第1話 最終章
「・・・・・・恋さん、起きなさい」
遠くから声が聞こえる。
「・・・・・・大丈夫?」
ユッサユッサと体が揺られる感覚・・・・・・ うーん、もうちょっと寝かせて・・・・・・
「ほら、起きろ!」
ホッペタに強烈な痛みを感じて、私は目を覚ました。なんだろ? 世界がグルングルン回ってるよう・・・・・・
状況が把握出来なくて混乱する私の目の前に、店長と蜜さんが立っていた。
店長は若干困ったような顔で、蜜さんは相変わらずのクールビューティな顔立ちで、それぞれ私を見下ろしている。ちなみに蜜さんの両手が、私のホッペタを"むにー"と掴んでいた。
「蜜ひゃん、何ひゅるんでしゅか・・・・・・」
私が必死の抗議を上げると、ようやく蜜さんは手を離してくれた。
うぅ、ホッペタがジンジンするよぅ。
「恋さん、ごめんね。近くの薬屋が全部閉まっちゃってて」
店長が申し訳なさそうに頭を下げる。
「やっぱり顔が赤いわね。今日はもう良いから上がっちゃって」
それは正直嬉しいお話だったんだけど、でもあの豪雨の中、一生懸命ここまで来た私っていったいなんだったんだろう・・・・・・
思わずそんな虚しさが胸をよぎる。
おまけに風邪まで引いちゃったというのに、ここで帰ったら、今日のバイト代はいったいいくらもらえるのだろうか? まさか、労働時間、一時間だけ? 来るのに二時間もかかったのに・・・・・・
正直言って、考えるのも怖いけど、でもやっぱり体の辛さの方が勝っていた。
「そうですね。そうします」
体が重い。直ぐにでも横に寝たかった。
そんな私の目の前に、蜜さんがコンビニのビニール袋を差し出した。
「これは、お薬代わりのお土産。せめてこれで体を癒してくれたまえ」
「ありがとうございます・・・・・・ って、『名湯シリーズ 草津の湯』? 何ですかこれ?」
「あぁ、やっぱり風邪といったら草津の湯と言うじゃないか。お薬が買えなかったから、せめてもの代わりだよ」
表情も変えずに話す蜜さん。申し訳ないんですが、この体調でお風呂はちょっとキツイです・・・・・・
ただ何だろ? 妙に聞き覚えがあるような単語が出てきた感じがする。全く思い出せないんだけど。
「すみません、ご心配お掛けします」
でもやっぱり、人の好意は素直に受けるべきだ。何より、本当に嬉しかったし。
「あと、これ、忘れずに持って帰って」
蜜さんが、今度は少し大き目の紙袋を渡してくれた。
「はい。あの、これは・・・・・・?」
「恋さんの服さ。濡れてしまっていたから、とりあえずビニール袋に包んで、中が見えないように紙袋に入れといたから。とりあえず今日はそのまま真っ直ぐ家に帰ることをお勧めするよ」
そうだった、そういえば服がびしょ濡れだったっけ・・・・・・ って、
あれ?私、ブラしてない・・・・・・
「あ、ありがとうございます」
私はひったくるように紙袋を受け取ると、そのまま外へ(気持ちだけは)駆け出したのだった。
「申し訳ございません、ただ今、落雷の影響で、全線で電車が停止しております。繰り返し申し上げます、ただ今、落雷の影響で、全線で電車が停止しております。ご乗車の皆様におかれましては、くれぐれも慌てることなく、次の放送を・・・・・・」
そこでぷっつりと放送が途絶えた。と思ったら二、三回電灯が明滅して、そのまま真っ暗になっちゃった。
総武線の車内は、豪雨の為いつもに比べればはるかに人が少なかった。それでも、決して少数ではない居合わせた人たちの悲鳴が飛び交う。
私はその声をどこか遠くの事のように聞いていた。熱のせいか、意識が朦朧とする。私はガランとした横長のイスの端っこに座って、上半身を壁にもたれかけていた。
真っ暗闇に覆われた車内を、時々稲光がフラッシュのように照らし出す。そんな光景が、妙に非現実的で、まるで夢の中の出来事みたいだった。
ううん、実際にちょっと夢を見ていた気がする。
私は再びまぶたを閉じた。夢の残滓がまぶたの裏に蘇る。ここでは無い場所、ここでは無い時、私はまるでお侍さんみたいな姿をしていた。
「・・・・・・ふふっ」
思わず笑い声が漏れた。だっておかしいんだもん。私が若い男の人の格好で、誰か別の男の人に抱きついていたなんて。でも、何だかとっても懐かしい感じがしたなぁ・・・・・・
体が熱でぽわぽわしている。脳みそが沸騰しそうなほどに焼け、何も考えられない。ボーとする。
と、何か冷たい感触がおでこに触れた気がした。まぶたが重くて開かない。でも、とっても気持ち良い・・・・・・
「・・・・・・お兄様」
そんな声にならない呟きは、だから誰にも聞き取ることは出来なかった。いや、ひょっとしたら、一人だけ・・・・・・
・・・・・・
・・・
「・・・・・・ご乗車の皆様には、大変ご迷惑をお掛けしました。落雷による影響の為、本車両も一時停電となっておりましたが、ただ今、復旧いたしました。これより、随時運行を再開致しますので、今しばらくお待ちください・・・・・・」
目が覚めた時、車内は明るくなっていた。場所は、まだ秋葉原の次の駅にも着いていない。私は、妙に頭がすっきりしているのに気が付いた。
「あれ?」
世界が普通に見える。体のダルさが無い。
「うん? これは・・・・・・」
いつの間にか、私の体を覆うように、男性物のジャケットが掛けられていた。これって
「スガさんの?」
そうだ、間違いない。だってさっき見たばっかりだもの。
「スガさん? いるんですか??」
私は思わず叫んでしまっていた。
その声に居合わせた人達がびっくりするような目を向ける。でも、確認するまでもない、この車両には10人くらいしか人はいなかったのだから。
そもそもスガさんが同じ電車に居合わせる訳がない。私が意識が無いだけで、さっき会った時スガさんから借りていたんだろうか・・・・・・
「あれ? 何これ? 何だか赤いものが付いている?」
カーキーブラウンのジャケットの肩口に、血のような赤い染みが付いていた。それは、ちょっと前に出血したかのような鮮明な赤い色をしているにも拘らず、触ってみると乾ききった染料のように少しも湿ってはいなかった。
「でもデザインにしては変だよね?」
うーん、こんな変な模様はデザインのはずがない。これじゃあ、まるで血のりだよ。でも秋葉原だからなぁ・・・・・・ スガさんだったら変な趣味しているからどっかから見つけて来たのかも。うん、考えても仕方ない。そういうことにしとこう・・・・・・って
「あれ?」
何だろ? 私の目から涙が零れ落ちた。
「やだ、止まんない・・・・・・」
悲しくなんて全くないのに、ううん、だからこそ、流れ落ちる涙を止めることが出来なかった。
ガタン
電車が動きだす。
今日は長かったな。
こんな日は、何て言うんだろう?
そう、まるで夢みたいな一日だったなぁ・・・・・・
今度こそ、電車は止まることなく走り続けて行く。
日常という名の世界が、実は針のように細い奇跡の積み重ねで成り立っていることに、私はその時気付いていなかった。
その日を境に、私の日常だと思っていたものは、少しずつ、少しずつ、音を立てて崩れていくことになるのだった・・・・・・




