールとでもいうか、盲点のテクニックだ。
こういう場合は白はルークがとられたりせず無傷でキャスリングできる。反則ではないから注意してくれ。
キャスリングは最初はピンとこないかもしれんが、何回か試合をやればそのありがたみが身に染みる攻防一体の動きだ。相手のキャスリングの仕方は参考になるぞ。
これで駒の動きについてはすべて教えた。あとは実戦あるのみといいたい所だが、その前に勝敗の決まり事について説明せにゃならん。チェスはチェックメイトで勝ちということだけ知って試合をすると、勝つことができなくなる試合がポロポロ出てきてしまう。いったん休憩した後に、勝敗の決め方について話そう。