アドサーに入って四年、元悪役令嬢は星の数ほど女を抱いた男と別れた
続きを連載化できる能力はないけど、続きをとのお声には応えたい。
そんな気持ちから頑張って書きました。
※注意
本作はエピローグ短編です。
二人が別れるまでで話が終わっているため、ご不快な思いをさせてしまうかもしれません。
ご注意くださいませ。
ヴィスタリア王国の王都ランブル。爽やかな風がそよぐ、春の日の正午。
町中を流れる小川にかけられたアーチ状の小さな石橋にて。しなやかな肢体を誇る美しい女性が、穏やかな表情で水面をぼんやりと眺めていた。少なくない人影の中、その姿に目をひかれている男性が何人もいる。
女性の名はソフィア。四年前までは娼婦に身を堕としていたものである。
だがそれも過去の話だ。いまのソフィアはただひたすらに美しい。
ろくに手入れもされず傷んでいた金髪は色艶を取り戻した。生に絶望していた仄暗い目は輝きを取り戻した。不健康がゆえに損なわれていた美肌までもいまでは完璧に取り戻している。
ただし唯一、きれいなワンピースのしたにある体の純潔は失ったままだ。
もっともその有無など、いまのソフィアにとってはどうでもいい話でしかないだろう。処女であろうがなかろうが、元娼婦であろうがなかろうが、そんなことで揺らぐ己はもういないのだから。
器量の良し悪しもまた、気にするところではない。アドサー「U&1」の会計係として過ごした四年の月日により、ソフィアの価値観は大きく変わっている。
なによりも大事なことは己をもつこと。誰かに必要とされることに救いを求めていた、かつての弱いソフィアはもはやいない。齢二十七歳ながら全盛期に負けず劣らずの美貌にみっともなくすがりつくことはない。
そうして心に灯された火は、あの出会いの日からずっと静かに燃え続けている。一度は燃え尽きてしまったはずの意志の火は、今日まで消えることなく絶えず燃やされ続けてきた。吹く風に消されることなく、強く煌々と。
「俺はユウちゃん、ロマコン大好き元ホスト。抱いた女は星の数、愛する女は泣かさないナイスガイ。異世界転生して幾星霜、イけない専制していつ征そう」
そこへ鼻歌を陽気に口ずさみながらやってきた、一人の男性。彼曰く、「新宿のホストクラブのオーナーは大体こんな感じ」という髪形が特徴的な二十八歳の冒険者である。上質なスーツ姿に身を包み、腰元には偽物の聖剣を一振り帯剣。軽薄そうな顔立ちのつくりはまるで変わっていない。
「おっ、麗しいレディ発見。へい彼女、今から俺とパコりましょう? パコりまショータイム! フゥ!」
石橋の手すりに片肘をつき、男性がソフィアの目線に割っている。いつかと同じように生み出されたウィンク魔法の流れ星。そのつぶてはソフィアの頬に当たるや、ぱっと弾け、淡い粒子となってはらはら舞い落ちていく。
「「……」」
沈黙が訪れる。ソフィアはほんの少し目を丸くし、男性は大げさにわざとらしく目をぱちくりとさせている。見つめあう両者の間に言葉はない。
「「――ぷっ! あっはっは!」」
ほんの数秒後。二人は揃って吹き出し、おかしくてたまらないと言わんばかりに笑い合う。その笑い声は明るく大きく、通りを歩いていた数人から何事かと目を向けられた。
ひとしきり笑ったあと、しれっと男性がさっきの体勢に戻ろうとしたところで。
「やめなさい、ユウイチ」
すかさずソフィアから待ったの声がかかった。破顔していたのも束の間、いまは真顔である。
「もう一度ウィンク魔法を使ったら張り倒すわよ?」
「は? マジ? いや、そこはほら、あの日の天丼でお互いに自己紹介してからのグータッチまでを繰り返す流れなんじゃねぇの?」
「歳を考えなさいよ、歳を。そんなノリが通じる歳はとっくの昔に過ぎてるわ」
「とっくの昔ってまだ四年しか経ってないじゃん。本当きっびすぃなぁ、ソフィアは。ていうか切り替え早すぎない?」
男性――ユウイチが苦笑いしつつ、手すりに両肘をついて水面に目を移す。
ソフィアはその横顔の変わらなさに若干の悔しさを覚えてしまう。口に出したら負けな気がしてならないので絶対に言うつもりはないが。
二人並んで眺める水面。きらきらと陽の光が反射して揺らめく様を、しばし二人は黙って見つめる。
その沈黙に耐えきれず、先に口火を切ったのはユウイチであった。
「で、ソフィアはこんなとこでなにしてたの?」
「ん〜?」
「おっと、この繰り返しは許してくれよ? わざとじゃないんだから」
「さすがにそれくらいはわかるわよ。あなたは私をなんだと思ってるの?」
「なんだと思ってるって……そりゃ、この俺に経験人数でマウントを取ろうとしてきた無謀な女?」
そう言っていやらしく笑いかけてみせるユウイチ。
ソフィアはそんなユウイチをちらりとだけ見てから、「馬鹿らしい」とだけ呟いてまた水面へと視線を戻す。拗ねたように「ちぇっ」と唇を尖らせたユウイチの反応は無視することにした。
「私はただ、物思いに耽っていただけよ」
「こんな真昼間から?」
「悪い?」
「いや、別に悪くないけどさ。珍しいなぁって思って」
普段どおりなら二人はいまごろ、U&1のクラブハウスでみんなと一緒に食事を取っている。それが今日にかぎってソフィアの姿がなぜか見えないものだから、暇なユウイチが彼女を探してここに辿りついたというわけであった。
ただし探したといっても、ユウイチは真っ先にこの場所にやってきている。ソフィアがふらりと出かける先といったらきっとここに違いないだろうと当たりをつけて。過去に例があったわけではないが、ただ漠然とそんな風に思い至っていたのであった。
「ねぇ、ちょっと昔話をしない?」
「だからどうしたんだよ? 急に」
「嫌?」
ソフィアが可愛らしく小首を傾げてみせる。
「いや、別に嫌じゃないけどさ。とりあえず歳を考えたほうがいいんじゃないの?」
「……ここで私たちが出会ってからもう四年も経つのね――」
一瞬で沸点に達しかけた頭をソフィアはなんとか静め、静かに切り出した。
ユウイチもまた空気を読んで押し黙った。なにせ四年の付き合いである。ソフィアの雰囲気からその心情を察することはそれほど難しいことではない。特に怒りに関しては凄まじくわかりやすくもあった。
二人が出会った四年前の春。ソフィアのとまっていた時は再び動き始めた。
冒険者という職業はけっしてきれいなものではない。ソフィアは真っ先にユウイチからそれを教えられた。
なにせ冒険者は荒事が主な仕事だ。魔物を討伐し、盗賊を殺すなどなど。冒険者ギルドで受ける依頼――日々の暮らしに足りるだけの報酬を得られる仕事のほとんどが、血生臭い暴力を必要とするものなのである。きれいどころの話ではないだろう。
そんな誰かの命を奪うことが日常の一部にすぎない世界に、ソフィアは足を踏み入れた。口頭での説明から簡単な実戦までをとおし、冒険者がなんたるかを彼女はユウイチから直々に教わったのであった。
その中でもソフィアにとって特に印象深い出来事がある。初めての実戦、王都近くの森で狼の魔物を討伐したときのことだ。
『ゴチ』
と一言。狼の魔物の死体を解体する前に、ユウイチが拝むように手を合わせてそう呟いたのだ。
どういう意味かとソフィアが尋ねれば、ユウイチは少し困った風に答えたのであった。曰く、「ご馳走様です」という意味であるのだと。
ユウイチにとって「ゴチ」とは、己が相手の命を奪ったことを背負うだけの言葉にすぎなかった。謝罪や感謝でもなければ、「あなたが悪い」や「仕方がない」といった自己肯定のための言い訳でもなんでもない。ただただ、その殺生に責任をもつことのみを告げる言葉なのだという。
己の行為に責任をもつ。その言葉の意味はソフィアの胸に深く突き刺さった。
そのとき初めて、ソフィアは己がしてきた選択を省みた。
立たされた状況において、はたして己は責任をもとうとしていたのか。責任をもつことを自覚して選択をすることができていたのか。誰かに責任の所在を擦りつけたり、投げやりになって誰かに選択を委ねたり、生きるという選択そのものを放棄していなかったかと。
「サクラ様が悪い。娼婦に堕ちた身ではどうしようもない。だから娼婦という職業にすがりつくしかない。なんて笑えるわよね。自業自得だっていうのに」
「……え、え〜と……マジ!? めっちゃ俺に影響されてるじゃん! ソフィア、あのときのゴチをそんなにガチな感じで受け取ってくれてたの!? もぉ〜、言ってよ〜、それならそうって早く言ってよ〜」
「キレるわよ?」
「ごめん、俺が悪かった。気にせず続けて」
「次はないから。本当、あなたってどうしようもない人ね……」
また思い返せば、ユウイチの手綱を握るのに苦労した。ノリとその場の勢いだけで突っ走ろうとする彼の扱いにソフィアがどれほど手を焼かされたことか。「あなた頭がおかしいんじゃなくて!?」と激怒および叱責した回数は数え切れないほどにある。
とにかく格好をつけたがったり、情に流されるままに動いたり、誰かのために己を省みなかったり。とにかく飲み会を開きたがったり、稼ぎを孤児院に全額寄付してみせたり、仲間を守るためなら命を簡単に投げ出してしまったり。本当に手を焼かされたものだ。
「ユウイチはとにかくお金遣いが荒いのよね。どうせいまも金欠なんでしょ?」
「宵越しの金は持たない主義ってな。ぶっちゃけいまも一文無しの状態だし。ここに来るまでに『お、可愛い子いるじゃん』ってガン見してたら財布スられてたわ。マジウケる」
「なんにもウケないわよ。馬鹿なの? あなた、一人だったら確実に野垂れ死んでるわよ?」
「一人だったらな。でもま、ソフィアがいてくれるんだから別に問題ないだろ?」
「あのねぇ……」
また思い返せば、U&1に所属する冒険者たち――アドメンと信頼関係を築いてきた。
主にユウイチの人柄にひかれ、一人また一人と増えていったアドメン。その総数はいまでは二十名にも及び、U&1のクラブハウスで共同生活を送っている。みんながみんな、ユウイチだけではなくソフィアにとっても気心の知れた仲間たちだ。
初めは価値観の違いからすれ違いや言い争いが絶えなかった。それでも協力して仕事をし、対話を重ね、肩を並べて一緒に努力してきた結果。いまでは最高の仲間と呼べるほどの絆を育むことができた。そう自負できるまでになった。
「王都一の底辺クランが、いまじゃ王国一。それも私以外のメンバーの全員が冒険者として最高位の白金級だなんて。本当、信じられないわよね」
「王国一じゃなくて世界一な? あとクランじゃなくてアドサーな?」
「世界一は盛りすぎ。あとアドサー呼びが市民権を得る日なんて一生来ないから」
「来ないなら? 来るまで待っちゃう? 市民権」
「出た、俳句調……」
また思い返せば、七日に一度は絶対に休みを設けて遊びつくした。ユウイチが「仕事にも遊びにも全身全霊ガチ」をモットーとしていため、みんなして振りまわされたものだ。休みなのに休まる暇がないと、よく笑いあったものである。イベントが多すぎると。
季節とともに移りいくイベントには心を躍らされ、ソフィアはその楽しさを知った。
たとえば夏は、海辺で遊ぶことの楽しさを海水浴で知った。野外でわいわい騒いで作る料理の美味しさをBBQで知った。暗い夜をぱっと照らして散る火花の美しさと儚さを花火で知ったように。
「ところでユウイチは結局どのイベントが一番好きなの?」
「もちろん海水浴でしょ。まず眼福! んでもって可愛い子の水着姿を肴に飲む酒がうめーんだわ! ソフィアも超キレイなんだから今年こそは水着になりなって」
「嫌よ。年齢的に無理だもの。あとどこかの誰かさんの、あの女体をくまなく舐めまわすような心底気持ち悪い目つきも生理的に受けつけられないわね」
「辛らつぅ〜! フゥ!」
「はぁ、キモ……」
花を咲かせた思い出話に区切りをつける。
ソフィアがため息をつくとともに見上げた先、空高くに太陽が輝いている。放つ陽射しは眩しくも明るく、手をかざして見なければ直視することはできない。
太陽みたいな人ね……。ソフィアは重ね合わせる。
気づいたときには好きになっていた。
ソフィアが己の恋心を自覚したのは少し前のことだ。
いつからユウイチを好きになっていたのかを振りかえってみれば、出会いの日がきっかけであったことは言うまでもない。なにせ絶望から救われたのだ。小さな恋心が芽吹いたとしてもなんら不思議ではないだろう。
それでも、たった一回の救いでもって心から愛するまでには至らない。ソフィアがユウイチを好きになったのは、行動をともにする中で少しずつ彼にひかれていったからだ。
ふざけているようでいて、根は真面目で。なにも考えていないようでいて、誰かを思いやる優しさをもっていて。ここぞという大事なときには、誰よりも真剣に熱くなる。馬鹿でテキトーでチャラくても、偽りのない真っ直ぐな心をもっている。
四年間。ソフィアは少しずつ少しずつ、そんなユウイチという人間を知っていき、いつしか好きになっていた。
そしてこの恋は、ミハエルに恋したときのような依存するものではない。
今日までのソフィアの努力もまた、ユウイチに相応しい存在になるようにといった、誰かのためにしてきたものではない。
己のために、ただ己のためだけに責任をもって生きてくる中で、いつもそばにいるユウイチという男性にひかれただけだ。ミハエルに恋したときのように、たった一つの決定的な出来事でもって全力で傾倒したわけではない。要するに、自然と恋に落ちていたという話だ。
ただし、この恋は叶わない。
ソフィアはそれを知っていた。なぜなら、いまからユウイチに別れを告げるのだから。
「ねぇユウイチ。サクラ様のことを覚えてる?」
「桜サマー……ああ、ソフィアから婚約者を奪った人のこと? いまは第二王子の奥さんだっけ?」
「そう。そのサクラ様がね、少し前に私のところにいらしたの――」
サクラがソフィアのもとを訪れた理由。それは許しを請うため。話を聞くに、ソフィアから復讐されるのが怖くてたまらないとのことであった。
いまや名実ともに王国一の冒険者クランとなったU&1。会計係を担うソフィアこそ中級の冒険者にとどまっているままだが、彼女以外の全員は白金級にして一騎当千に値する実力者にほかならない。たった十九人をして王国の騎士団を圧倒できるほどの戦力を保持している。
サクラがソフィアに放った刺客はU&1のアドメンによって何度も葬られている。
ユウイチこそ刺客を「下着泥棒」や「ストーカー」として衛兵の詰め所に突きだしているも、ほかのアドメンがした処理はもっと残酷でえげつないものだ。
特に、サクラがソフィアのもとを訪れることになった決定的な処理については、口にするのもはばかられてならない。それこそサクラにトラウマを植えつけるほどのもの。不眠症となり、昼夜問わず周囲を警戒し続け、青白い顔で身を震わせて怯え続けずにはいられなくなってしまうほどのものであった。
「シナリオどおりだとか何だとか、あのかたはヒロインで私は悪役令嬢だから仕方がないのだとか何だとか。色々とごちゃごちゃおっしゃられてたけど、悪い夢にうなされている子供みたいで本当に可哀相なものだったわ」
「シナリオに悪役令嬢ねぇ……なるほど、意味わかんね。完璧にラリってんな」
「不敬罪で捕まるわよ? まぁとにかく。私が何度、復讐する気なんてないって伝えても、頑なに疑って怯えたままだったのよ。終いには泣いて土下座し始める始末で……」
「ガンギマってんなぁ……」
復讐する気はない。それはソフィアが本心から口にした言葉だ。
なにせソフィアはいま幸せだ。己の人生を全力で楽しんでいる最中でもあるのだから、過去の恨みを晴らそうなどという気が生じるはずもない。
もちろん、サクラを恨まなかったといえば嘘になる。折に触れ、たとえば町中で娼婦時代の客に話しかけれたときなど、嫌な気持ちにさせられてしまうことは多々あったからだ。
しかしながら、いまとなってはそのかぎりではない。過去を受けとめ、ちゃんと己の中で消化しおえたいま、ソフィアの中にあったサクラへの恨みは完全に消え去っている。過去に動じない己をいまのソフィアは確立することができていた。
「仕方がないから、じゃあ私はこの国から出ていきますから、って約束して帰ってもらったの」
「ふ〜ん……は?」
「だってほら、面倒臭いじゃない? なんかずっと粘着されそうだったし、それならいっそのこと、この国から離れたほうが気が楽だなって思ったのよ」
「え? え?」
ユウイチは理解できないという風に戸惑っている。
「だからユウイチ。私はU&1を脱退するわ。あなたともこれでお別れよ」
「いや、お別れって、そんな急な……」
「ほら、うぇ〜いしましょ?」
ソフィアがユウイチの右手を優しく手に取り、両手で包みこむようにして握り拳を作らせる。あの日そうしてくれたように。その右手を胸元まで掲げさせてから、コツンと、己の握り拳とグータッチの挨拶を交わしてみせた。
「あの日、私を救ってくれてありがとう。ユウイチ、あなたと出会えて本当によかったわ。さようなら」
呆然としたままのユウイチに微笑みかけ、ソフィアは彼に背を向けて歩き出す。
はたから見れば、それはなんてことのない一場面であった。ちょっした別れを告げたような、実にあっけない別れの光景であった。
サクラが訪れた日、ソフィアは初めて気づかされた。U&1からの脱退を、ユウイチとの別れを考えたとき、己が彼に抱いている気持ちが恋心であることに初めて気づかされた。
別れを意識したときに感じた胸の痛みは、大切な仲間を失うことからくる痛みではなかった。想い人を失う切ない痛みであった。友情や仲間意識、そんな風にとらえていたユウイチへの気持ちはたしかな恋心であったのだ。
しかしながら、告白し、想いを告げる気にはなれなかった。なぜならユウイチを深く悩ませ、縛りつけてしまうことになるだろうから。
ソフィアは告白の結果を簡単に予測してしまった。あの日の出会いを、己の過去を知っているユウイチは、きっと最終的には受けいれてくれるだろうと。彼の優しさを思えば、きっと己を傷つけるような真似はしないだろうと。
そして、そんな結果を受けいれられない己がいた。ユウイチを縛りつけることになるくらいなら、いっそのこと彼のもとを立ち去ってしまいたいと思う己がいた。
それゆえソフィアはユウイチとの別れを決意したのであった。彼の気持ちはもはや聞くまでもないとして。
「ありがとう、さようなら……」
想い人との今生の別れ。
歩くソフィアの目尻から一筋、涙が零れおちる。
それでも姿勢は変えず、歩みはとめない。涙がぼろぼろとこぼれはじめ、視界をにじませようとも凛とした姿勢で歩きつづける。この別れが情けないものになってしまわないように。
辛くないと言ったら嘘になるし、流れる涙がなによりの証拠だ。
それでもこの選択に悔いはない。悩み考え、思いぬいた末にだした、己で決めた選択だ。きっと後悔はしないだろうとソフィアは思う。
町中の大通りをソフィアは行く。泣きながら歩く彼女の姿は人目をひいている。
ソフィアこのまま町を出て、国を出るつもりであった。その身一つで旅立つことに躊躇はない。その身一つあればなんだってできることを知っているから。
「ソフィア」
ふと聞こえた、己の名を呼ぶ誰かの声。
ソフィアは振りかえる。
「――っ!」
瞬間、口づけ。
唇に唇が触れた。
「ファーストキス、ゴチでぇす」
いまだにじんだままのソフィアの視界に、得意げな顔のユウイチが映った。
また町中での男女の口づけに、通りをいく人々が目をひかれ、何人かが立ちどまって様子をうかがっている。
「あーあー、こんなに泣いちゃって」
「なっ、なん、でっ……!?」
ユウイチが指先でソフィアの涙をぬぐう。
ソフィアはわけがわからず、されるがままにされている。あふれでる疑問を言葉にできないでいる。
「愛してるぜ、ソフィア」
「……えっ?」
突如始まった公開告白。行き交う人々の多くが足をとめ、二人を遠巻きに見守っている。
「最初に断っておくけど、これは同情からじゃない本心のやつな?」
「う、うん……」
「ぶっちゃけ、いつ好きになったのかは覚えてない。でも気づいたときには好きだった。けど好きになった理由はわかる。すべてを失った0の状態から、頑張って頑張って、どんどんキレイになっていくソフィアに俺はひかれずにはいられなかったんだ。マジで最高の女だって。ソフィア以上の女はこの世に絶対いないってマジで思ったんだよ」
公開告白が始まったことを聞きつけ、通りに面する店々の中から人がわらわらと集まってくる。
「好きだ、ソフィア。心から愛してる。だから俺の女になってくれ」
「で、でも私は――」
言いかけてソフィアははっと気づく。
そうじゃないだろう、と。目の前でいつにない真剣な目で見つめてくるユウイチに返すべき言葉は、己を卑下して彼にすがりつくような情けない言葉ではないだろう、と。
元娼婦、それがどうした。元悪役令嬢、それがどうした。王族に命を狙われている、それがどうした。
そう言って恐らく、いや絶対に。ユウイチは想いを曲げない。
ソフィアは思う。たとえなにがあってもユウイチは想いを曲げないことを、己は知っているではないか。なによりもまず、己も彼を愛していることを伝えるべきではないのかと。
だったら、返すべき言葉は一つしかない。
「ええ、いいわ」
「え、マジ……?」
「マジよ」
「……うぉっしゃあ! 胴上げだぁ! みんな、俺を胴上げしてくれ!」
喜びを露わに、ユウイチが公開告白を見守っていた観衆に呼びかける。
そうして、ユウイチの顔見知りやノリのいいものが応じて群がってきたところで――
「でも」
ソフィアが言った。
ユウイチを含めみんなの動きがぴたりととまる。
「あなたに私を満足させられるのかしら? 何百、何千の男に抱かれてきた、この私を」
挑発的な笑みを向けるソフィア。
するとユウイチは一瞬きょとんとした顔になったあと、歯を見せて楽しそうに笑った。
「当たり前だろ。だって俺は――」
雲一つない晴天の空から温かい日差しが降り注ぎ、みなを明るく照らす。
いまこの場に暗い顔をしたものは一人としていない。誰もが微笑み、笑っている。
「星の数ほど女を抱いた男だぜ?」
最後に、この出会いは二人にとって二つの終わりをもたらした。一つはユウイチの、「サークル内は恋愛厳禁とか考えたやつマジ頭おかしいだろ……」と悶々と思い悩む日々の終わり。もう一つはソフィアの、二十七年間に及んだ独身生活の終わりである。
公爵令嬢から悪役令嬢へ、そして最底辺の娼婦に堕ちてからアドサーへ加入したソフィア。バッドエンドに終わりかけていた彼女の人生はハッピーエンドに向かってこれからも続いていく。
終わり
お読みいただきありがとうございました!
続きをとのお声、また悪ノリに応じていただいた皆様へ、本当にありがとうございました(正気の沙汰とは思えない野太い大声)