雨のショベル
ひとりの男が小雨にぬれて、和菓子の店へはいって行った。きれいに磨かれたガラスケースには、柿や柚子、栗などをふんだんに使った、いろんな種類の甘いお菓子が並べてある。色とりどりにデザインが工夫されていて、見ているだけで口に生唾がたまってきそうだ。
かれは、うつろな目で店内をざっと見わたした。髪のうすい、五十すぎの、ずんぐりした男で、日焼けした四角い顔に、しらがまじりの口髭がのびほうだいだった。ファッションというにはお粗末すぎる、うす汚れた黒いズボンに、すりきれた古い作業靴。手荷物は、茶色い、くたびれたショルダーバッグひとつ。
「いらっしゃいませ」
女店員は、いくらか小首をかしげて、注文を待っていた。すると、かれは、いきなりチェックの上着の内側から小型の包丁をとりだして、右手にちらつかせた。そして、かすれぎみのしゃがれ声でいった。
「腹がへってる。酒をくれ」
胸に高橋の名札をつけているその女店員は、すぐに事情をのみこみ、落ち着いて応対した。ワインならございますけど、と適当にごまかしながらレジから二千円札を一枚とりだした。それから近くにあったまんじゅうを一個、押しやって控えめにたずねた。
「お包みいたしましょうか」
かれは彼女をにらみつけ、ふいに目をあかくした。ごっつい手は小刻みにふるえていた。すばやく二千円札を上着のポケットにおさめ、それから、ちょっとためらってから、そのまんじゅうをつかんで、あとずさりした。
調理場のふたりの女性従業員が目配せしあい、ひとりがそーっと非常用のボタンに近づいた。
うしろで自動ドアがあいた。かれは、ぎくりとして、ふりむいた。だれもいなかった。自分自身の足がセンサーにかかっていただけだった。あわてて包丁をしまった。そうして外へ出ると、足ばやに歩道を北へ向かった。
肌寒い三月なかばの月曜日、午後三時すぎのことだった。
かれはすぐに裏道へはいった。教会のうらに公園があった。パーゴラの屋根に蔦がからんで青葉もおい茂っていた。
そこは小雨ていどならぬれずにすむ場所だった。かれはそのつめたいベンチに腰をおろして、まんじゅうを口へいれた。わき目もふらず、空腹に耐えかねた、あさましい食べ方だった。
かるくむせたあと、花壇のわきにある蛇口にくちをつけて、水をがぶ飲みした。息をとめて、しつように飲んだ。それから、ふうっと大きく息をした。そして胸もとをぬらしたまま、ふらふらとフェンスぞいの路地をぬけて行った。
郊外の大型店の広い駐車場へ出た。すみのほうに数台ばかりの車がとめてあった。ちょうど買い物をすませた中年の女性がひとりやってきた。
彼女はキーでランドクルーザーのドアをあけ、頭をかがめてうしろの席へ一抱えの袋をおろすと、エンジンをかけた。
かれは近づいて、助手席側の窓ガラスをかるくノックした。パワーウインドーがすーっとおりた。彼女が訊いた。
「なんでしょう」
かれはすばやくドアロックをはずして、助手席へのりこんだ。
「警察を呼びますよ?」
彼女は顔色を変え、おずおずと左脇を見下ろした。
「奥さん、西へ行ってくれる?」
彼女は命じられるままにハンドルをさばいた。市役所のまえを通って、駅前通りの交差点をよこぎった。文化センターの建物が左後ろへと消えて行った。
かれが訊ねた。
「宝くじ、あたったことある?」
彼女は、あいまいに首をふった。
「おれも、ない。今回も、見事にはずれ。おかげで無一文。今夜、泊まるあてもない」
それからかれは二千円札をだして、彼女の太腿のうえに置いた。
「やるよ。乗車賃だ。こんなもんじゃ自販機でカンチューハイも買えやしない」
ダッシュボードのデジタル時計は、午後三時四十分だった。中央自動車道に沿って旧国道を走っていた。前方に工事現場が見えてきた。作業員たちが大地震にそなえて橋脚を補強していた。
そのとき、かれは、しかめっつらで、ささやくような声をだした。
「止めろ。あれを見ろ」
三十メートルほど前方の右手で、仮設道路ののり面が崩れて、一台のパワーショベルがやや傾きつつあった。そのアームの真下に作業員がひとりいた。その作業員は、何も知らずに作業をしている様子だった。
彼女はいわれるままに車を止めた。いくらか乱暴に急停止したので、男はまえへつんのめり、かるくフロントガラスに額をぶつけた。そのすきに、彼女は運転席から飛び出した。
ちょっとまえから赤い旋回灯がサイドミラーに写っていた。パトカーはすぐにきた。ひゅうと一回うなってランドクルーザーの前へまわりこんだ。
ふたりの制服警官が拳銃に手をかけて、左右から迫った。
「よし。両手をあげて、外へ出ろ」
かれは命じられるままに、包丁を投げだして、路上へ降り立ち、ボンネットに両手をついた。なんの抵抗もしない。あっけない逮捕劇だった。
警官のひとりが無線機で報告した。
「和菓子店の強盗事件で緊急配備中、工事現場付近の路上で、犯人と着衣や人相の似た男を発見しました。男はシマイと名のっています。任意同行を求めます」
その間も、かれは首を曲げ、パワーショベルのほうをにらみつけていた。そして、ふしぎなことをいった。
「おまわりさん、あのパワーショベル、傾いてる。あの下で働いてるひと、危ないよ。いまに倒れて大変なことになる」
警官は聞く耳を持たなかった。ややあって、男がいったとおり、パワーショベルが泥まみれのキャタピラーを跳ねあげて、土砂の斜面に沈んだ。ほとんど同時に、パトカーは方向転換して、工事現場をあとに走りさっていた。
警察署の取り調べ室は暖房がよくきいていた。そこで、かれは、あっさり強盗容疑を認めた。そうして、しきりに工事現場のことを知りたがった。
「あの作業員、どうなりました?」
「作業員?」
ふたりの署員は、ちらっと顔を見あわせた。
「あのとき、おれには、わかったんですよ」
と、かれはうつむき加減にいった。かれは自分のことより、パワーショベルの事故にこだわっていた。
「パワーショベルの傾きも、作業員の位置も、あのときとそっくりでした。大声で、逃げろと一声、叫ぶべきでした。職務怠慢とそしられてもしかたがない。そうやって、おれは同僚を殺しちまったんだ。あのときと、なにもかも同じ光景でした」
「ショベルカーの事故のことか?」
と窓ぎわの署員が訊ねた。
「あんた、現場監督なの」
かれはあいまいにうなずいて、顔をしかめた。
「ちょっとまえまで……」
「そうか」
「で、あの作業員、どうなりました?」
「病院へ運ばれたよ」
「肺挫傷?」
「よく知ってるな」
「あのショベルの尖端で背中をえぐられたんだね」
「首の骨もやられたらしい」
一同、ひとりずつ軽くうなずいた。
「あのときと、おんなじだ」
かれは、ちからなく苦笑した。
「シマイさんの知り合いだったの?」
と、もうひとりの署員が興味深げに訊ねた。
「いいえ」
「だったら、なんでそうこだわる」
「べつに」
「逃げる機会がいくらでもあったのに、あの工事現場を気にしていたそうだな」
かれは憮然と押し黙った。しばらくそうして何か考えていた。やがて、もどかしげに手をふるわせながら答えた。
「パワーショベルが不自然に傾いてたからですよ。それを、おまわりさんに教えてやったのに、無視されました。避けられた事故ですよ」
その署員は、これを聞いて、きっぱりといった。
「警察官には事故を未然に防ぐ義務はない」
「せっかく教えてやったのに」
「そんな予知能力があるんなら占い師でもやったらどうだ?」
「腹がへって、酒をのみたかった」
「だったら酒屋へ押し入りゃいいのに」
「こともあろうに、警察のかたが強盗をおすすめになるんですか」
「男手のない店をねらったんだろ」
そんな問答のうちに、取り調べはおわった。
「しゃんとすれば、いい男なのに、アル中なのか」
「飲まずにいられないんですよ。同僚を殺しちまったもんで……定年まじかで、寮に住み込みで働いておられた、とてもいい人でした」
「事故は、しょうがないだろ」
「おれにはもう現場監督の資格はありません。パワーショベルは、もうこりごりだ。見るだけで気持ち悪くなる。あのうなり、あの怪力、あの重量、考えるだけで、おそろしくなる……」
「よし、からだに異常がなければ、二、三日泊まっていってもらう」
かれは二人の署員につきそわれて、廊下をあるいて行った。気ぜわしい靴の響きのうちにも、みじかいやりとりがあった。
「あのおまわりさんがあの作業員を見殺しにしたようなもんですよ」
「不服があるなら、弁護士をたてて訴訟を起こせばいい。堂々と裁判でやりあおう」
「パワーショベルが危ないって、おれが教えてやったのに、あの二人は何もしなかった」
「かれらは職務を忠実に果たしてる」
「どうですかね」
「強盗のくせに、なまいきだぞ」
鉄格子のドアに錠をかけた署員が、とうとう怒鳴りつけた。
「ここで頭を冷やして、よく反省しろ」
翌朝、かれは留置場のなかで、首の骨を折って死んでいた。




