丁寧な暮らしの話
丁寧な暮らしに憧れていた。
毎日食事を作り、部屋を整然と片付け、規則正しい生活を送る。
休みの日は、読書をする。棚から気分で茶葉を選び、紅茶を淹れる。茶葉は毎回違うものだ。ゆっくりとした時間を過ごし、取り込んだ言葉たちを頭の中で反芻し、温かいお茶と共に飲み干す。
カーテンから差し込む陽光は穏やかで、美しい部屋を包むように照らした。体は整い、気も整う。
しかし、現実は違った。
仕事を終え、くたくたになって帰宅すると、もう食事を作る気力などない。台所に立つも、背後から子が急かす。とりあえず、炊飯予約していたご飯とパックの納豆や豆腐を出し、その間におかずを作る。おかずができる頃には、なんとも手抜きな、前菜ともいえぬそれで腹を満たしてしまった子らがごちそうさまでした、お腹いっぱい、と作った料理に手をつけずに遊び始める。
なんだか一人で味気なく食事をかき込み、また次の片付けに手をつける。
休日に趣味に勤しむなど、夢のまた夢だ。
散乱し切った部屋を、ただ掃除する。掃除した背後で、子らが散らかす音がする。エントロピーは増大する。物事は乱雑になっていくものだ。分かっていても、何もかもが収束しない部屋に項垂れた。
ネット時代の弊害か、人とは容易に繋がれるようになったが、自分の目に触れる比較対象もまた増えた。
憧れた丁寧な暮らしを実践している人を見るにつけ、なんとも形容しがたい思いに駆られる。
この人たちにはできているのに、私にはできない。できない自分を自分で責めた。
どうも、自分で思っている以上に追い詰められ、ちゃんとしなければならないと思い込んでいたようだ。そう気付くのに、五年かかった。
改めて、丁寧な暮らしとは、と自分に問う。
美しい暮らしでなくてもいいのだと、今なら回答できる。
自身の心身の秩序が保たれ、たとえ周囲に乱されながらも、巡り巡って元の自分のあるべき姿に戻れる暮らしのことを言うのではないだろうか。
そう思い至り、やっと自分を取り戻せた気がした。
食事を作れる時は作る。
読書をしたい時、映画を観たい時、物を作りたい時は、食事も掃除も疎かになることもある。そうして自分を取り戻した後に、また人間としての生活を紡いでいく。
目に映るものだけが丁寧であっても仕方ないのだ。自分がそこに平穏を見出せないのであれば、それはちっとも丁寧ではない。
自分を形作るものを選り分け、惑わされない生活をする。
――それが今の私なりの丁寧さだ。