十五話 洪水
三年目の春の雪解けは遅かった。冬に大雪が続いたため、山の陰の雪はいつまでも消えずに残った。体感的には二、三週間ほど冬が長引いた感じだ。食料の備蓄はギリギリで、フキノトウが出るのがもう一週間遅かったら餓死者が出ていたと思う。
しかし雪解け以外のスタートは二年目とあまり変わらない。
去年から毎日ずっとタマモに血を飲ませているのに何の変化もないし……というか子狐のまま成長していないのはなんでだろう。血に不老効果があるのか、それとも二尾になった時点で不老になったのか。一度血をあげるのをやめればどちらなのかはっきりするけど、子狐の方が食費がかからないし、御しやすいし、血をあげるのをやめた途端に一気に老衰で死なれでもしたら困る。何より成長してしまったら膝に乗せる時の乗せ心地が悪くなる。
本人もいつまで経っても子狐のまま、という事を気にしている様子はないし、私も血をあげるのに慣れた。特に問題はない。
白熱する独楽ブームが変わらないのはもちろん、地味に続けている衛生改善にも目立った変化はない。
一年以上続けていると真面目にやる奴とやらない奴に分かれてくる。つまり隙あらば手洗いうがい・再加熱をサボろうとする奴、見てなくてもしっかりやる奴だ。
特に十二~五歳ぐらいの子供は不真面目というか、再三しつこく言い聞かせるのが気に入らないらしく、最近ではチッウッセーナ反省してまーす、という態度になってきている。図らずも反抗期の子供を持つママさんパパさん達の気持ちが分かってしまった。イラッときて叱ってしまいたくなるけど、叱ればますます反抗的になるから叱るわけにはいかず、かといって叱らないとますます図に乗ってしまうジレンマ。
衛生概念の効果を実感しにくい、というのもイマイチ習慣付けが広まらない原因の一つだと思う。
風邪や腹痛の発生率の統計をとってみたところ、普及前と比べて五分の一~六分の一という劇的な減少を示しているのだが、風邪や腹痛を宝珠で治しているせいか、どうも「風邪や腹痛が減ったのは宝珠のおかげ」と思っているらしい。
そう考えたくなるのも分かるが、私にしてみればたまったもんじゃない。お医者さんごっこも慣れてくると使命感や達成感も薄れ面倒くささが増してきて、治療に呼ばれるたびに「またか」と思う。往診は少ないほど助かる。
一度宝珠の治療を休止すれば衛生概念の効果を実感してくれるだろうけど、今更宝珠治療やめます宣言をしたら大顰蹙だし、何より宝珠治療を辞めて死なれでもしたら寝覚めが悪すぎる。
まあ……事あるごとに思っている事だが、時間が解決してくれると思いたい。まだ慌てる時間じゃない。緊急案件でもないし。
山陰にも雪を見かけなくなった頃、梅雨入りした。今年は去年一昨年よりも目に見えて雨量が多かった。連日の大雨であっという間に集落を縦断する小道は泥の小川のようになり、室内に水が流れ込んだり雨漏りをしたりする家も出てきた。一度雨脚が遠ざかり、ちょっと晴れてきたかな、と思ったらますます激しく降りだし、薪は湿って燃えにくく、備蓄も目減りしていく。晴れの日でもぬかるみに足をとられて転ぶ者は多かった。
雨のせいで外出できないタマモは構ってやらないとすぐに不機嫌になるようになった。湿気を吸って絞った濡れ雑巾のようになった尻尾を火のそばで乾かし、木で作った櫛で梳いてやるだけで三時間ぐらい潰れたりした。私も暇だったからいいんだけども。
ところが雨は一向に止む気配が無く、日が経つにつれて暇を持てあますどころの話ではなくなってきた。
ある日、河の様子を見に行った私はその濁流に愕然とした。風呂は水と薪をたくさん使うから、数日に一度だけ河に風呂に入りに来ていたのだが(普段は湯につけた布で拭うだけ)、河原の風呂場は濁流に飲まれて水底に沈んでいる。ゴウゴウと唸りをあげる茶色く濁った川の水は土手を完全に浸食し、河原どころか河と森の境界にある草地を全て飲み込んでしまっていた。
お供についてきたタマモが興味津々といった様子でふらふら河に近づいていったので、慌てて捕まえて抱きかかえた。
「こら、死ぬ気かお前は」
「くぉん?」
人に慣れて野生の勘も鈍ってきたのか、タマモが危機感の無い鳴き声を上げて腕の中から私を見上げる。タマモの年齢だと洪水を経験した事はないだろうけど、あれを見ればヤバさは分かりそうなものだ。文字通りの流「木」が流れてるし。根こそぎですか。水の力怖いです。
水害、旱魃、地震、蝗害。現代ですら人類を悩ませている自然災害に百人にも満たない縄文人が抵抗できる訳がない。治水工事のちの字もないこの時代、洪水が来たら何もできずに一発アウト。
集落は河から離れてるし大丈夫、と、思いたいけど、高さはあんまりないから本格的な洪水になったらまずいかも知れない。
一応避難の準備だけはしておこうと、私は風呂を諦めて集落に戻った。
集落に戻って避難の荷造りを進める。深鍋、壺、深皿の宝器セットに燻した魚、日持ちする野草、芋、麻紐、磨製石器、発火装置を詰め、木の蓋を嵌めて湿気ないようにしておく。宝珠は頑丈に作った麻袋に入れ、肩からナナメにかけられるようにした。
荷造りを終え、縄文人達にも河の様子を伝えて避難勧告をしておこうと雨の中を小走りに他の家を尋ねる。
洪水の警告をするだけの簡単なお仕事。そう思っていた時期が私にもありました。最初のテキワセの家で早くも躓く。
「ヒナン?」
「あ、わかんないか。えーと、あぶないところから逃げるの」
「ふむ? ……それで、なんで荷造りをするんだ?」
「え、だって逃げるから荷物持たないと、逃げた先で困るでしょ?」
「え?」
「え?」
不思議そうな顔をされた。あれれー。話が通じてないぞ? そんなに難しい事は言ってないと思うんだけど。
「逃げて、それから戻らないのか?」
「戻れないの。家が流されたら一切合財なくなるんだから」
「ふはっ! 何を馬鹿な。家が流されるものか。だって家だぞ? 流木じゃないんだぞ」
笑われた。おお、危機感が全然ない! いやまあ、私だってネットで洪水の動画見てなかったら家が流されるなんて嘘臭いと思っただろうけど。現代建築物が流されるのに縄文建築物が流されないわけがない。とはいえそれを説明しても分かって貰える気がしない。
「そもそも逃げるというが、どこに逃げるんだ?」
「あっ……えーと、や、山の方に?」
「雨の日の山は危ないぞ」
「あー」
崖崩れとか土砂崩れとか怖いもんね。土に埋まって窒息死するのは一回で十分だ。四回ぐらい体験したけど。
えー、洪水の危険あり→高い場所に逃げなければならない→高い場所と言えば山しかない→洪水は危険だが山も危険→逃げ場がない→集落は滅亡する→な、なんだってー!
ぐぬぬ。これはもう駄目かもわからんね。座して待っても逃げても危険な事に変わりはない。山の方が比較的安全そうだから私だったら逃げるけど、移動するのも危険だし、移動先に雨風をしのげる壁と屋根が無いのは痛い。
逃げても無駄かも知れない。逃げたせいで死ぬかも知れない。ふむ。
「ごめんやっぱ避難は無しで」
「うむ。雨の日は家で大人しくしているのが一番だ。なあに、そのうち晴れる。毎年晴れるからな」
「だといいんだけどね」
問題はいつ晴れるか、という部分な訳で。もう三日ぐらい雨が続いたら私は避難しておこう。
三日も待つと思った? 残念、二日で手遅れでした!
避難勧告未遂から二日後、集落の全ての家が浸水した。
タテ穴式住居は地面を掘ってそこに屋根を被せた構造になっているから、一度浸水すると居住場所が池のようになる。
もちろん家の周りに土を盛って水が入ってこないようにしてあるが、決壊したり単純に水位が土手を超えたりすると為す術はない。
河から離れてはいるが海抜は低いらしく、集落の家が浸水したというよりも集落がちょっとした池になったと表現した方が正しい。脛までの高さの水面が広がっている。
集落の住民達は誰もこれほどの大洪水は体験した事が無いらしく、泡をくって家の周りに土塁を追加で盛ったり、必死に家の中の水をかき出そうとしたりと無駄な努力をしていた。
わあわあと右往左往する縄文人達を横目に、私はタマモを襟巻のように肩につかまらせて家の外に出た。気休め程度の雨風対策として蓑を着こみ、肩には宝珠入りの麻袋を下げ、同じく麻袋に入れた宝器セットを抱え持つ。日記は名残惜しいが置いていく。荷物を増やしたくない。
雨で霞む森の向こうにある山を目指してさあ行こう、というところでハンガラに呼び止められた。
「アマテラス、こんな時にどこに行く?」
「避難しに……って言っても分からないんだったか。ここは危ないから、水がこない高いところ、つまり山に行く」
「山! そういう手もあるのか! そうだ、確かに溺れるぐらいなら山に行った方がいいな」
あ、あれ? なんだか肯定的。
ハンガラは一人でうんうん頷くと、すぐに家族を呼んで山に行く算段を立て始めた。それを見た他の住民達がわらわら群がってきて、全員で相談し始める。
「ばかっ! 森でもこんなに危ないんだ、山はもっと危ないに決まっとろうが!」
「でも水はないぞ」
「食べ物もないじゃないか」
「採ればいいだろう?」
「雨の中で食べ物探すの?」
「山には家がないぞ」
「作れよ」
「雨の中で? ばか言うな」
「おかーさん、おなかすいたー」
「そうだ、子供もいるんだ。雨の中を山まで移動なんてできんぞ」
話はまとまらず、まだ長引きそうだったのでそっと先に山に行こうとすると、テキワセに首を掴んで止められた。ぐぇえ。
「アマテラスが言うには、そのうち家も水で流されるらしいぞ」
驚きだったり、冗談だと思ったのか苦笑いだったり、困惑だったり、いろいろな視線が私に集まる。こっち見んな。
目線の集中に落ち着かない気分でそわそわしていると、ヨイヨイが真剣な目をして聞いてきた。
「アマテラスはどう思う? 山に逃げた方がいい?」
「……残りたい人は残って、山に行きたい人は行けばいいんじゃないの?」
別に今世の別れというわけでもないんだから。私は念のために避難しておくだけで、洪水が引いたらここに戻る。逆に言えば洪水が続く内は戻らないという事でもあるが。水浸しの森で生きるのは数日でも難しい。
洪水が長引くと踏んで危険を覚悟で山に逃げるか。すぐに収まると踏んで集落に残りチキンレースをするか。どちらが正しいとは一概には言えない。
「でもアマテラスは山に行くんだよね?」
「私はね」
「どうして?」
「そっちのが安全だと思うから」
「んんん……」
私の言葉を聞いて悩み始めるヨイヨイとその他大勢。アマテラスに着いていけば宝珠の治療が受けられるとか、家が水で流されるなんて嘘くさいとか、ぐるぐると同じような事で悩んでいるのが手に取るようにわかる。
これ答えが出るまで待ってないとだめかな。私はこれ以上洪水が酷くなる前にさっさと山に行きたいんだけど。
「お、おい、見ろ!」
縄文人達の躊躇いはハンガラの上げた叫び声で終わった。ハンガラが震える手で指す方向を見ると、アレメの家がゆっくりと浮き上がり、バラバラに崩れながら流されていった。
沈黙が降りる。全員が同じ方向を見て口を半開きにして、信じられないものを見た、という顔で固まっていた。
「山に逃げる人、手を上げて」
いつまでも固まっているので業を煮やして声をかけると、全員が手を挙げた。
避難準備は思ったよりも迅速に行われた。サバイバルの達人はナイフ一本を持って山籠もりをするという。縄文人は人生がサバイバルみたいなものだから、持ち物は石器もしくは槍、少し食べ物を入れた土器ぐらいしかない。ちなみに独楽は全員持っていた。そりゃ荷物になるほどのものでもないけどさ。ちょっと病的だと思う。それほど娯楽に飢えているのか。
なぜか私の先導で集落を出発し、横殴りの風雨に打たれながら山へ向かう。蓑の隙間から容赦なく水が染み込み、ずっしりと重くなった。かといって脱ぎ捨てると冷たい雨と風をモロに受けてしまう。後ろを振り返ると縄文人達も大変そうだった。唸る風の音で声を伝えるだけでも一苦労だ。
水に沈んだ落ち葉の地面は歩くだけでも大変で、踏み出すたびに沈み込む足と前進する際の水の抵抗でガンガン体力が奪われる。
小型のイカダでも作って曳いていった方が楽かも知れない。でも作る手間を考えると歩いていった方が多分早く山に着く。そういえば現代では洪水用の備えにボードがあった。用意しておけばよかった。
風雨はますます酷くなり、手でひさしを作らないとまともに前が見えなくなってきた。これは確実に台風だ。早く落ち着くところに落ちつかないと全滅しかねない。でもその前に山までたどり着けるか怪しくなってきた。
私は何度目かの確認のために後ろを振り返る。
「おーい、しっかり着いて来、て、ないね?」
背後には誰もいなかった。激しい風雨を受けて枝葉を散らし大きくしなる木があるだけで、人っ子一人いやしない。
「…………」
はぐれたァァァァァ!
まっすぐ歩いてただけなのにはぐれた!
いや、本当にまっすぐ歩いていたのか? 大風でよろめいたり、頭を低くして下を向いて歩いたりしたから、とっくに山の方角から外れていたかも知れない。雨が酷過ぎて、どちらを向いても山は影も形も見えない。
はぐれた上に迷った。やばいやばいやばいやばい。
「そ、そうだ! タマモ! 臭いでみんなを探して!」
「ふんふん……わひゅっ! きゅーん」
肩に掴まったタマモは鼻をひくつかせ、くしゃみをするとふるふる首を横に振った。いかん、雨と風が酷過ぎてタマモの鼻も役に立たない。
迷った時は動かないのが原則。でもこの状態でじっとしていたら死ぬ気がしてならない。目的地は山なんだから、山に行けば合流できるだろうけど、その山の方角が分からない上に、山といっても広いから合流できない可能性もある。
暴風雨の中で呆然と立ち往生する。もう集落への帰り道も分からなくなっていた。どないせえと。
迷っていると目の前で立ち枯れた古木が風に倒され、私の方に倒れ込んできた。慌てて横に避け、ばしゃんと水しぶきを立ててぷかりと浮いたそれにとりあえず捕まる。私では両手を回せないほど太い幹の古木にはかなり大きなウロがあったので、そこに荷物を詰めておいた。タマモもウロの方が居心地よしと判断したのか、ぴょんと跳んで勝手に移住した。
強行軍で体力も底を尽きかけてきたところだ。しばらく古木に掴まって休憩する事にする。
宝器から燻製魚を出し、タマモと半分こして齧りながら景色を眺める。古木はゆっくりと水に流され、景色も動いていく。森の木々には枝葉を折られたり飛ばれたりして半分ぐらいハゲているものも多かった。しかも現在進行形で被害は拡大している。
台風なら一日もあれば通り過ぎる。何をするにしてもまずは暴風雨が収まらない事にはどうしようもない。私は古木を借宿にして台風が通り過ぎるのを待つ事にした。
古木にべったりとへばりつき、雨風をしのぐ事一時間ほど。すでに体は冷え切り、力が入らない。幸いピークは過ぎたのか風雨は弱まってきているものの、このペースだと衰弱死の方が早そうだった。衰弱死。あんまり苦しくない死に方だ。その代わりにすごく惨めで暗い気分になる。
暗澹たる気分でじっと台風が過ぎるのを待っていると、急に景色が早く流れ始めた。どうしたんだろうと思っている内にどんどん水かさが増していき、遠くから茶色い濁流がうねりながら押し寄せてくるのが見えた。
「鉄砲水!?」
ここにきて大自然の猛威が私を完全に殺しにきた。いつの間にか河の近くまで流されてきていたらしい。
近くの太くて高い木に飛び移って登れば回避できるかも知れない。急いでウロから荷物とタマモを引っ張りだし、抱え込んで振り返ると、すでに古木は完全に水の流れに乗って物凄い勢いで流されていた。ここから飛び移ろうとしたら確実に水に落ちる。失敗した! 荷物なんて放っておいて、タマモだけ抱えて逃げればよかった。それでも間に合ったか疑わしいが。
古木は鉄砲水に翻弄され、ぐるぐる回って森の木々に衝突しながら流されていく。私はウロに半分体を押し込み、古木の幹に遮二無二つかまった。
途中で何度も古木が上下逆さにひっくり返り、水中で何分も幹に張り付く事になったが、何度も窒息死して耐性を得ていたおかげで溺れずにすむ。
隙を見て麻紐で幹に体を縛り付け、段々と弱ってくる腕力を振り絞り、ただただ力のかぎり必死に古木にしがみつく。もう縄文人との合流は無理だ。文字通り状況に流されていくしかない。
私は海に出る前に陸地のどこかに引っかかる事を一心に祈りながら、下流へ流されていった。