無防備盤
まちはずれの墓地でチェスの試合が始まろうとしていた頃、オーガスト・ブロックは街の中心にある喫茶店、干物亭のカウンター席に腰かけてマスターの特別コーヒーを飲んでいた。
亭内はいつもとかわらず、さまざまな年齢、民族、階級、性別の人たちがそこかしこでチェスの試合をおこなっている。そのなかにはルールを改変した変則チェスをしている人たちもいる。
チェスのおりなす落ち着いた賑わいを背に、この赤ら顔の老人はひとり渋い顔をしていた。近頃は悩みが増え、親友との試合の後はこうして考え込んでいることが多い。そのうちの一つは親友の身辺に危険が迫っているというであり、さきほど当人に直に伝えた。何事もなければいいが。
他の悩みも大なり小なりこの報せに関係したものだ。こういう犯罪とつながりがある話が、良からぬ筋からもたらされる。彼の方はもうできることならそういうことは聞きもせずにすませたいのだ。無関係でいたいのだ。だがそうはいかず、もがき続けている。
彼の父が一代の短い期間に築き上げたブロック家の「財産」は、お金や土地だけではない。それらにまとわりついて離れないしがらみも立派なものだった。
長年放置された財宝の詰まった宝箱をおおっているのは、べたついた蜘蛛の巣に小動物の糞尿がこびりついて形を変じた汚れ、頑固で危険なものだ。オーガストは父から受け継いだけがれた財産をかかえたまま人生の黄昏をむかえてしまっていた。
彼がこのしがらみから直接に犯罪にかかわったことはない。が、良心がとがめることに手を貸したことはある。かぞえれば両の指では足りない。それは今でも増えている。
ブロックさん、まとまった金を融通してほしいんだが頼めるかね。今回はいつもより少し多めに頼むことになるがなに、いつもどおり色をつけて返すよ。必要としている先生方とは長い付き合いで、約束を守るのは知っているんでね、安心安全だよ。今回はこの街のため、引いてはお国のためだ。あんたのお金で皆の物分かりが良くなるなんて素敵なことだよね。投資としてこれほどいいものはない……
土地は摩訶不思議なものですな。あなたの農地のように作物を育て実らせて金を生むかと思えば、値段の上げ下げで金を生むこともできる。錬金術師たちがあれやこれやと珍しい物質をいじくって到達しようとしていたことは、なんのことはない、我々の足元でいくらでもできたのですよ。神はまったく偉大ですな。それでブロック氏、次の「錬金術」はあなたにも是非……
ブロックのだんな、みみよりな話を持ってきましたよ。ははは、そうあからさまにいやな顔をしなくてもいいでしょう。だんなと仲の良い方の安否に関わることですよ。最近ムショから出てきた裏切り者がいるんですがね、覚えておいででしょう、昔チモンジャクさんに物事を教える前にサツに行った大バカのクソやろうを。
老人は普段の彼にまったく似つかわしくない溜め息をついた。
どうにかオレの生きている間に断ち切りたい。それが無理でもせめて徐々に減らしていかないと。子供たち孫たちに引き継がせたくはない。いっそ全て手放してしまおうか。オレひとりの身ならそれもできるが……家族を巻き込んで本末転倒だ。
「家に帰ってもコーヒーを飲んでるのか? あるいは酒を? もしそうならやめた方がいい」
しずみこむオーガストに、カウンターテーブルをはさんでマスターが声をかけ、からになったカップを引き取った。
「ああ、いや、ここで飲むのが最後だ。家ではコーヒーも酒も飲まんようにしとる」
「それがいい」
マスターはうなずくとそれ以上は何も言わずに洗い場にひきあげていった。そのとおりだと、オーガストは思った。悩みを恐れて家で飲むようになればいよいよ終わりだ。
こう沈むことばかり考えて余計悪いことになってもよくないな。なにか楽しいことを考えてみよう。
とすれば、あの子のことをおいて他にない。親友のダルテ・チモンジャクの家に通うようになった女の子、おてんばなイェンナだ。
イェンナが干物亭にくるのはダルテの口ぶりからして決まったようなもんだ。あいつのことだから勉強道具もきっちり揃えて連れてくるだろう。半分冗談の軽口だったが、真面目な一本気の奴だからな。
それにしてもあいつについ無理強いしたのは、あとで反省したがしかし、正しかったな。オレの直観もなかなかのものだ。昔の様にとはいかないにしても、ようやっと好転の兆しが見えてきた。あいつの指し手までこうも目に見えて変わってくるとは。
イェンナはチェスに興味をもつだろうか。どうだろう。もてばオレが教えてやるが話を聞く限りじゃチェス盤をひっくり返しそうな子だ。
まあしかし、とオーガストは頬をゆるめ、きざまれたシワたちがのどかにうねる。チェスを必要としているのは、老いも若きもまだこの世にたくさんいるに違いない。まだ見ぬ友たちの為に教え方を復習しておくか。