二十三話 そんな餌に釣られクマーッ!
目隠し煙幕用の粘土粉末やその他諸々の道具を詰めた麻袋と、木の実を入れるための大きな空の麻袋を持ち、水確保のために河沿いに北上しながら世界樹を目指す。世界樹は森の中でも木に登ればどこからでも見えるので、見失う事はない。
海岸から世界樹までは歩いて丸二日とちょっと。タマモに斥候に出て貰って行先の安全を確かめつつ進む。山の実りを求めてうろつく猪や狼、熊を避けて迂回したり、じっと身を潜めて通り過ぎるのを待ったり。タマモの鼻と勘のおかげで危険な生き物に遭遇する事はなかった。
道中の食糧は主に川魚。錘を付けた麻の網を投げて獲り、焼いて塩を振って食べる。やっぱり塩があるだけで魚の美味しさは全然違う。魚の切り身の塩漬けも試してみたいけど、寄生虫がいたら怖いのでやっぱり火を通す。腹の中を食い破られるのはぞっとしない。淡水魚は海水魚よりも寄生虫が多いとかなんとか聞いたことがある気もするし。寿司ネタも考えてみれば海水魚ばっかりだし。ああマグロの刺身が食べたい。カツオのタタキが恋しい。でも生息域も獲り方も知らない。よく考えたら生きている姿がどんなのだったかもはっきり覚えてない。ふぁっく。
でも砂浜で大粒のハマグリやアサリがゴロゴロ採れるのは縄文時代に来て良かったと思う数少ない事だ。現代で買ったら二万円はする量と質の貝が半日で採れる。時々美味しいしましまのエビ(クルマエビ?)まで採れる。ふへへ。
魚を獲りながら川を遡る事三日目の朝。朝食の準備をしている間に斥候に出ていたタマモが困った顔で戻ってきた。
「あまてらす、あまてらす」
「ん、どうしタマモー?」
「あっちにくま。あっちにもくま。そっちにくま。むこうにくま。こっちにくま。くまーっ。くまった……ちがった、こまった。かくれてすすむの、むり」
「えええ……森の熊さん自重」
たぶん冬眠に向けて食いだめしてるんだと思うけど、何も私の行先を封鎖しなくてもいいじゃないですかー。というか縄張りはどうした。なんでそんなに密集してるの? 大家族?
「迂回して進めない?」
「うかい?」
「あー、えっと、ぐるーっと熊に見つからないように回って、別のとこから近づけない?」
「むり。あっちもこっちも、くまのにおい、ぷんぷん。どーしてもくま。くまくま」
タマモは後脚で頬をぐしぐし掻くと、木に刺してたき火で焼いていた魚を一匹咥えてとり、地面に置いて冷ましはじめた。
ふむー。なんだろう、なんで熊がこんなにいるんだろう。まさか開発で山を追われて人里に降りてきたわけじゃないだろうし、動物園の檻が壊れて脱走してきたわけでもないし。縄張り争い、もないか。数が多すぎる。一体どうして私の行先を遮るのか。熊の恨みを買った覚えはないのに。
……あれっ。私の行先? なんだか嫌な予感がしてきた。
世界樹……ブナの実がたくさん……森の動物が寄ってくる……うっ、頭が……
熊はあの図体の割に木の実やクマザサをよく食べる。肉食っぽいイメージがある割に肉はあんまり食べない。もちろんブナの実も食べる。
世界樹の下にはブナの実がたくさん=ブナの実を目当てにやってきた熊もたくさん。
「あああああ……」
頭を抱える。そこにごっそり食べ物があるんだから、寄ってくるのは私や人間だけではない。むしろ世界樹のコロポックルが人間を追い払ってくれていた場合、競争相手のいなくなった場所にこれ幸いとリスやヤマネなどの小動物だけではなく熊や猪もわらわら集まってくるのは当然の帰結。
え、ブナの実が欲しければ熊の群れの中に突っ込んでいかないといけないの? 死ぬよ?
くっ、ここは作戦を「命を大事に」に変更して撤退するべきか。でもここまでやってきたのに引き返すのは嫌だ。宝の山は目前、ちょっと無理をしてでもブナの実は欲しい。
タマモを強化して突破しようか? 一尾で普通の子狐、二尾で知能が人間並になって、三尾で喋りだして奇襲とはいえ人間の集落を蹂躙できるようになった。四尾なら熊くらい倒せそう。五尾なら熊の群れ相手でもきっと遅れはとらない。
二尾から三尾になった時は腕を一本食べた。単純に腕一本で尻尾一本と換算すると、三尾から五尾になるには腕二本。
ダメだ、片腕でも辛いのに両腕はあげられない。
そうだ、タマモを囮にして気を惹いてる間に……いやいや。そんな事はできない。熊の足はものすごく速い。逃げきれずに捕まって食べられたら取り返しがつかない。
ぬぬぬ。熊の群れの突破法、熊の群れの突破法。
私の分の焼き魚にまでコソコソ前脚を伸ばしたタマモを捕まえてだっこしながら考える。
世界樹の下では熊が群れをつくって(たぶん)ブナの実を貪っている。熊は普通群れを作らない。子育ての時に親子で暮らすぐらい、だったはず。なんで群れているんだろう。
世界樹の下では獣が争わないとか? 里木みたいに。いや、あの集落でTATARIを起こした時は普通に私と人間は争っていた。それはない。
満腹で争う気が無いとか? 人間だってお腹いっぱいの時は心が広くなる。食べきれないブナの実に囲まれた幸せ熊さん達は縄張りなんて気にしてないのかも。それなら私がお邪魔しても襲われない可能性が?
もし襲われても世界樹の近くならコロポックルがなんやかんやして助けてくれると思うし、本当に危なくなったら耐人間用に持ってきた粘土粉末煙幕を使えば一頭か二頭程度に襲われても逃げ切れると思う。
ふむん。希望的観測かも知れないけど、やってみようか。刺激しないようにゆっくり近づいて、襲われそうになったらダッシュで撤退。いや、熊には背を向けて走って逃げちゃだめなんだったかな。ゆっくり後ずさって逃げよう。
朝食の後、私とタマモはそろそろと世界樹に向かって近づいて行った。既に世界樹の枝葉の下に入っていて、かなり薄暗い。世界樹が上の方で日光を独り占めしているせいか、太陽を浴びられない森の木々には元気が無い様に見える。紅葉こそしているが、紅葉というよりも枯れているだけのようにも見える。数年もしたらこのあたりの木は全部立ち枯れそう。なんだか切ない。抜き足差し足で歩いていると、上の方から紅葉した世界樹の落ち葉が風に吹かれて落ちてくる。葉っぱの大きさは案外普通だった。
「あまてらす、くま、くま」
「ん」
前方を行くタマモが戻ってきて私の頭にしがみついた。前方には地面に鼻先を突っ込んで木の実を探している黒い毛玉。タマモがぶるぶる震えているのが伝わってくる。私もぶるぶる震えている。
刺激しないようにそっと迂回、しようとして、迂回先にも熊がいるのを見つける。逆側の迂回経路にも遠くに熊がいた。
何この熊密度こわい。もう死にそう。
息が荒くなり、冷や汗が流れる。これもう帰っちゃってよくない? 無理でしょこれは。
ガタガタ震えながら棒立ちで迷っていると、前方の熊がこちらを向いて止まった。目がバッチリ合う。
「ひっ!」
口から引き攣った悲鳴が漏れた。
熊がのっそのっそと近づいて来る。本能的に後ずさった。
熊がどんどん近づいて来る。更に後ずさろうとして、落ち葉で滑って尻餅をついた。
熊の毛並がはっきり分かる距離まできた。立ち上がろうとしたが、腰が抜けて立てない。
熊が目の前で止まった。獣臭い息が顔にかかり、髪を揺らした。
頭が真っ白になる。く、喰われる……!
しかし熊は硬直する私とタマモの匂いをふんふん嗅ぐと、ふいっと向きを変えてのっそのっそと立ち去った。
それを固まったまま見送り、熊の尻が木立に消えたところで緊張を解いた。
「はーっ……」
大きく安堵の息を吐くと、タマモが頭の上からコロンと落ちてきた。なんだかぐったりしてるなと思ったら気絶している。無理もない、正直私も失禁寸前だった。
口の中がカラカラに乾いていた。粘土煙幕をぶつけるのは頭から吹き飛んでいたが、それで良かったかも知れない。煙幕なんてぶつけたら怒って襲ってきた気がする。
「あーもー絶対寿命縮んだ。ほらタマモ、起きる起きる」
タマモを起こして、世界樹に近づきながら落ち葉の間を探ってブナの実を探す。痩せ細ったクリの実のようなブナの実はパラパラと見つかった。それを麻袋に詰めていく。タマモは見つけたそばから食べてしまうので戦力にならない。うん、まあこれは知ってた。たっぷり食べて栄養を蓄えてくれれば冬の食糧消費も減るからいいけど。
ブナの実を探しながら世界樹の根元に向かっている間、周囲を見回せばほとんどかならずどこかに熊の姿が見える、という異常な熊密度だった。近隣の熊は全部集まってるんじゃないだろうか。熊に怯えて逃げたのか、鹿や猪は気配すら感じない。代わりに鳥は群れをなしていて、空を見上げると世界樹の枝葉の間を盛んに飛び回る姿が何十羽とあった。風と一緒に世界樹の枝という枝から一斉に飛び立つ光景は幻想的で美しかったけど、上を通るついでに糞爆撃をしていくのは本当にやめてほしい。奇跡的に当たらなかったからいいものを。
熊はやっぱり満腹でリラックスしているらしく、大体の熊は私達を見つけても遠巻きに見ているだけで、近寄ってくる熊も匂いを嗅ぐぐらいしかしなかった。一度小熊が寄って来て前脚でどつかれて転ばされ心臓が止まりかけたけど、その子熊は恐怖に怯える私を憐れんだのか立ち去ってくれた。良かったじゃれてこなくて。甘噛みでも死ねる。熊同士の感覚で甘噛みされたら、人間の皮膚なんて簡単に裂けるよ。
そして肝心のブナの実の収穫はあんまり良くなかった。これならわざわざ世界樹まで遠征せずに近所の木の実を拾い集めても収穫量は変わらない。ブナの実の殻はごっそり落ちていたので、実り自体は多かったはず。出遅れて熊と鳥にほとんど喰い尽くされたらしい。がっでむ。
もうちょっと早く来ればもっと落ちてただろうけど、そうしたら熊と取り合いになって死んだ気がする。熊が満腹だからこうして採取できるのだ。でも熊が満腹になるまで食べていたから採取が捗らないわけで……
ほとんど麻袋が膨らまない内に世界樹の根元に着いてしまった。ここにあったはずの集落は木の幹に飲み込まれたのか跡形も無い。
せっかくなのでコロポックルを呼ぶ事にする。
「コロポックルでっておーいでー! でーないっとめーだまーをほーじくーるぞー!」
大声を張り上げると、数秒して上の方からコロポックルが何人かぽとぽと落ちてきた。渦巻き模様の麻服に、オシャレなバンダナの半透明な手のひらサイズの小人達。全員両手で目を覆ってぷるぷるしている。
「ヤメテ、ヤメテ」
「あまてらす、コワイ」
「目玉ほじくるのは、ざんこく。反対」
抗議された。
「ごめん、ジョーク。イッツジョーク」
「なんだ、ジョークか」
「ジョークでも言ってイイことと、ワルイことがある」
「はんせい、はんせい」
「ごめんなさいを、ようきゅうする」
「ご、ごめんなさい」
なにこの空気。私が悪いの? 居たたまれないんですけど。タマモ助け……おお、背中にコロポックルを乗せてご満悦。タマモかわいい。
並足でその場をぐるぐる走り出したタマモに気をとられていると、コロポックル達が私を見上げて言った。
「あまてらすとのやくそく。ニンゲン、追い出した」
「かわりにくまをよんだ」
「木の実をばらまくと、くまがくる」
「ニンゲンは、くまを怖がる」
「ニンゲン、もうココにこない」
「やくそく、守った」
「ころぽっくるは、やくそくを守る」
「ころぽっくるは、やくそうも守る」
「だれうま。言ったの、だれだ」
「わたしだ」
「おもしろかった」
「おもしろかった」
「よかった。めもしておこう」
コロポックル達はヒソヒソ囁き合っている。思っていたよりマイペースだった。ちょっと和む。
私はうつ伏せに寝転んで彼らに目線を合わせた。
「ねえ、約束を守るコロポックルさん。お願いがあるんだけど」
「私たちは、やくそくを守るころぽっくる。あまてらすのおねがい、なんだ」
「来年の今ぐらいにまた来るからさ、木の実ちょっととっておいてくれない? そういう事ができればだけど」
「あまてらすは、木の実がチョットほしいのか」
「あ、うん。ちょっとというか沢山ね」
「チョットなのにたくさんなのか」
「ごめん、やっぱたくさん。この袋がいっぱいになるぐらい」
麻袋の口を広げて見せると、コロポックル達はひそひそ話し始めた。声が小さすぎて聞き取れない。何を話しているんだろう。あの袋欲しいな、とかだったらあげてもいいけど。来年木の実をとっておいてくれるなら。
しばらく話し合ったあと、代表のおじいちゃんコロポックルが私に言った。
「いま、木の実をよういできる。いま、ほしいか?」
「あー、できるなら欲しい」
「わかった。フクロを、かしてほしい。いっぱいにしてこよう」
「おお、ほんとに?」
「ころぽっくるは、ウソをつかない。ウソだけど」
「それはウソなのか、ほんとなのか」
「ふうむ、ふかいな」
「てつがくてきだ」
「めもしておこう」
ゴニョゴニョ言っているコロポックル達に袋を渡すと、彼らはばらばらと大樹の幹をノックした。すると小さな亀裂が縦にできた。コロポックル達は麻袋をその亀裂に無理やり引っ張り込んでいく。麻袋は伸びきって張り裂けそうになりながら、コロポックルと一緒に亀裂にすぽんと入って行った。タマモの背から降りたコロポックル達もパタパタ走ってきて、亀裂に走り込んで吸い込まれていく。
ここ数年で散々不思議な光景を見てきたが、これはこれで不思議だ。コロポックルの体ってどうなってるんだろう。半透明で霊体っぽいけど麻袋に触ってたし。考えるだけ無駄だと思うけど気になる。
コロポックルの不思議に思いをはせていると、亀裂が大きくなり、コロポックル達がギチギチにブナの実が詰まった麻袋を運んでわらわら出てきた。麻袋が通過すると亀裂はうにょんと閉じる。コロポックル達はドヤ顔で麻袋を私の前に置いた。
「これでいいか」
「おおーっ、いいよいいよ、最高だよもう。ありがとう、いい仕事してますねーって重っ!」
持ち上げようとしてよろめいた。持ち上げれるけど、重い。小さくて軽い木の実でも詰め込めばかなりの量になる。これは持って帰るのは大変そうだ。嬉しい悲鳴。
道具を色々入れてきた荷物用の麻袋に運び易い様に少し木の実を移していると、タマモが前脚で裾を引っ張ってきた。
「なに?」
「あのくま、こっちみてる」
タマモが指す方を見ると、離れた所にいる熊が一匹こちらを―――正確にはブナの実がたっぷり入った麻袋を―――見ていた。
背筋が冷える。これはまずい。ブツの取引現場を見られた。早いとこズラからないと押収されてしまう。
急いで麻袋を担いで撤収準備。来て早々で名残惜しいがコロポックル達に別れを告げる。
「ありがとう、助かった。熊が見てるからもういくよ。来年もよろしく」
「もういくのか」
「うん、せっかく貰った木の実を取られたくないし。あ、熊の足止めできたりしない?」
「くまは、つよい。でも、少しならできる。セカイジュの木の枝をおとして、ぶつけよう」
なるほど、木の枝爆撃か。百メートル以上の高さから落ちてくる枝を喰らえば熊だって昏倒ぐらいはするだろう。でも、
「それ、正確に狙って落とせる?」
「むり」
「じゃあ止めといて。誤爆されたら私死んじゃう」
落下物に圧し潰されて脳みそボーンは御免こうむる。
コロポックルに別れを告げ、タマモに攪乱を任せ、熊を刺激しない程度の早足で脱出開始。熊は上手く目の前でぴょんぴょん飛び回るタマモに気を取られてくれた。
他の熊もタマモの威嚇や止めてと言ったのに強行したコロポックルの木の枝爆撃の援護でかわし(熊にも私にも命中しなかったが、驚いた熊は泡を食って逃げていった)、無事に熊の群れの中から脱出する事に成功する。
ああ疲れた。




