最終話 第5章
「さあ、いい子ねぇ・・・・・・
あなたは何も考える必要なんてないの。
だって、ほら、あなたは夢を見ているのだから・・・・・・
そう、これは夢よ。
ありえない程、ひどい、ひどい、悪夢・・・・・・」
店長の気持ち悪い声が、神田明神奥社の部屋の中央に向かって放たれる。
そこにいるのは華恋、しかし言葉は周囲にも零れ落ちる。
その声が耳に入った瞬間、言われた対象でも無いにも関わらず、麻美や冥途たちの全身に『ゾワッ』っと鳥肌が立った。
決して大きな声ではない。
それにもかかわらず、不思議なエコーがかかったかのように、一言一句はっきりと、脳裏に響き渡る。頭の中を蹂躙する!
生き物としての本能が、危険信号を点した。
それは恐ろしく甘い声。
とても甘い、甘い、気持ちが悪くなるほどの、あまりにも甘過ぎる響きを帯びていた。
「・・・・・・あなたの体も、心も、現実じゃない。
全ては夢、全ては幻。
ほら、だんだんと体が重くなっていく。
だって、それは偽物だもの。
あなたのものじゃない。
そんな偽者の体にいつまでしがみ付いているつもり?
そんな偽りの心にいつまで誑かされているの?」
それはまるで、悪魔のささやき・・・・・
聖母のような顔を見せながら、その実態は狡猾な笑みでほくそ笑んでいるかのよう。
聞く者全てを魅了し、強引に夢の世界へと引きずり込む魔性の声。
「ほら、よく見なさい。
偽物の体を!
ほら、感じなさい。
足の先からどんどんと体が腐っていっているでしょ!
どんどん、どんどん・・・・・・
ほらぁ、手も、腕も、真っ黒に腐って行ってるのが分かるでしょ!!
ほらほら、あぁら、もう体全身がドス黒く変色してるわよぉ!!」
「うぅ、きゃあぁぁ!!」
麻美や冥途たち全員が、思わず苦悶のうめき声を上げる。
耳を閉ざしてその声を遮断したいのにも拘らず、まるで脳髄の奥深くが麻痺してしまったかのように、痺れ、動かすことが出来ない。そのむき出しにさらされた鼓膜から、身の毛のよだつようなネットリした言葉が、それぞれの心をドス黒いヤニのように犯してゆく。
周囲にいる麻美たちですら、そうなのだ。
ましてや、その言葉を直接浴びせられている華恋は、その比ではなかった!
「うぅっ! 恋くん!!」
麻美が痺れて満足に動かない唇を懸命に震わし、必死に呼びかけた声は、しかし、蚊の羽音程の大きさしかなかった。
その閉じることすら許さない視線の先では、華恋が呆然と立ち尽くしている。
しかし・・・・・・
その目は真っ赤に充血し、飛び出るかと思わせる程に見開かれている!
その口は半開きのまま小さな泡を吹き、微かな震えを見せている!
その手が、足が、壊れたマネキン人形のように歪に固まってしまっている!
それなのにも関わらず、頬に、コメカミに、指の先にすら、クッキリとしたスジが、血管の形のまま浮き上がり、ピクピクと細かく痙攣していた。
それらが意味することはひとつ。
力が入らなくて動けないのではない、力が入り過ぎて硬直しているということ。
いや、そんな生易しいものではない。
もはや、力の暴走だ。
何か別の『得たいの知れない何か』が華恋の中に入り込み、その華奢な体を蹂躙しようとしている様が、麻美達のいる遠目からもはっきりと見えるかのようだった。
ギリッ・・・・・・
それはほんの微かな音だった。
それとともに、麻美の口元から、一筋の血が流れ落ちる。
軋む奥歯の悲鳴は、そのまま麻美の心を表していた。
目の前に起こっている光景と、それに対して何も出来ないでいる、不甲斐ない自分への怒りの証。
鈍い痛みが、麻痺をした麻美の指に、ほんの少しだけ力を取り戻させた。
「くそっ!」
ゴンッ
麻美は裂帛の気合と共に、拳を床に叩きつける。
磨き上げられた木造の床が、僅かにへこむ。じんわり拳から血が滲み出た。
(大丈夫、腕は、動く。体は? 動く、いや、動かせてみせる!!)
濁った意識が、急速に覚醒してゆく。拳から伝わる痛みが神経を伝達し、恐怖に萎え竦んだ体に力を与えた。あれほど不気味な圧迫感を感じたモヤのようなものが、嘘のように消え去っている。
と同時に、麻美の目に、はっきりと映し出された光景があった。
今や世界の中心となった、いや、『動いている』世界の全てと言ってもいい、この神田明神奥社の中で、荒ぶる『気』の波が、渦巻き、奔流となって、台風のようにとぐろを巻いている姿が。
その中心は、店長。そして、華恋だ!
「恋くん、いま行く!!」
麻美は大声で叫ぶと、荒波の中へ一気に駆け出した。
その瞬間、店長の首がグルンと回転し、麻美の姿を見据えた。
「もうちょっとなんだから、うるさいわね!」
店長が叫ぶと、一気に部屋の中の圧力が増加した。
麻美の体が、巨大な重りで押しつぶされたかのように、床にめり込んでゆく。思わず膝をつかずにはいられない。
店長は右の手の平を上に向けると、グッっと力を込める。そこに得たいの知れない力の固まりが凝縮していくのが、遠目にもハッキリと分かった。
「あんたは少し、黙ってなさい!」
莫大なエネルギーの固まりをつかんだ拳をそのまま大きく振り上げ、一気に麻美の方角に向けて振り下ろす!!
その刹那! 風に乗り、大きく弧を描いた扇子が、下ろさんとした店長の手首を強襲した。
「少し黙るのは、そっちの方なのです!」
響く可憐な声。
その主は、麻美とは反対側に飛ばされた琴だ! 床に倒れた状態で、上半身だけを懸命に起こしながらも、右腕を店長の方向へ一直線に掲げていた。
「まったく、あんたまでチョコマカと・・・・・・あん?」
と、どこからともなく響き渡る、笛の音。
その場違いなほど澄んだ音色が部屋中を覆い尽くす。
同時に、部屋を支配していたプレッシャーが、ほんの僅か弱まった気がした。
「さあ、早く行きな! そんなには持たせられないよ!」
蜜の奏でる笛の調べは、荒々しさとは反対の、全てを凍りつかすかのような冷たい音色だった。
「あなたたち・・・・・・ ありがとう!」
麻美はほんの僅か、瞳を大きく丸くしたものの、直ぐに体勢を整え、一直線に麻美の元へと駆ける。
その距離は、およそ15メートル。
麻美なら3秒ちょっとでたどり着ける。
たったの3秒・・・・・・
しかしその3秒が果てしなく遠い。
「甘いわね! 私がそれを許すとでも思って?!」
店長が、その巨躯に似合わないスピードで華恋との間に割り込み、右手を大きく振りかぶると、ニヤリと凶暴な笑みを浮かべた。
「これで終わりよ・・・・・・ なにっ?!」
振り上げられた腕が、まさしく麻美を襲いかかろうとした瞬間、空中で何者かに掴まれたかのように、動きを止めた存在があった。
「そうですわね、もう、終わりにしましょう。いい加減、見果てぬ夢を追い続けるのは見苦しいですわ!」
鈴の声が響いた時、店長の上げられた腕は、鈴の放つ紅い紐でグルグル巻きにされていた。
麻美はその脇をすり抜け、一気に華恋の元へたどり着く。
(恋くん・・・・・・ なんてことを!)
近くに来て、ハッキリと分かった。
華恋は、ボロボロだ。
そう、まさしく「ボロボロ」以外の言葉が見当たらない。
そもそも、華恋の心はどこに行った?! これではまるで『生きる人形』ではないか。
残り1メートルまで華恋に接近した麻美は、心を決めた。右手の平を、ピンと広げると、大きく後ろに振りかぶる。
パチーン!!
今や世界の全てとなった、この神田明神奥社の部屋の中に、乾いた音が鳴り渡った。
音の発信元である片方、麻美の手には、はっきりとした痛みの感触が残り続けている。
そしてもうひとつの発信元である華恋の頬は、手の形に紅く染められながらも、その表情は微動だにしなかった。その瞳は灰色に濁ったまま、うつろに虚空を彷徨うだけ・・・・・・
「恋くん! これを見るんだ!!」
麻美は懐から大きめの茶封筒を取り出すと、ビリリと破り、中身を宙に放り投げた!
ひらり ひらり
ひらり ひらひらり
麻美が投げた封筒から、ひらひらと数え切れないほどの色鮮やかな紙片が散りばめられる。
紙片?
いや・・・・・・ それは写真だ!
様々な色に染められた写真が、桜吹雪のように宙を舞い踊り、その一枚が、華恋の視界いっぱいを覆った。
「?!・・・・・」
その瞬間、虚ろだった華恋に理性の光が宿る。
脳の奥、記憶の遥か底から湧き上がる感情。
そう、これは・・・・・・
見覚えがあった。
何かは分からない。それなのに、無性に華恋の心を疼かせる風景。
それは
紅よりも赤い朝焼けだった
別の写真が目に映る。
それは
紫紺よりも深い夜空だった
街行く雑踏、あくびをする仔猫、満開に咲き誇る花々・・・・・・
何の関連も無く、次々と目に入り込んで行く、写真たち・・・・・・
その全てが、華恋の心にさざ波を立てて行く。
「これは・・・・・・?」
無意識の内に、唇が言葉を発していた。
記憶の奥底に眠る、自分でも忘れ去ってしまった、『何か』の声が、華恋の頭の中でずっと叫び声を上げていた!
そして、一枚の写真が華恋の目に止まる。
それは、まるで世界の終わりを示すかのような、黄金に輝く夕焼けと、その中に佇む人影。
それを目にした瞬間、華恋の中で、バラバラになったパズルのピースが、カッチリと音を立ててはまった!
「これは、私が見た風景?」
そう、間違いない。それらは、過去の様々な世界、様々な生で出逢ってきた風景に他ならない!
夢の中で、何度も何度もやり直し、繰り返し、その中で誰の記憶にすら残らず消えていった景色たち・・・・・・ 当然華恋も、その存在など忘れ去っていた。
それなのに、なぜここに、そんな歴史に残すことすら許されなかった景色が存在するのか?
自分でも忘れたと思っていた、『その夢の世界』での出来事が、走馬灯のように記憶にあふれ出してくる!
いったい、誰がこの写真を撮ったのか?
いったい、何の為にこの写真を残したのか?
膨大な記憶の洪水に混乱しながらも、華恋は誰よりも愛おしいひとりの男性の顔が浮かんできた。
「恋くん! 親方様からの伝言を伝えるよ!!」
麻美が舞い散る写真の吹雪の向こうから、大声で叫んだ!
「『いつ、どこであろうとも、俺はいつだってお前と共にある』」
その時、麻美の言葉に重なって、華恋は愛しい人の優しさに溢れた声を聞いた気がした。
その瞬間!
華恋の記憶が蘇る!
華恋の使命が蘇る!
「そうだ、私は恋だ。だからこそ、本当の使命を果たさないと!」




