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彼に会った三度目の日は、皇帝陛下御一行が視察に来てらっしゃった日だった。
その日は私は留守番で、母と父は彼らの出迎えや案内のために出かけていて、家庭教師の先生はいたけれど、実質一人で家にいた。
私は窓を開けておくのが好きだった。
さすがに雨の日や雪の日には開けられないけれど、それ以外であれば窓はあけていた。
だから、その日も窓を開けて外の風を感じて、平原に思いを馳せていた。
「お嬢様」
「あ、先生」
「また外を見られていたんですか」
「はい。あそこに遠乗りをしたら気持ちいいだろうなと」
「確かにそうかもしれませんが、行ってはいけませんよ。なにせあそこには獣人達のすみかですからね」
「はい、わかっています。あの、先生」
「なんですか?」と先生は微笑んだ。
「獣人が人を抱きしめるのって、どういう意味があるんでしょうか」
先生は戸惑った顔をした後、ひどく怖く暗い顔をして「どうしてそんなことを聞くんです。そんな質問をしてはいけません」ときつく私に言い聞かせた。
私はただただ萎縮して「はい」としか言えなかった。
先生は時々怖い。
獣人を嫌っている。なぜなのかわからない。でも、とても嫌っているは確かだ。
怖い顔をして、近づくな、話しかけないように、と言うのだ。私はそれにビクビクしながら頷くしかない。
「先生、今日の授業はどこまでですか?」
「次の章の手前までですよ。数学も古典文学、ラテン語も終わりましたから、最後は哲学ですね。明日は、学校に行く前に少し復習しましょうね」
「はい」
先生は椅子に座って、あれこれと話し始めた。
勉強は嫌いではない。それは、先生の教え方がうまいからだと思う。時々考え事をしてしっかりときいていない私を投げ出さずに勉強を見てくださっている。
黙りこくっている私は主張がないだの、考えていないのだと先生の前の家庭教師は言って叱ったけれど、先生はそうじゃなかった。
「あなたはゆっくり考える人なのですね。じっくり考えていると、時にはあまり良い言葉を言われないかもしれませんが、大丈夫ですよ」と言って、私が考えている間、少し待ってくれる。
優しく思いやりのある人だと思う。
時々、ひどく怖い時があるけれど。
授業を受けていると、玄関先からメイドや執事達の使用人の声が聞こえた。驚くような叫ぶような声で、とにかく留守番を任されている自分が向かわなければと立ち上がれば、先生が制して「私が行きますから、お嬢様はそこにいらしてください」と言った。
先生が部屋から出て行くと、窓になにか当たるような音がした。
窓を見てみると、あの獣人の彼がいる。ここは二階でそれなりの高さがあるはずだ。人間では無理だけれど、獣人だと軽々と飛び越えられると聞いたことがある。
私が驚いて見ていると、彼は窓から部屋に入ってきて「あんたお嬢様だったんだな」と言った。
「どうして」と私が聞くと彼は部屋を見回して「喧嘩してて、巻き込んじまってさ。えーっと、コータイシとかいう坊ちゃん。そんで護衛みたいなのが怒ったから、逃げてきた。あんたの匂いはこの前覚えたし、ここまでくるのは簡単だったぜ」と笑った。
「皇太子を?! それで、追いかけられてて、うちまできたの? もしかして、玄関にいるのって……」
皇帝一家の護衛達じゃないだろうか。そう考えていると、玄関先からバタバタと誰かの足音がこっちに向かってくる。私はあの時のように彼の手をとって、クローゼットの中に押し込み「私が開けるまで、絶対に出てきちゃダメですよ。それから、物音も立てないでください。絶対に私が開けるまでは待っていてくださいね」とだけ言って、クローゼットの扉を閉めた。
それとほぼ同時にドアが乱暴に開き、武装した男の人たちが部屋に入ってきた。
「誰ですか、あなた達は! 許可もなく部屋にはいるとは何事です!」
「失礼する! 皇太子に乱暴を働いた者がこちらにやってきたと聞く。そのため、部屋を改めさせてもらう」と彼らは言って、部屋を歩き回りカーテンや窓の後ろベッドの下などを確認した。
クローゼットに手をかけようとしたので「そこはダメ!」と言ってしまった。
彼らは変な顔をして「なぜですか」と言った。
私は「それは……」と弱々しく言うと、先生が駆け込んできて「なにをやっているんです。その人はここの館の主人の娘御ですよ」と彼らを睨みつけた。
「皇太子に乱暴を働いた者を見つけ出すには必要なことだ。それとこれとは関係ない。どいてください。そのクローゼットも改めます」
「い、いやです」
「では、その中に匿っていると考えますが」
「そもそも、家にやってきた証拠はありません。なぜ私がその見知らぬ人を匿う必要があるのでしょうか。他になにか目的があるのではないですか。ここの領主を取り替えるとか、そういったことが」
睨みつけると彼らは少したじろいだ後「そんなことはありません。我々はただ皇太子に乱暴を働いた者を罰しなければという思いで……」と言った。
先生はリーダー格なのだろう人の肩を掴んで「その気持ちはよくわかりますが、どうぞこの部屋から出て言ってください」と固い声で言い、彼らは部屋から出て行った。
「先生……」
「大丈夫ですよ。すぐに帰っていただきますから、お嬢様は自習をしていてください。この間渡した問題でも解いておくか、古典を読み解くかを」
「はい、わかりました。あの、先生」
「なんですか?」
「ありがとうございます。お世話おかけします」
先生は笑って「いいんですよ」と言って、部屋から出て行った。表では、先生の固い声が護衛達の声と一緒に聞こえてくる。
私は彼らの声が遠くになるとクローゼットを開けた。
中を覗くと、彼がひょっこりと服の間から顔を出して「なんか迷惑かけちまって悪いな」と言った。
「構いませんよ。それよりも、まだもう少しここにいた方がいいかもしれません」
「おう、そだな。あのよお……」
「なんですか?」
「なんか食いもんねえか」
「食べかけのサンドなら」
「じゃあ、それくれよ」
「でも、食べかけ」
「いいって!」と彼はクローゼットから出て、机の上にあるサンドをぱくぱくと食べていく。私は椅子に座って、先生に言われたことをやることにした。
「なあ、あんたさ、名前なんて言うんだ? 俺はな、デニス。ただのデニスだ。ウルフドックのデニス」
「私は、ジゼル・アビントン」
「ふうん、ジゼルな。わかった、覚える。これうめえな。あんたが作ったの?」
「いえ、メイドが」
「ふうん。なあ、敬語抜きにしようぜ」
私は初めてそんなことを言われたので、照れてしまって、こくこく頷くしかなかった。
「それ、なんだ? 本? なんの本だ?」
「これは、昔の人が書いたものですよ」
「へえ、読んでくれよ」
「え?」
「聞きたい。面白いんだろ、それ。だから、読んでるんだろ。違うのか?」
「それは、わかりません。私は少し面白いと思ってるけど」
「じゃあ、いいじゃねえか。読んでくれよ。俺、文字とかわかんないからさ」
「そうなんですか」
「おう! 気にするほどのもんじゃねえよ。それより読んでくれよ」
そう言われたので、仕方なく声に出しながら読んだ。彼はよく質問した。どういう意味だとか、なんでそんなことをするんだとか、色々なことを質問した。その度に私は少し困惑しながら答えたり、わからなくて首をひねったりした。
私も彼に質問しようとしたら、コンコンとドアをノックされてやめることになった。彼はノックがきこえた途端、クローゼットの中に滑り込んだ。
「はい」と返事をすると先生が入ってきて「彼ら、帰りましたよ」と疲れた顔でそう言った。
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。それよりも、声が聞こえましたが……」
「あ、声に出しながら読んでみたんです。なにか違いがあるかなと思って」
「なるほど。ありましたか?」
「えっと、語感が良くて、すらすらと出てくるような。リズムが、あって、それがとても楽しいなと思いました」
「そうですか」と先生は笑った。
「そうやって色々なことを試してみるといいでしょう」
「先生、あの人たちは」
「特になにも問題はありませんでしたよ。ご両親には私から伝えておきます、彼らが言ってた皇太子に乱暴した者というのは、たまたまぶつかってしまっただけだそうで。他意はなかったのでしょうから罪に問われることはないでしょう。先ほどの彼は野心で先走りすぎたのかと。ですから、なにも問題はありませんよ」
「そうですか、よかったです。先生は、私が学校に行ったら、どうするんですか?」
「そうですね、他の方に教えることもありますからこの街にいますよ」
「よかった。帰ってきた時に先生がいなかったら、さみしいから」
「おや」と先生は言った後、笑いながら私の頭を撫でた。それから、教科書を持ち上げて「予定を変更して、今日のところは半分にしましょう」と言った。私は頷いて、授業をおとなしく受けた。
本当はクローゼットの中のデニスが気になったけれど、それを露骨に見せすぎるとこの先生は察してしまう。もしも彼を匿っていることがバレたら、先生はあの怖い顔をして私を叱るのだろう。それを考えると身がすくむ。
結局、授業が終わるまでにクローゼットからは物音一つしなかった。寝ているのかもしれない。ありえそうだ。
「先生、今日もありがとうございました」
「ふふ、明日でおわかれとはさみしいものです。王都の学校に行っても、頑張ってくださいね」
「はい!」
私は先生を玄関までお見送りして、部屋に戻ると出てきていたらしいデニスがベッドの上に寝転んで「あんた、明日で王都に行っちまうのか?」と聞いてきた。
「明後日、行くの」
「なんでだ? ガッコーってとこはここじゃダメなのか」
「両親が決めたから……」
「本当は行きたくないのか?」
私は首を振った。
「少し興味はあるけど、それだけ」
「ふうん。なあ、会いに行ってもいいか? そのガッコーってのに」
「え?」
「あんたの匂いはもう覚えたんだ。どこまでも辿ろうと思えば、辿っていけるぜ。それに、まだなんも借り返してねえしな」
「そんな、借りだなんて」
「俺が嫌なんだよ! こう、もやもやするっていうかさあ。わかるだろ、なあ! ……んだよ、わかんねえのかよ。でも、俺は俺のやり方であんたに借りを返す」
彼はひょいっとベッドから起き上がって「それじゃあ、俺、帰る」と言って、窓にトンと足をつけて「またな」とひらりと窓から飛び去ってしまった。
窓から身を乗り出すと、彼は音も立てずに地面に降りてそのまま平原に向かって走っていってしまった。やはり、あの人は平原に住んでるんだ。走り回っていろんなところに自由にいけるんだ。
いいなあ。私もそんなことしてみたいなあ。
私は彼の姿が小さな点になるまで窓辺に頬杖をついて見送った。