駒の盆踊り
よう、おつかれさん。実戦はどうだった。だいぶん頭が疲れたんじゃないか。話の続きは休憩してからにしよう。
畑で野菜果物の世話をしとるとな、とりとめのないことが頭に浮かんでくるんだ。
植物のつるは必死によりどころをさがして伸びて巻きつく。あの緑色の連中は動物とちがって頼った先の具合がどうか分かる頭は持ち合わせとらんように見える。朽ちた木材でも崖っぷちの岩でもお構いなしに、ひょろひょろとした指でつかもうとする。
だが馬鹿かというと違う。常に全力、うまくいかなくてもくじけずに次を探して、そうして安息を得る。もしかしたらオレたちよりずっと賢いのかもしれん。あいつらはただ精一杯やっとる。正しく光へ向かっていく。神の御心にかなっとる。
さあて、そろそろはじめに見せた見本試合の解説といこう。オレの長話を聞いてそのうえ実際に試合をやった今なら、内容が理解できるようになっとるはずだ。ついでに試合記録である棋譜に、も少しふれとこう。
棋譜は試合の進行を記号で記録したものだ。これにしたがって盤面を作れば過去の戦いが再現できる。この見本試合は棋譜のみだとこうだ。
1. e4 e5
2. Qh5 Nc6
3. Bc4 Nf6
4. Qxf7#
棋譜は動いた駒をイニシャルで記してある。駒のイニシャルとマスの番地の組み合わせが棋譜の表記の基礎だ。ポーンだけは例外でイニシャルが省略される決まりだ。一手目にe4、e5とだけあるのはポーンがそこに進んだのを表わしとると、そういう寸法だ。
Nはナイトだ。本来の単語からすればKnightのKだが、それだとKingのKと一緒になっちまうから、配下の方が一歩引いてN表記にしとるんだ。
白四手目のxは相手の駒をとったことを、シャープ記号(#)はチェックメイトを表わしている。「4. Qxf7#」を話し言葉に翻訳すると「白は四手目でクイーンを動かしてf7にあった黒の駒をとって黒キングをチェックメイトに追い込んだ」という風になるのさ。
ただのチェックはプラス記号 (+)だ。それから、後手である黒の手から手順を示すときは「…」などで白の手の省略を示す。他にも色々記号があるが端折っちまおう。
よし、まずは最初に見せたのと同じように通しで一回やってそれから一手ずつ解説しよう。
1. e4
1...e5
2. Qh5
2...Nc6
3. Bc4
3...Nf6
4. Qxf7#
チェックメイトだ。黒キングがどうにもならんのを確認してごらん。
このあっという間にチェックメイトになる流れはとても有名でな、いろんな名前で呼ばれとる。賢者のメイトなんて呼ばれる他に、学者、羊飼い、うっかり亭主、箱入り令嬢などなど、人や地方で異なった単語が賢者の代わりにあてられる。隠者のメイトと言ってる奴もいるという具合だ。
いったい誰がこんな戦法を編み出したんやら。いまでも初心者相手に猛威を振るってる意地悪で美しい奇襲戦法だ。悪女のやり口だ。
だがこれはルールにはきちんと従ってるから、くらったら涙を飲むしかない。いったい何百人、何千人――ひょっとしたら何万人か――が悔しい思いをしたんだか。人の歴史は涙でできているなんて書いてた詩人がいたような気がするが誰だったか、年のせいか元々物覚えがよくないせいか思い出せん。
学者メイトは覚えておくとくらわないだけでなく応用もきく。意外なほど実戦的でもあるんだ。だからこそ犠牲者があとをたたん、チェスの歴史的遺産のひとつだ。
それじゃ一手ずつ解説しよう。より恐ろしさを知ってもらうためにボードを逆にして黒の方から見てもらおう。
1. e4
ごく普通の、しかしとても良い一手目だ。
1...e5
黒のこれも良い一手目。張り合うわけだ。さてこのあとからが問題だ。
2. Qh5
この白の二手目は恐ろしい一手だ。早々にクイーンを動かすのは基本的に避けた方がいいといわれてる。狙われやすいからな。ところがこれは良い手だ。白はこの奇襲で「もう黒のキングを狙いますよ」と「e5のポーンを狩りますよ」の両方を示した。
黒キングと白クイーンを隔てているのは一つのポーンのみ。さらにe5の黒ポーンは孤立している。黒はすぐに対応しなければ不利になるばかりだ。
2...Nc6
黒はクイーンサイドのナイトを跳ねてe5のポーンを守った。白のクイーンへ直接攻撃を仕掛けるよりも守りを固めるのを選んだ格好だ。これも良い手だ。しかし黒キングをにらむ白クイーンの圧力は変わらない。
3. Bc4
白は余裕しゃくしゃく、ビショップを前に進めた。狙いはクイーンとの連携だ。ふたつの駒の効きがまじわる地点は黒の陣地の弱点、f7だ。この白の猛攻に黒は反撃をしたいところだ。
3...Nf6
黒はキングサイドのナイトを跳ねた。白クイーンを狙って追い払おうという魂胆だ。だがこれは最悪の一手だ。
4. Qxf7#
万事休す、チェックメイトだ。黒キングの周囲には配下がたくさん残っているにもかかわらず、白のクイーンをとがめる動きができるのはひとつもいない。
白クイーンを追い払おうという黒の狙いは良かった。だがそれをキングサイドのナイトでやったのが敗因だ。ナイトは隣接している駒へ攻撃できない。白クイーンはふところに入り込むことで黒ナイトを無力化した。
黒はどんな三手目を指してもやられる運命だったのか?
そんなことはない。三手目で他の手を指せばメイトは防げた。二種類あげよう。
3...g6
これなら黒キングは大丈夫だ。白クイーンはf7のマスに飛び込めない。
黒クイーンを防御のために動かすのもいい。こういうふうにだ。
3...Qe7
f7に白クイーンが強引に飛び込んできても黒クイーンで倒すことができる。もう一マスさきのf6に進んでもいい。
これらの手を指せば黒はメイトの危機から脱し、以降は反撃にでられる。
このメイトのお手本には重要な点がいくつもある。しかしそれらをいま話そうとするとまだまだ長話になってしまうからやめとこう。
ひとつだけ言うなら、実戦では心を平静に保って集中するのが大切ということだ。さっきも同じことを言ったかもしれんな。どうだ、ジジイになると繰り言が増えるのがよくわかるだろ。
自分の置かれてる状況がどう見えててもあせりは禁物だ。救いの手が自分に向かって伸ばされていても、それがわからなければどうにもならない。なに、大丈夫だ。人間てのは案外と頑張ってる奴のことは見ていて応援しとるもんで、不思議なことにチェスの駒たちにもそういうところがあるのさ。




