一冊の本の話
私の手元に、一冊の本が届いた。
薄桃色のその本の手触りはさらさらと温かく、一枚ページを繰るたびに柔らかな音がした。雁皮紙の風合いが上品で、しっとりとした重みがある。白い糸でしっかと綴じられていて、紙の色と黒いインクが目に優しい。
その本の表紙には、流麗な文字で題字が書かれていた。とめ、はね、はらい。墨汁で書かれた文字は力強い。
中には短編が五編収録されていた。馴染みある作品のはずなのに、一人歩きをし始めた作品たち。なんだか妙な感じだ。
それは私が書き溜めた小説の短編集だ。
このサイトで交流している、あるユーザーさんが手作りで製本してくれたのだ。
感想は? と聞かれれば、なんともこそばゆい、の一言に尽きる。
初めて手に取った時は、小っ恥ずかしくて、表紙を眺めていることしかできなかった。恐る恐る中を開き、やっぱりまた小っ恥ずかしくなって、パタンと閉じる。
とりあえず、「汚れたらいけない」と思い、本を包みにしまい込み、コーヒーを一杯淹れた。カフェイン中毒で、コーヒーがなければ居ても立っても居られない私にとって、こういう時にコーヒーは絶大な効果を発揮する。いつもよりミルクを多めに入れて、マグカップを両手で抱えて一口啜った。
ゆっくり時間をかけて飲むと、心なしか頭が冷静になってきたような気がして、ちらりと本の包みを見遣る。せっかくの本だから読まねば損だと思い、最初の作品を読み始めた。
ディスプレイ越しに見る作品と、本で見る作品では全く印象が違った。書き終わった作品を、公募用に手直しする時は、いつもコピー用紙に印刷して推敲をするのだが、それともまた違った感覚だった。
書いていた時の心情でも思い出すだろうか、とも思ったが、そんなこともなかった。そこにあるのは私の作品でありながら、私のものではなかった。
とは言え、自分の好きなように書いた作品であるから、もちろん自分好みな作品であるのは言うまでもなくて、素直に「あ〜、面白かった」と感じることができた。
推敲中は自作に自信がなくなる。
推敲というのは手直し、整える、という意味だけではなくて、所謂粗探しでもあるからだ。自分の作品の欠点ばかりが目について、長所が見えなくなってしまう。一周回って、最初から書き直したくなるが、多分、それをしても結局また同じことに悩むに決まっている。
けれども、本になった姿で見てみると、「なんだ、自分が感じているより悪くないなぁ」と思う。自惚れ、と言われるかもしれないが、自惚れなければ物書き趣味なんて続けていられない。
短編集の巻末に、歌が添えられていた。作品への感想を、それぞれ歌で詠んでくれていたのだ。
ネットの片隅で細々と投稿しているが、こんな風に感想を寄せていただけるのは、本当に有難いと感じる。そして、幸せだなぁ、と。
きれいごとだけれども、誰かの心の隅っこに私の書いた物語を間借りさせておいてもらえるならば、それはとても嬉しいことだ。
そして、次はどうする? と、もぞもぞと頭の中で何かが蠢く気配がした。