本を薦めてくれる人の話
純文学とはなんぞや、という議論をするつもりは毛頭ない。定義的なものは大して重要ではないと思うからだ。
強いて言うなら、作品に芸術性を感じられるかどうかが自分の中での「純文学」というカテゴリーなのだが、この芸術性というのも大概曖昧なものなので、やはり個人の感性によるとしか言いようがない。
大衆文学の中にも素晴らしいものはある。
私は吉川英治が好きだし、柴田錬三郎も読んだ。両者の三国志読み比べは出来てないが、いつか絶対やりたいと思っている。何周もまわって、流行りのライトノベルなんかも好きだ。これまた乱暴な括りだなー、と我ながら思うが、エンターテイメント性という便利な言葉を借りてしまおう。
私は読み物に関しては、雑食だ。あまり選り好みしないし、純文学だから、ライトノベルだから、という理由で避けたりもしなかった。読んだ後に「この作品は好みじゃなかった」と感想を抱くことはあったが、最初から一ページも読まずにおくということはない。
読書趣味は完全に父親の影響を受けたといっても過言ではない。
小学五年生の私に吉川英治を薦めてくれたのも、アガサ・クリスティーを薦めてくれたのも父だ。
中学に入った私にと、父は入学のしおりにある推薦図書一覧にあった純文学作品を、古本屋を巡ってあるだけ買ってきた。
「川端康成は綺麗な文章を書くぞー」「太宰だけは何度読んでも好かん!」とぼやきながら、一覧にある本の中で未読の作品を父も一緒に読んでいって、感想を言い合ったりした。
おもちゃもビデオもあまり買ってもらったことはなかったが、本だけはいくらでも買ってくれた。
娯楽が多様化し、活字離れも進んでいると聞く。
若い人たちはライトノベルのようなエンターテイメント性の高い、手軽な作品を好む。
ライトノベルにもの言いたいのではない。冒険心や友情、武勇伝、切ない恋愛といった若い心をくすぐられる作品は若い時期にこそ心に響くもので、おばちゃんになった私が読んで抱く感想よりも、もっと大きな感動を抱くのかもしれない。
ただ、ちょっとばかり長く生きた私が思うのは、ライトノベルを五冊読んだ後、寄り道的な感覚で純文学を一冊読んで欲しいな、ということだ。
ライトノベルほど夢中には読めないかもしれない。小難しい表現もあれば、言い回しも古いところもある。でも、それも含めて文学なのだ。世の中、分かりやすいことばかりじゃない。
「そうしておけば、後で良かったと思うから」なんてことを言うのは年長者ばかりだ、と思っていたら、いつの間にか私もそんなことを呟いてしまっている。
実際、父に薦められた本を読んでいて良かったと思うのだ。純文学を読んだからこそライトノベルの良さも分かるし、ライトノベルを読んだからこそ純文学に立ち返ることもできた。
本を薦めてくれる人も減っているのではないかと感じる。自由に選択することもいいが、星の数ほどある書物の中から自分に合う作品を選べと言うのは限界がある。「この本、読んでみたら?」と薦めてくれる人は貴重だ。
もしも、本を薦めてくれる人がいないのなら、好みじゃない、と一蹴せず、とりあえず有名どころの純文学作品を読んで欲しい、と切実に思う。