7章
・・・・・・・・
・・・恋
どこか遠くで声が聞こえる。
「恋、恋!!」
だれ? お願い、もう少しだけ寝させて。締め切りまであと10時間あるんだから・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
・・・うん?
あれ、原稿上げたのっていつだったっけ?
昨日? あした?
あれ? あれれ?
・・・・・・
脳みそがグラグラ揺さぶられる。
「恋、恋! しっかりしろ!!」
・・・・・・?
「やばっ!!」
反射的に飛び起きた。よく分からないけど、きっとこれは本能がサイレンを鳴らしている!
「っと、あれ?」
何だろ? 目の前15センチの所に、見慣れた顔があった。
見慣れた、見慣れた?
あれ? 誰だっけ・・・・・・
「良かった! 恋、心配したぞ!」
目の前の男は、そのままガバッっと両腕で私を抱きしめてきた。
麻地の服に覆われた厚い胸板が、私の顔を覆い尽くす。
微かに湿った汗の匂いが、私の鼻孔いっぱいに香ってくる。
その、『ムワッ』と匂い立つ香りに一瞬意識を持って行かれそうなほどクラクラしながら、でもそれが、不思議と不快じゃなかった。
ううん、むしろ心が落ち着いてくる。何だか、とても懐かしい・・・・・・
もっと、もっと・・・・・・ ううう、もももも・・・・・・
「兄様! 苦しい!!!」
私は慌てて抱きしめている男を突き飛ばした。
はあ、はあ、はあ、あああ、新鮮な空気が美味しい。生きているってなんて素晴らしいんだろう!!
「すまない、すまない。だが、お前が悪いんだぞ。倒れたまま、いつまでたっても意識が戻らなかったんだ。俺がしたこととはいえ、少しばかりやり過ぎたようだ。謝る」
どことなくぶっきらぼうな、それでいて隠せない優しさに溢れた声。でもその目線は、一筋の迷いもなく、私の両目を見据えて離さない。その瞳の奥にある気持ちが、苦しい程痛く、私の心に語りかけてくる。
「謝らないでください。兄様。すべては私の未熟ゆえのものです・・・・・・」
なぜだろう。心が痛い。痛すぎる。
私は深く頭を下げたまま、再び顔を上げることが出来なかった。
得たいの知れない強烈な感情に、何も言葉にすることが出来ない。
その時、フッと私の頬を温かいぬくもりが覆った。
ただ、その触れた感覚は、まるで金卸しのよう。ささくれ立った刃物のような感触に、思わず顔を上げた私を待っていたのは、私の両の頬を優しく包む、兄様の傷だらけの手と、その間から覗く、この世で最も愛おしい人の顔。
その兄様の顔が優しかった。あまりにも優しかった。
「ほら」
そして私の手に、一振りの刀を握らせる。
刀身は2尺1寸。その鯉口は堅く紐で縛られている。
なぜだろう。意識とは別に、まぶたの裏が熱い。視界がぼやける。
「未熟なのは恥ではない。お前はまだ若いんだ」
そのあまりに優しい声音に、私の心の中で何かが弾け跳んだ。
「しかし! 時間が、時間がないのです。一刻も早く、私は、私には・・・・・・」
もはや涙は止まらなかった。嗚咽しながらも「私は・・・・・・」と繰り返す若者の言葉が、どこか遠くの事のように聞こえている。
・・・・・・ああ、これはきっと夢だ
漠然とそう思った時、不意に世界がぼやけた。
色が溶け、漆黒の闇に覆われて行く中、ただ、ただ、若者の声だけが木霊する。
「私は、私には・・・」
完全に色が抜け落ちた瞬間、急速に光が溢れてきた。
そして、気付いた時、目の前にいたのは懐中電灯で私の顔を照らす、愛すべきも憎たらしい妹の顔だった。
「もう、お姉ちゃん、寝言うるさい!!」
妹は懐中電灯をチカチカ点滅させると、そのまま2段ベッドの上にスタスタ戻っていった。
心臓がバクバク言っている。
夢の内容は、まったく思い出せない。
無意識に手を顔にやると、冷たい水の感触があった。
「あれ・・・・・・?」
最初は汗だと思った。でも、直ぐにその勘違いに気付く。でも、
「なんで? 止まらない・・・・・・」
それは涙だった。
涙脆い私だけど、でも、止めどなく溢れてくるこの涙は、まったく心当たりが無かった。
でもでも、何故か無理やり止めようとは少しも思えなかった。
悲しいのか? 悔しいのか? 自分の気持ちさえわからない。ただ、その感情のまま、私はベッドの上で、無言の慟哭を続けていた。
どれくらい時間が経ったのだろう・・・・・・
ようやく涙が枯れ、周りを気にする余裕が出来た時、真っ先に気付いたことは、下着が汗でびっしょりだったこと。
ちょっぴり、汗臭い。
でも、なんだろ、その匂いに一瞬別の香りが混ざったような気がした・・・・・・
「ふう」
とりあえず、もう一回シャワーを浴びよう。
明日は友人と次の原稿について話す約束をしているんだ。