4-3章
「『斯くあらねばならぬか? 斯くあるべし!』 そう言ったのはベートーヴェンだったっかしら?」
突如後ろから発せられた声に、蜜はハッと身構える。
「・・・・・・何もそれが全てっていうわけじゃあるまいに、ねぇ」
「店長! 気配を絶って近寄るのは止めてください!」
「あら、蜜ちゃん。本当に気付かなかったの? そんなお世辞はいらないわよ」
いや、実際、蜜の背中には、冷たい汗が流れ落ちていた。
蜜が気が付いた時、まるで『存在が急に湧き出した』かのように、紅色のドレスを纏った店長が、蜜と華恋の真後ろに立っていた。その手には、つまらなそうに、割り箸と、カップラーメンが握られている。
「何かあったのですか?」
「まあ、『あった』というよりは、これから『ある』が正しいわね」
店長が割り箸でドアの方向を指した。
「何をおっしゃって・・・・・・ はっ!!」
ドアは開かれている。その先は「もみもみめいど」の共有ルーム。
そのはずだった。
ドアの先の景色が、歪んでいる。
最初は目の錯覚かと思った。しかし、その歪みは、微かな蠢動を繰り返し、やがて、はっきりとしたウネリとなって、部屋全体を激しく揺らす。
「まったく・・・・・・ ちょっとだけ恋ちゃんの意識を『飛ばした』だけだっていうのに、嫌になるわねぇ」
そう言う店長は、ヤレヤレとばかりに首を振りながら、手にしているラーメンをズルズルすする。
化学調味料に溢れた、空腹の胃と脳を刺激する匂いが、狭い部屋いっぱいに充満する。
「店長・・・ さっき渡した薬に、何を混ぜたんですか?」
「言った通りよ。単なる眠り薬。まあ、眠るだけじゃなくて、人間の意識丸ごと凍らせちゃうんだけど、同じようなものよ。恋ちゃんは、夢見ることも無く、一週間眠ることになるっていうだけなんだけどねぇ・・・・・・ 恋ちゃんが『夢を見なく』なったせいで、すこーし世界のバランスが崩れたのかもしれないわね」
「店長、それを知っていたのではなくて?」
蜜の声のトーンが一段階低くなる。目が、スーっと細くすぼめられる。
その響きの冷たさに、しかし店長は動じない。
「だったらどうなのかしら? 私達のすることは変わらない。あと一週間、12月31日が過ぎるまで、恋ちゃんを守り通すだけよぉっと!」
ヒュン
店長が右腕を振り上げる。
その先には、崩れ落ちる『ヒトらしき』人影。店長の指からは、割り箸が消え去っていた。
部屋の揺れが、少し治まったように感じられた。
「嫌だわ、これじゃあもうラーメンが食べられないじゃない」
「・・・・・・店長、いったい何杯カップラーメン食べれば気が済むんですか?」
蜜があきれた様な口調で問いかける。
「そんな変人みたいな目で見ないでちょうだい。まだ、たった三杯しか食べてないわよぉ。あともう一杯くらい食べたかったのに、嫌になっちゃうわ・・・・・・ しょうがないわね、もうすぐ19時だし。蜜ちゃん、ちょっとだけ恋ちゃんをお願い。今日最後のご主人様をお迎えしなくちゃならないわ」
そう言うと店長は、残ったカップラーメンのスープを、ズルズルと一気に飲み込んだ。
「店長、あんまりカップラーメンばっかり食べると、太るよ」
「・・・・・・いまさらね。何を後悔するかは、個人の主観よ」
胸を張って答える姿と、対照的に緩められたコルセットのお腹を見て、蜜は大きなため息をつく。
それは、諦めなのか? 同意なのか?
いずれにせよ、店長の容姿が残念な道まっしぐらであることには変わらない・・・・・・
華恋と二人、部屋に残された蜜は、静かに華恋をリフレ用のリクライニングチェアに横たえる。
それでも、微動だに顔の表情は動かない。
血の気が引き、月光に輝く白磁のように蒼白に凍りついた様は、着ている服も相まって、昔の日本人形のようにも見える。
ただ、巫女服越しに、辛うじて分かるほど微かに、胸が上下していることだけが、華恋の『生』を感じさせた・・・・・・
「ねえ、恋さん。あなたの王子様が来るよ。でもね、王子様が正義の味方だとは限らない。実は、その王子様こそが、世界を破滅に導こうとしているとしたら、あなたは信じるのだろうか・・・・・・?」
蜜は優しく語りかけながら、華恋の髪を手櫛で梳る。
夢見ぬ姫の見る夢は、幸福なものか、それとも悲しみに溢れたものか?
答える者の無い問いかけを心の内で発しながら、蜜は、ただただ、髪を梳り続けるのだった・・・・・・




