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 目の前に女生徒が5人いる。

 汚い水の入ったバケツを持って、それを体の後ろに持って行って振り回すように前に出した。今日も図書館で本を一冊借りた帰りだった。あの柔和なメガネの生徒を悲しませるのは嫌だった。きっと彼は本を愛しているから、大好きな本がぐしゃぐしゃになったら悲しむと思う。

 私は思わず、背中の方を向けてまるくしゃがみこんだ。

 まだ汚くない制服が汚れてしまう。まだ授業はあるけれど、濡れた制服で受けられない。

 困ったな、と考えたら、近くの窓ガラスが割れた。石まで投げつけられるとは思わなかった。

 ザブン! という音が聞こえたが、私はちっとも濡れなかった。驚いて振り返るとふさふさした尻尾があった。知っている、この尻尾。

「デニス!」

「よお、またわりいな」とずぶ濡れで彼は笑った。

 ぽたぽたと雫が床に落ちていく。目の前にいた女生徒たちは悲鳴をあげ、廊下にいた生徒たちも走って逃げた。廊下にはずぶ濡れの彼と私だけだ。

「わりいな、急によ。あのさあ、仕事が全然見つかんなくてよ。こんなこと早々なかったんだけど、こっちじゃ厳しいみてえだわ」

「帰るの?」

「馬鹿、何言ってんだよ。帰らねえよ。俺は本が読んでみたいんだ。それまであんたの側にいるぜ。あんたが嫌でもだ」

「うん」

「ガッコーって平原とどっこいどっこいの酷さだな」

「そうなの?」

「おう。ま、この程度の水じゃあ、かわいいもんか。あっちじゃ泥水だったりするんだぜ! ははははは! なあ、あんたさあ」

「なに?」

「ガッコーに行かなくてもいいなら、平原に来いよ。ここ、そんなに楽しいものじゃなさそうだぜ? なあ、あんたが来たいなら、俺、連れて帰るけど」

 私は少しうつむいたまま、首を横に振った。それはできないことだった。

 両親のこともあったし、学校を来て数週間でやめるのは申し訳なかったし、もう少しいたいとも思っていた。ちゃんとなぜここまでひどいのか知りたかった。だから、彼の申し出はとても嬉しく、ありがたいものだったけど、断った。

「そうか。ま、あんたがそれでいいなら構わねえけど?」

 私はハンカチを差し出した。彼は少し屈んだ。拭けということだろうか。

 濡れているほっぺたを拭き、髪の毛の先端も少し拭った。耳がピョコピョコ動いている。触ってみたい。とても触ってみたい。今ならいいんじゃないだろうか。いや、急に耳を触るなんて嫌だろうから、やめておこう。

 耳が激しくぱたぱたっと動いたかと思うと、彼は私の腕を掴んで背中に隠すように仁王立ちで廊下の先を見つめた。

「俺はよ」と彼は呟く。

「俺は、喧嘩っ早くて、短気だ。俺はあんたのことに関して怒ってる。あんたはやり返さない賢いやつだ。だから、俺がやり返す! ボコボコにする。男でも女でもだ!」

 彼は振り返って「俺がぶっ飛ばす! だから、あんたは俺に勉強と本を読む。立派な等価交換だろ! 仕事みつかるまでは、それで頼むぜ」と犬歯を見せて笑った。

 廊下の方からバタバタと誰かが走ってくる。

 先生と警備の人だ。

「おうおうおうおう! 誰だ、てめえら! 喧嘩しようってのか、いいぜいいぜ、やろうぜ、ド派手なやつをよ! 来てみろよ! てめえらなんか怖くなんざねえぜ!」

「デニス!」

「へへ、久しぶりの喧嘩だ。身体がなまってる気がするぜ」

「待って、デニス! ダメ! 逃げよう、逃げて!」

「友達放って逃げられるかよ! 大切な友達をいじめられて黙ってられるかよ! 逃げるんだったら、あんたもだ。あんたも一緒じゃなきゃ、俺は逃げねえ、絶対にだ! でも、あんたは逃げねえんだろ、だったら、俺はここで、喧嘩売られたから買ってやるしかねえだろ」

 彼は拳を握って構えた。顔には笑みさえ浮かんでいる。尻尾は上がりも下がりもしていない。

 私は彼のために逃げるべきかもしれない。でも、ここで学校から逃げるのはいけないと思う。私は怖がりだし、愚鈍で愚図で鈍い。その上、喧嘩なんてしたこともないし、行動なんて起こせるほど勇気を持ってるわけじゃない。でも、だからこそ、逃げるのは嫌だと思う。逃げたいけど、立ち向かいたいと思っている。

 きっと彼に出会わなければ、こんなことにもなっていない。卒業までなにもなく、平原や高原を駆け回る彼らのことを考えて過ごしていただけで終わったと思う。それで、なんの主張もせずに言われた通りの相手と結婚する。

 彼ならきっと嫌がる。デニスなら叫ぶ。

 私は彼みたいにできないけど、踏ん張ることくらいはできるはず。

 彼は拳を振り上げて突っ込んでいく。警備の人たちの振り回す武器を避けながら殴りつけていく。私になにができるんだろう。

 彼は強いのだろう。喧嘩慣れをしているのだろう。でも、この狭い廊下であの人数じゃ、どうしようもない。彼は腕を掴まれ、振りほどき、また捕まえられて振りほどいて殴っていく。荒々しい声をあげながら、抵抗する。

 私はなにができるんだろう。行動を起こさなくちゃいけない。でも、行ったところでどうなるんだろう。邪魔なんじゃないだろうか。

 私はただ、向こうで起きている暴動のような喧嘩を見ていた。

 ボロボロになった彼が警備員に捕まって、頭を押さえつけられ腕を捻りあげられて、苦しそうな唸り声をあげた。

「デニス!」

 私に何ができるんだろう。でも、足が勝手に前に出ていた。

「くるんじゃねえ! グァッ! きたら、あんたでもぶっ飛ばすぞ!」

 そう叫ぶと、誰かにお腹を強く蹴りあげられる。

 いやだ。どうして彼がボロボロに傷つかねばならないの。

 くるなと言われたけれど、私は彼に向かって走っていた。警備員の一人に腕を掴まれた。

「そいつに、触ってじゃねえ!」と吠えるデニスに再度蹴りが入る。

「そこまでする必要ないでしょう! やめてください! お願い、やめてください!」

「あんたがこなけりゃ、こんなのいつでも振りほどけるのによ。まんまと人質になりやがって」

「人質なんかじゃないもん! 多分……」

「自信なくしてんじゃねえよ。たく……、俺は頑丈だから心配しなくてもいいってば」

「友達の、心配しちゃダメなの」

 デニスは少しだけ驚いた顔をした後、大笑いして「いやいや、うん、まあそうだな」とつぶやいた。

「へへ、久しく友達なんていなかったからよ。なんか照れちまわあ」

 彼はニヤッと笑ったと思ったら、ぎゅっと力を込めて警備員の腕を振り払い、私を奪うように抱え込んで後方に飛んだ。

「すごい!」

「だろ? へへ、こんな大人数相手に大立ち回りたあ、面白いね!」

「さっきはごめんね。くるなって言われてたのに」

「いいって、気にすんなよ」

 ニッと笑う彼は「おら、来いよ! さっきの勢いはどうしやがった! ええ?!」と叫んだ。

 しかし、警備員たちは動かない。彼は不思議そうな顔をして「んだよ、面白くねえなあ」と言った。

「そっちがこねえなら、こっちから……」


「待ってください!」という声が警備員の中から聞こえた。

 彼は顔をしかめて「あ?」と不機嫌そうに言った。声の主は警備員の中から現れた。制服を着ていることから生徒だということはわかる。

「誰だ、てめえ」

「僕は生徒会長のグレン・エルマンです。あなた方に危害を私は加えない。だから、少し話を聞いてほしい」

「なんだよ、話って。窓割ったのは悪かったけどよ、あんたのガッコーの生徒ってのがジゼルに水をかけようとしてやがったんだ」

「それは、生徒会長である僕がなんとかしましょう。だから、拳を解いてください。彼らは下がらせます」

「それで、下がらせてどうするってんだ」

「話をしましょう。生徒会室で。それにあなたの服はずぶ濡れだ。着替えないと風邪をひきますよ」

 彼はちらっとこちらを見た。

「あいつ、誰だ。なんだセイトカイチョーってのは。えらいやつなのか? 信用できんのか?」

「生徒会長っていうのは生徒を束ねてる人だよ」

「ボスか」

「まあ、そうかな。信用は多分できると思う。宰相の息子でね、とーってもえらいのに偉ぶらなくて、優しい人なんだって」

「ふうん」

 彼はジロジロと生徒会長を見た後「信用できねえ。できねえけど、てめえについていくのが一番いいんだろ? だったらついて行ってやるよ、そのセイトカイシツってとこまで」と言った。

 会長は嫌そうな顔をせずに「そうですか、よかったです」と柔和に笑って、私たちに近づいてきた。

「こっちです、ついてきてください。先生方! 授業を始めていてください!」と会長は私たちを連れ立って、廊下の奥まで進んだ。

 生徒会室は広くて座り心地の良さそうなソファーが置いてあった。

 会長は、一つふうと息をついて「お茶でもいかがです?」と言った。私は頷き、彼は「水にしろ」と言った。私の部屋でも水を飲んでいたので、きっと水が好きなんだろうと思う。

 会長はお茶を持ってくると、ソファーに座り、私たちにも座るように勧め、自分は立ち上がって予備の制服を出し始めた。

「これに着替えて」

「おう」

「尻尾とか窮屈だったら切っていいから」と会長はハサミを渡し、デニスはさっさとズボンに切り込みを入れた。

 彼が着替えてる間、会長は「友達なの?」と私に聞いた。私はただ頷くだけだった。

 会長は私を観察している。じっと見ている。

 この人の目は怖くない。いや、怖いけれど、あの怖さはない。大丈夫だと私は思った。この人は大丈夫な人だと。

「おい!」とデニスの声が響いた。

 しっかりと制服を着ているけれど、ちっとも似合わない。

 彼はそのまま私の横に座って会長を睨みあげた。

「そう睨まないでほしい」と会長は手を挙げた。降参のポーズだ。

「僕は、彼らのように差別なんかしないし、する気もない。どうでもいいことだ。むしろ僕は君に好感を持っているんですよ」

「はあ? 気色悪いやつだな」

「はははははは! いや、確かに宰相の息子としてはそうかもしれませんね」

 デニスは私に「サイショーってなんだ」と聞いた。

「宰相というのは政治のトップみたいなものですよ」

「ボスってことか」

「まあ、そうなりますかね」

「それで、そのボスの息子がなんだってんだ? なんでこんな部屋に連れ込んだ。なにが目的だ」

「そう唸らないでください。別になんでもないですよ。こうしなきゃ先生や生徒が納得しないでしょう? そのまま帰したら、僕じゃなく父や母にまで被害が及びますからね」

「あんたもジゼルみたいな目にあうってことか」

「まあ、そういうことですね。僕は穏健主義と思われているから、なにもなく返したって変じゃありませんしね。服はこちらで洗っておきます。ジゼルさんに返しておきますから。とにかく、授業を受ける気にはならないでしょう? ここでのんびりしてましょう。長時間ここにいてもらえば、その分、皆も納得するでしょうから」

 ね? と会長は笑ってみせた。デニスはイライラと貧乏揺すりをしている。

「ジゼルさん」

「はい?」

「この間、貸し出した絵本はどうでしたか?」

「え?」

「ああ、これじゃわかりませんよね、少し待っていてください」と会長は立ち上がって机に置いてあるメガネをつけた。

「あ! 図書室の!」

 小さくなった目を細めて「そうです。慕ってくれるのは嬉しいのですが、時々鬱陶しいのでね、雲隠れ用に図書室にいるんです。ふふ、皆、僕に気づかないのですよ」と言った。

「鬱陶しい?」

「はは、学校中を追い回されたりするんですよ」

 そう暗く疲れた顔で言った会長の肩をデニスはバシバシ叩いて「あんたも喧嘩売って追いかけられてんだな! でも、馬鹿だぜ、女に喧嘩売っちゃいけねえって親父から教わらなかったのかよ」と言った。

「あいにく、そのようなことは……。そもそも、喧嘩なんて売ってないですけどねえ」

 確かに会長の顔と肩書きを見ると飛びつく女生徒は多いだろう。ここで射止めておいて……なんてところだろうか、会長も大変だ。

「喧嘩じゃねえなら、なんで追われてんだ? ジゼル、なんでだ?」

「え、えっと、えらい人のお嫁さんになっておきたいからじゃないかなあ。それに、会長は世間一般じゃかっこいいって言われる方だし」

「えらいやつの嫁? なんでだ? 自分で偉くなればいいんじゃねえのか?」

「それができないからじゃないかな。女の子は男の人に従うものって決められてるから」

 デニスは顔をしかめて「人間ってのも大変だな。こっちじゃ女が男に従ってるのなんか見たことねえや。なんでも「母ちゃん、いいかな?」って聞くような男の方がおおいぜ? それに、俺たちじゃできねえことしてくれるし、なんで女が男に従わなくちゃならねえんだ?」と聞いた。

「さあ、わかんない」と私は笑ってみせた。きっと、その方が都合がいいんだろうと思う。だからだと思う。多分、きっと。なにが都合がいいのかわからないけど。

「とにかく人間ってのも大変なんだな」

「ええ、少しね。ジゼルさんはどこで彼と出会ったんですか?」

「入学の前で実家の街で、怪我をしている彼を手当てしてそれから……」

「へえ。そちらでは、ここよりも差別がないんですか?」

「はい。そうだよね、デニス?」

「あたりめえだろ、仕事がスイスイ見つかるくらいなんだしよ。ここじゃ見つかってもろくなもんじゃねえ。いい加減、ボコってやりてえぐらいだぜ。しかも、なんだよ、ここの獣人の野郎どもは! ビクビクしてて戦おうって気概がねえ。喧嘩もしやがらねえ。なんでだ? ここにきたら、誰もが臆病になるようにできてんのか? こいつも怖いって外にでねえ。なんでだ?」

「ここまで差別が酷いのは都だからでしょうね。ここは人間の都です。だから、獣人をおろそかにしてしまう。もしも彼らを優先させたら、民が暴動を起こすでしょう。彼らの選民意識は遠い昔までに遡れますからね。それを馬鹿馬鹿しいとはいいませんよ、悪いことじゃない。ジゼルさんの借りた王都の歴史を読めばなんとなくわかると思いますよ」

「そうなんですか」

「きっとね。わかりやすいきっかけは、我々が彼らと争って勝ち、彼らを捕らえて働かせたことからでしょうね。そこから、このようなことが生まれたのでしょう。ですが、もう昔の話です。僕は、そろそろこの差別をやめたほうがいいと思う。君もそう思うでしょう?」

「はい、とても」

「だから、彼と友達のままでいてください。君も学校にいつでも来ていい。そろそろ、鐘がなりますね。今日はこれで学校はおしまいですか……。あなたたちはこの後は?」

「私は部屋に帰ります」

「俺は外に行く」

「そうですか」

 会長は立ち上がって、扉までエスコートしてくれた。なんとなくモテる理由がわかる。

「会長、今日はありがとうございました」

「いえ。ジゼルさん、僕のことはグレンと呼んでください。図書館でまた会いましょう」

「はい」

 会長のグレンさんは手を振って見送ってくれた。

 なぜか隣のデニスはむすっとした顔をしている。顔を覗き込むと「すぐに部屋に行くからよ。準備しといてくれよ……。じゃあな!!」と早口に言って、窓から飛び降りて駆け出して行ってしまった。

 窓は玄関口じゃないのだけれど、デニスらしい。私はふふと笑って、部屋にまっすぐ帰った。


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