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彼に会った二度目は、ちょうど彼が喧嘩を売ったのだろう集団から逃げているところだった。
その日もいい天気で私は街に出かけていた。
いつものようにパンを買って、そこらへんで食べるつもりだったのだ。これが私のお昼ご飯になる。
パンを胸に抱きながら歩いていると、目の前に男の子達がバッと路地から出てきて「早くしろよ!」と後ろの男の子に叫んでいた。
「待ってよお!」
「逃げてる獣人を捕まえたら、お金くれるって言ってただろ、早くしないと他のやつにとられちゃうよ!」
「わかってるよお! 僕あっちみるから、そっち行きなよ!」
「わかった! ウルフドックの男だぞ! じゃあな!」
と、男の子達はバラバラに走って行った。
この街では特に喧嘩や捕物帳のような出来事は珍しくない。父はそれを嘆いているが、街に出てみると、なんてことない日常の風景で困ったことではあるものの喧嘩は見世物としての娯楽のようではあるし、逃げた相手を追っかけるのも楽しげではある。
それにしても、お金まで出すほどというのは珍しい。そのウルフドックの男はなにをしたのだろうか。喧嘩を売っちゃいけない相手に売ったとかだろうか。
人だろうとそうじゃなかろうと喧嘩が強くてイキることはよくあることだ。
高原や平原ではもっとそれが如実だと聞くけれど、本当なのだろうか。私はこの街の外が気になる。あと二週間もすれば、強制的に都の学校に入れられるそうだけれど、そうじゃない。
都よりも向こうの平原や高原が気になるのだ。
獣人はどんな生活をおくってるんだろう。ここと同じような生活なのだろうか、それとも違うんだろうか。家庭教師の先生に聞いても、知らないと言われる。その後にお決まりの「お嬢様はそのようなものに興味を持ってはいけませんよ。彼らは獣人なのですから、お嬢様とは違うのです。決して、彼らと仲良くなってはいけませんよ」と言われる。
私は、仲良くなりたい。話してみたい。
街にも獣人はいるけれど、そうそう話すことなんてない。
この間の獣人の青年は、あれはたまたまだ。
彼は怪我が治ってるだろうか。元気にやってるだろうか。きっと、やってるんだろうなあ。
私は空を見上げて、あの獣人の彼に想いを馳せた。もう会わないだろうけど、元気でやっていてほしい。
そうのんびり歩いていると、突然路地裏から誰かが勢いよく出てきて、こけてしまった。パンは無事だ。
「あ! わりい!」とぶつかってきた人は言った。
「いいえ、大丈夫です」と見上げると、あの彼だった。頬はまだ少し傷が残っているが、もう他の傷は治ってるらしい。
「あ、あんたか! 悪いな、ぶつかって」と彼はキョロキョロと周りを見渡しながら起こしてくれた。
「ありがとう、気にしないでください。あの、怪我はもう大丈夫なんですか?」
「おう、もうへっちゃらだ」
「あの」
「あ?」
「誰かに追われてるんですか?」
彼は少しだけ驚いたように私を見て「そう、だけど」と疑うようにこちらを見た。
たかが怪我の手当てをしただけじゃ、まだまだ警戒されるよねえ、と私は少し苦笑して「安心してください。誰かに引き渡すなんてことはしないので」と言った。だけど、彼は少々疑っている状態で「そうか」とだけ言った。
隠れる場所なら何個かはある。
近くのカフェテリアの中庭、路地裏の誰も使っていない小屋。抜け穴をくぐれば入れる空き家。ここの近くだと小屋が一番近い。
少し考え込んでいると、後ろの方から「いたぞー!」という声が聞こえた。
「こっち!」と私は彼の手を掴んで走り出した。
「おい、どこ行くんだ?」
「誰も使ってない小屋があるんです!」
「あんた、足遅いな」
そりゃあ、男の子からしたら遅いだろうけど、と少しだけムッとしていると、足の裏と背中に手が添えられ、ひょいっと持ち上げられた。
お、お姫様抱っこだあ……!
私がびっくりしていると「こっちの方が早いだろ。どっちだ」と聞かれるので、指をさして案内した。
彼はとても速かった。建物が帯のように連なって見えたし、雲が追いかけてくるように見えた。それに、とても快適だった。軽やかで、自分も走ってるみたいな気持ちになれた。
「ここです!」と言えば、彼はすこしだけ前のめりになりながらも止まって、小屋の中に入った。いつも通りそこは埃臭くて、まったく使われてない状態だった。
彼はキョロキョロと見回して「よくこんなところ知ってたな」と言った。
「偶然見つけたんです。猫を追いかけてたら、小屋の中に入っていって。中にね、子猫がいたんです、生まれたてのかわいい子猫」
「ふうん」とだけ言って、彼は表を警戒している。
私は座り込んだ。
見つけた子猫は、私がもう一度来た時にはいなくなっていて、持って来たハムや牛乳は無駄になった。きっと、この小屋の持ち主に見つかって外に出されてしまったんだと思う。本当に小さくて生まれたてで可愛かった。そんな子猫達は生きているとは思えない。親猫はどうしたんだろう。
そんなことを考えていると、複数人の足音が聞こえた。
「あの野郎、どこに行きやがった!」
「足が早いがどうせそこまで遠くはいけねえだろ、女もいたんだし」
「そうだな。そこらへんを探せ! あの野郎。俺たちのチームを馬鹿にしやがった!」
「おう! 落とし前つけてもらわねえとな!」
「お前はあっち、お前は向こう、俺はこっちだ! 探したらボコボコにしてやれ!」
「おう!」と男達は小屋から離れていった。
この人、なにをしたんだろう。
彼は離れて行ったからか、どさっとその場に腰を下ろした。それから、グウと鳴るお腹をさすった。
「あの、パン、一緒に食べますか?」
パンを半分ちぎって差し出してみると、さっと取って「あんがとよ」とばくばく食べ始めた。お腹空いてたんだなあ。
私ももそもそとパンを食べ始める。
まだパンはあるので、それも渡せば「あんたいい奴だな!」と大喜びでそれも食べてしまった。
ああ、私のお昼ご飯……。パン半分じゃちょっと足りないよ……。まあ、家に帰れば、ご飯はあるんだし。気にしないでおこう。
「なあ、あんたさ、誰にでもこうやってパンをやったり、手当てしたりとかするのか?」
「誰にでもってわけではないですけど、困ってたら、そりゃあ助けますよ」
「ふうん。お人好しって奴なんだな」
「そう、ですかね?」
「そうなんじゃねえの」
それで会話は終わって、少し気まずい。
外は青い空が広がっている。小屋の中にある格子窓からもよく見える。鳥が飛んでいて呑気な陽気だ。
どさっと音がして振り返ると、彼がゴロンと横になっていた。
「寝るんですか?」
「疲れたからな。あんたは?」
「私は、ちっとも」
「あっそう。俺のことは構わないで帰っていいぜ」
「いえ、もう少しここにいます」
「そう」とだけ言って、目を瞑ってしまった。
自由だなあ。
高原や平原の獣人達もこれくらい自由なんだろうか。地面に寝転がって青空の下、お昼寝するんだろうか。それは、とても素敵なことに思える。羨ましいなあ。
家の中だと、色んな人に「お嬢様、いけませんよ」と叱られる。あまりにも叱られるものだから、萎縮してしまって、家じゃ少し息がつまる。だから、私は外に出て、街に行く。家の人たちは街じゃなくて家の近くの森に行っていると思っている。だから、外出はまだ許されている。
パンも食べ終わってしまったので、私は読みかけの本を開いた。家に内緒で買った本だ。
父や母が読むほどのものではないというような娯楽小説。ただの騎士物語で、確かにベタな話だなとは思う。それでも、家では読むと顔をしかめられるような本を読むというのは楽しかった。
こっそりと悪いことをしてるんじゃないか、と思う時もあるけれど、それでもやめられなかった。もっと知りたい。もっと街の人たちがどんな生活をしているのか知りたい。部屋の窓から見える平原の獣人達の生活をしりたい。
貴族達のおしゃべりよりも街の人たちのおしゃべりを聞きたい。流行のドレスよりも、安い野菜の話を聞きたい。
それは、貴族の娘としては変わっていることなのだと思う。
いつもぼーっとしていて、ろくに友達がいない。私のことをぼーっとしていて鈍い子と陰口を言っているのを聞いたこともある。そうだろうなと私は少し胸は傷んだけれど、納得していた。
流行のドレスや王子だの諸国の貴族令息の話なんて興味がなかったし、どこそこの伯爵が夜会で云々という話にも乗ることができなかった。そんな話を聞くよりも、街のカフェテラスで人の行き交いを見るほうが数倍面白いし、楽しい。
父も母も、私を鈍い子ねと言う。家庭教師の先生は沈思黙考だと言ってくれたけれど、要は鈍い子だということなのだと思う。私も自分のことを鈍いと思うし、愚鈍で愚図なんだと思っている。
私は本から目を離して格子窓を見上げた。
本当に良い陽気だ。小屋の中も暖かくてうとうとしてしまう。
「おい、起きろ」と肩を揺さぶられてハッとした。知らない間に寝てたらしい。
肩を持っている彼は「起きたら、あんたも寝てんだもん。もう夕方に差し掛かるところだ。もう連中もいないだろうから帰るよ。今日はありがとな」と歯を見せた。
私も少し眠いけれど、同じく笑ってみせた。
「巻き込んで悪かったな」
「いえ、気にしないでください。少し楽しかったですから」
「そっか。そんならよかったぜ」
私たちは少しだけ警戒しながら小屋から出た。周囲には誰もいなくて、夕方に差し掛かりそうな淡い青空と茜色が混じりあっていた。
空を見上げていると、不意に腕を捕まえ抱き込まれた。
びっくりして、逃げようとすると首筋に彼の顔がきて、すんと鼻をならされた。怖かったのだろうか。あれだけの大人数においかけられると怖いよね。だけど、これは少し違うような気がする。怖かったのではないのだろうな。じゃあ、なんだろう。なんのために抱きついているのだろうか、この人は。
そう考えているうちに彼はパッと身体を離して「パン、ありがとよ!」と言って、手を振り上げて走って行ってしまった。
本当になんだったのだろうか。
私は少し冷えている手でほっぺたをペタペタ触りながら家に帰った。
「ま、お嬢様、お顔が少し赤いですわよ! お風邪でも召されましたか?」と心配そうに聞くメイドに「いえ、少しはしゃぎ過ぎてしまったみたい」とだけ言った。
彼女は森で走り回ったのだろうと思ったのか「まあ、旦那様や奥様にしれたら大変ですよ」と笑って、部屋まで連れ立ってくれた。
今日のご飯もそれなりに豪勢なのだろう。いつもは少し残してしまうのだけれど、今日は全部食べられそうだ。
部屋の窓のカーテンを開ければ平原が見える。あそこに彼が暮らしているのだろうか。
今日のあれはなんだったんだろう。思い出すと、照れてしまって顔が熱くなってしまう。名前もしらない獣人の彼。また、会えるだろうか。