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死神少女1.5

作者: パパSE

死神少女1.5

~ ヒトが十進数なら、タコは八進数? ~


 シュリニヴァーサ・ラマヌジャンというインドの数学者を知っているだろうか?稀代の天才にして、「インドの魔術師」と呼ばれた数学者だ。彼が天才と呼ばれる理由は、彼が数学の公式を発見する方法が常人では理解できないところにある。ラマヌジャンは人に、「どうやって数学の公式を発見したのか」と問われると、こう答えたそうだ。「インドの女神が、私の舌に舞い降りてその式を書いてくれるのです」と。

 まさにその話を象徴するような逸話がある。

 親しい数学者がラマヌジャンに会いに来た時、「乗ったタクシーのナンバーが1729とつまらない数字だった」と彼に言った。それを聞いたラマヌジャンはすぐに飛び起き、「それは素晴らしい数です。2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数ですよ」と答えたのだ。

 この話には諸説ある。

 彼がその一瞬でその計算をした、という説。この場合は彼の計算能力の高さを示している。もう一つは、彼が事前にその数字の事を知っていたという説。この場合であっても、彼が星の数ほど存在する数字一つ一つの特徴を理解していることを示している。

 どちらにしても、彼が奇特な、しかし優れた能力を持った人間であったことは確かだった。ただ、その奇特さ故に多くの人には理解されずに終わり、彼の多くの功績は後代の人々によって証明されたモノがその殆どである。

「偉大な功績なんていいから、どういう勉強をしたら、もしくはどういう教育を受けたら彼のようになれるのか、それを早く証明してもらえたら助かるんだけどね」

 野沢がその話をテレビ番組の特集で見た時、一番に最初に思った事はそれだった。

 小学校で教師をしている野沢が数学を子供たちに教える事は無かったが、その前身である算数を四苦八苦しながら教えている。

 自分が普通に理解できている物を人に、しかも子供に教えるという事はとても大変な事だった。「1+1=2」を教えるのにも一苦労する。大人から見たら普通の事も、子供から見たら不思議で仕方がない。「なぜ1+1=2なんですか?」と聞かれ、どう答えるか。「リンゴが1個あって、もう1個リンゴを買ったら2個でしょ?」そう答えたとしても、子供は「泥団子が1個あって、もう1個作って合体させたら1個ですよ」と、屁理屈のようなことで返してきたりする。野沢はその時、「個数が1個になっても、重さは2個分になったんじゃないのかな?」と答えてあげた。その時はそれで納得をしてくれたが、いつもそういう機転や工夫ができる訳ではない。ラマヌジャンが女神に答えを教えて貰えた様に、子供たちに一瞬にして算数とは何かを伝える方法があればいいのにと、考えてしまうのはごく普通の事だった。特に、放課後に生徒を呼び出して一対一の補講をしている時など、そう思わずにはいられない。

「さんご?」

 野沢は目の前にいる生徒に聞く。九九だ。3の段の5つ目、さんごじゅうご。職員室の隅で、野沢は九九の補講をしているのだ。もうすでに日も暮れかけ、野沢以外の教員は一人しかいない。野沢よりも先輩の職員で、たぶん気を遣って待ってくれているのだと思うが、逆に焦ってしまい出来ない生徒に怒鳴ってしまいそうになる。もちろん、邪険にする事も出来ず、なるべく気にしないようにしているが、どうしても気になってしまう。

「さんごっ?」

 補講を受けている生徒が答えないので再度聞いた。その職員の事もあり、少し怒気が含まれてしまったかも知れない。今度は少し生徒の口が動くのが見えた。

「…ご…、ごじゅう…?」

「はぁ…守岡ぁ…。逆、15だよ」

 そう答えつつも、「逆ってなんだろう」と思った。ただ、生徒の守岡が間違った答えを言ったのは確かだった。

 もう何度目だろう。

 九九表を渡して何回も声を出せて読ませたが、いざ表を裏返して見えないようにして「じゃぁ、しは?」と聞いてみると守岡は「さんじゅう」と、間違えて答えるのだ。「九九の出来ない子」クラスメイトからもそう呼ばれてしまっている。社会に出てラマヌジャンが解いた公式が出来なくても困る事はないと思うが、九九が出来なければ確実に困るだろう。野沢はそう思って守岡に特別授業をこの二日間行っていた。保護者には昨日の内に電話してある。事情を説明すると母親は申し訳なさそうに補講をお願いしてきた。最近ニュースを騒がせているようなモンスターペアレンツではなかったので安心して補講を行う事ができたが、その成果は残念な事に目には見えなかった。

 彼は特に勉強が出来ない生徒でも、何か問題がある生徒でもなかった。むしろ、優秀な生徒だったと思える。算数も苦手という事はなく、本人も「国語よりも算数が好きだ」と言っていた。しかしそれが、九九に入った途端、一気に出来なくなってしまったのだ。今まで出来ていたのが急に出来なくなったので、補講をする事を保護者に電話した時、最近家庭で何かなかったのか聞いてしまったぐらいだ。

「わかった、守岡」

 守岡がうつむいたままなのを見て、野沢はもう今日は無理だと思った。

「その九九表を持って帰って家でもう10回ほど読むんだ。声を出してね」

 そう言って立ち上がる。保護者に電話をしなければならない。今から家に帰らせます、と。しかし、野沢が立ち上がっても守岡は動こうとはしなかった。

「どうした?」

 気を遣いながら守岡の隣に屈み、うつむいたままの顔をのぞき込んで聞いてみる。

「先生?」

 泣きながら補講を続けていたため、しゃがれてしまった声で守岡が言ってきた。

「ん?」

「これって算数の勉強ですか?」

 何を当たり前の事を…。

 思わずそう言いそうになって慌てて口を塞いだ。そして、未だに泣き止まず目を真っ赤にして涙を流している子供の頭に手を置き、「そうだよ。大事な、大事な算数の勉強さ。でも今日はもうおしまいにしよう。頑張り過ぎても仕方がないからね」そう言って椅子から立ち上がらせる。可能な限り見送ろうと思い、下駄箱まで一緒に行った。その間も守岡はうつむいていたが、先生の手をギュッと握り続けていた。そして、靴に履き替えるとそのまま自分の家に帰っていった。

 こうなると、明日もちゃんと来てくれる事を祈るしかない。

 職員室に戻ると先ほどの職員がまだいて、野沢を出迎えてくれた。

「九九を教えるのにだいぶ苦労しているな」

 それを聞いて思わず苦笑いしてしまう。

「何かいい方法ありますかね?」

「さぁ、丸暗記させてしまうのが一番だと思うけどね、九九表を…」

「そうさせているつもりですけど…」

 そう言って、守岡が九九表を置いて行ってしまった事に気付いた。もしかしてあれは九九表を持って帰りたくないから、わざと泣いて見せていたのかも知れないと思いつつ、どっちにしても家に帰れば保護者が作って練習させるだろうと決めつけ、特に気にしないことにした。それに、生徒を疑うのはあまり良くないだろうとも思ったのだ。

 野沢は保護者に電話し、九九表の事は言わずに今さっき学校を出て帰った事だけを伝えた。母親は何度も「お手間を掛けさせてすいません」と言い、電話越しで頭をさげてくれている様だったが、こちらも先輩職員を待たせているので早々に電話を切ってしまった。

「お前、ちょっと甘いんじゃないのか?」

「え?」

 電話を切ると、待っていてくれた職員がそう言ってきた。

「いや、暗記の話だよ。九九表を声を出させて読ませるのはいいけど、その後、見ないで1の段から一通り読ませないとさ」

「ああ」

 野沢はそう言われて軽く相槌を打った。実は昨日はそうやっていた。自分もそうやって覚えさせられたからだ。しかし、それでも守岡は間違えるのだ。昨日は先輩職員は待ってはくれていなかったので、その事を知らない。間違える度に指導していては時間がかかると思い、今日は昨日間違えた所を重点的にやっていただけだった。

「まさか、それを指摘するために残ってくださっていたんですか?」

 それだったら明日でもいいのにと思う。

「いや…」

 しかし先輩職員の返事は違っていた。

「いや、そうじゃないよ。もうすぐお前の誕生日だろ。だから職員でお祝いをやろうって話してたんだ」

「えっ?」

 聞いて驚いた。

 職員が自分のためにお祝いをしてくれる準備をしてくれている事もだが、何よりも自分がもうすぐ誕生日だという事をすっかり忘れていたのだ。先生という仕事は曜日感覚はしっかり保つ事は出来ても、日付の感覚は少しズレてしまう。一年などあっと言う間だった。

「明後日だろ? 誕生日はさ。でもこのまま行ったらあの生徒の補講を誕生日もやってそうだから、ちゃんと伝えておこうと思ってね」

 なるほど、誕生日は空けておけという事らしい。

 もちろん、自分の誕生日まで残業はしたいとは思わない。ただあと二日で守岡が九九を出来る様になる保証はどこにもないとも思えた。

「あ、ありがとうございます」

「まぁ、そういう事だから。頑張れよ」

 野沢の返答を、了承の意だと解釈したらしい。先輩職員は笑顔でそう言うと、荷物を持ってさっさと職員室を出て行ってしまった。

 職員室に残った野沢は誕生日を忘れていた自分に呆れると同時に、たかだか誕生日を空けておくように伝えるために残っていた先輩職員に呆れていた。

「やっぱり明日言えばいい内容じゃん」

 そう呟いた瞬間、ガラッと音を立ててドアが開いたので飛び上がってしまう。先ほどの職員が戻って来たのだ。

「ど、どうしたんですか? 忘れ物ですか?」

 今、自分が言ったことが聞こえてしまったのではないかとビクビクしながら聞いてみる。「いやさ…」

 しかしどうやら野沢のぼやきは聞こえていなかった様だった。

「お前、いくつになるの?」

 と、笑顔で聞いてくる。そして、「ケーキのロウソク買うのに」と続けて説明してくれた。

 野沢は聞こえていなかった事に胸をなでおろし、そして、

「今年で32になります」

 と答えた。

 別にサバ読む必要もなかったし、先輩を否定するような事を言った後ろめたさから正直に言った。

「そっか。分かった。それじゃ、気をつけて帰れよ」

 先輩職員はそう言って教室を出て行った。

 残された野沢は、今度はしっかりと足音が遠ざかっていくのを待った。そして、完全に足音が聞こえなくなってから、ため息を一つついた。

「まさか30も過ぎてからケーキにロウソクを立てて貰う事になるとはな…」

 野沢はそう思わず呟く。

 うれしいというよりも、恥ずかしいと思う方が強い。きっと、みんながカメラを構えている中でロウソク消しをやらされるに決まっている。

「って、もうこんな時間か、早く帰らないと」

 窓の外を見てみると、日が完全に沈もうとしていいた。慌てて自分も帰ろうと荷物をまとめ始める。守岡が忘れていった九九表は自分のデスクの引き出しにしまった。たぶん、明日も補講で使う事になるだろう。

「いや、明日だけじゃなくって明後日も、かな」

 守岡の九九が出来ないのは一筋縄では行きそうになかった。他の職員たちには悪いが明後日も間違いなく補講をやることになるだろう。

 そう、32歳の誕生日にも。

「32…か」

 彼がそう呟くと同時に日が完全に沈んだ。あたりが急に暗くなる。そして、再び職員室のドアがガラッと音を立てて開いた。

 やはり思わず飛び上がってしまう。

 まさか二度もやられるとは…。

「どうしたんですか?今度こそ忘れ物ですか?」

 今度はさすがに怒りを込め、振り返りながら言った。いや、言いたかった。振り返った先にいる人物を見て、野沢は最後まで言うことが出来なかったのだ。言い終わる前に体が固まってしまった。

 先ほどの先輩ではなかった。

 当直の警備員でもない。

 職員室のドアの前に立っているのは「少女」だった。

 見たことのない少女だ。

 もちろん、ここは小学校である。たくさんの生徒がいるのだ。見たことのない少女がいても不思議ではない。

 しかし、野沢はその少女の目を見た瞬間、何故か金縛りにあった様に動けなくなってしまったのだ。頭の奥の方で警鐘が鳴っているのが聞こえる。

「久しぶりね」

 少女は野沢を笑顔で見つめながら言う。

 今まで聞いた事のない、綺麗な、それでいてどこか不気味な声…。

「あなたを迎えに来たわ」

 まるで抱擁をするかのように両手を広げてこちらに近付いてくる。

「む、迎え…?」

 ほとんど唇が動かない。喉から絞る様に声を出す。その声も、頭の中で鳴り響く警鐘のためにハッキリと聞こえない。

「あら、あたしの事を忘れたの?」

 少女は野沢の一歩手前で立ち止まると、まるで約束を忘れた恋人を叱る様に口をとがらせた。

「まぁ、18年も前の事だからね。仕方がないって言えば、仕方がないか」

 18年?

 そんな前ならこの少女は生まれていないだろう。どう見ても子供にしか見えない。

「あなたはね…」

 少女は野沢の疑問などお構いなく続ける。

「あなたはね、あたしと契約したのよ。32歳でその命を捧げるって」

「命を捧げる?」

「そうよ、あたしと契約したの」

 まるで口吻をするかのように頬に手を添えてくる。

「命を捧げると契約したの。あたしと…、死神と、ね」

 目の前に迫る少女の唇は血のように真っ赤だった。


「お母さん、コレをご覧になってください」

 担任の洋子はそう言いながら野沢の母親に一枚のプリントを渡した。すでに何時間も洋子に説教をされた野沢本人は、母親に自分が書いたプリントを渡されるのを阻止しようとは思わなかった。もちろん、そのプリントの所為で更に自分が説教をされることは分かっていたが、頑張って阻止したところで最終的には母親の手に渡ってしまうのは分かっていた。

 ここは職員室。

 しかし、先ほど野沢が九九の補講をやっていた職員室ではない。何よりも、野沢は今、中学生だった。自分が授業の時に書いたプリントが問題で、担任の洋子先生に呼び出しをされたのだ。そして、一向に反省する様子を見せない野沢を見て、家に電話をして母親まで呼び出したのだった。

「人生計画表…?」

 洋子が母親に渡したプリントは、家庭科の時間に書かされた人生計画表である。中学生の今から高校へと進み、その後どういう風に生きていくつもりなのかを書かされたのだ。

「大学へ行って、普通に就職する…。というところまではいいのですけど、その後を見てください」

「32歳で…自殺する?」

 母親は呆気にとられながらその計画表の半ばに書いてある言葉を読んだ。A3のプリントは100歳近くまで書けるようになっていたが、野沢が書いたのはその半分よりちょっと手前まで。そこには確かにこう書いてある、「32歳で自殺する」と。そして、残りは空白なのだ。

「いえ、お母さん。野沢君は誰よりも早く書き上げたので、しっかりと人生の計画を立てているのだと感心したのですが、実際に提出してもらったプリントを見せてもらったらこうなんですよ。もちろん、他の生徒も“何歳まで生きたい”と書いていますけど、まさか“自殺”することを計画に書くなんて!」

 もう信じられない。

 そう言いたそうに洋子は声を荒げて言う。

 自分の人生の計画だ。自分で好きに立てたてっていいじゃないか。

 野沢はそう思っていたが特に言わなかった。いや、母親が呼ばれるまではそう反論していたが、自分を生んでくれた母親の前で“自殺”したいと言うほどデリカシーに欠けているつもりは無かった。

「本当にすいません」

 母さんが謝ることないでしょ。

 そう思っても口には出せなかった。今度は気を使ったのではなく、また続けて洋子が色々と言い始めたので口を挟む事ができなかった。

 だいたい何故、母親が呼び出される必要があるのだろう。別にこのプリントの所為で誰かが迷惑をこうむった訳でもない。ただ、普通じゃなかっただけ。しかもそれは自分自身の問題だ。母親が謝ることでは絶対に無いだろう。

「家でしっかりと言い聞かせます」

 母親が深々と頭を下げて言った。

 洋子は野沢がまだうつむいたままで、説教が始まってから一度も謝っていないのが気に入らない様子だったが、窓の外に見える日がだいぶ傾きかけているのを見て二人を解放してくれた。

「どうして“自殺する”なんて書いたの?」

 帰り道、母親が野沢に聞いてきた。

「…」

「学校でいじめられたりしてるの?」

 思春期の中学生がそう聞いて素直に答えてくれるとは思わなかったが、そう聞かずにはいられなかった。いじめを苦に自殺する学生のニュースは後を絶たない。「まさか自分の子が…」とは思うが、本当の所は分からない。

「勉強が上手くいっていないとか…?」

 確かに野沢は数学が苦手だった。小学生の頃から算数が苦手で、いつも補講をさせられていた。そのため、中学に上がっても数学の成績は平均以下。しかしその反面、国語と英語は得意だった。その二科目に関しては常に好成績を修めている。残念なことに数学も合わせた平均点で見ると学年の真ん中ぐらいだったが、最下位とかで無ければ文句を言うつもりは無かった。もちろん、本人が気にしているのであれば別だが。

「もしかして…」

 恋でもしたのだろうか。

 コレこそ、母親が聞いて素直に答えてくれる訳がない。

 家庭内の問題ではないと思う。自分で言うのもおかしいが、父と母、そして姉と四人、幸せな家庭環境だと思う。少なくとも、反抗期と呼ばれる中学生になっても家族揃って楽しく出かけたりしている。

「いったい何でなの?」

 改めて聞いてみるが、野沢は一向に答えようとしない。

 まぁ、思春期だから仕方がないのかな。

 母親はそう思ってそれ以上は聞かない事にした。

「ごめん…」

 野沢はそう言って立ち止まった。母親も合わせて歩くのを止めて彼の方を見る。

「教室に忘れ物した。取りに行ってくる」

 明らかに嘘だと判った。しかし、母親は「そう、気をつけてね。ご飯作って待ってるから」と言って一人家の方に向かって歩き始めた。

「…ありがとう」

 野沢はそう、聞こえない様な小さな声で母親の背中に言うと、今来た道を戻り始めた。

 学校まで戻るつもりはない。学校まで戻って洋子と鉢合わせになったらまた説教をされるだろう。途中にある公園に行き、ベンチに座った。日が暮れかかっているとはいえ、子供たちが遊んでいそうだったが誰もいない。いや、いても野沢は気にしなかったかもしれない。それほど、周りに気を使える状態ではなかった。

「はぁ…」

 深いため息をつきつつ、何故あんな事を書いてしまったんだろうと後悔をする。間違った事をしたとは思っていないので罪悪感は一切ない。しかし、あんな事を書かなければこんな説教をくらう必要もなかっただろうし、母親が担任に頭を下げる必要だってなかっただろうに。

「たぶん、自殺ってのがいけなかったんだろうな」

 しかしそれ以外に自分が死ぬ理由が見つからなかった。別に死に方はどうだって良かったのだ。ただ、自分が32歳で死ぬものだと思っていた。いや、自分だけでなくみんな32歳で死ぬものだと思っていたのだ、今日まで。担任の洋子に呼び出され、「なんで32なの?」と聞かれた時に「普通じゃないですか?」と答えてしまったぐらいだ。

 もちろん、今思うと自分の親や洋子は32歳以上生きているのだ。32歳で死ぬのは普通じゃなかったのかもしれない。

 だが、やっぱり自分が32歳で死ぬものなのだと思う。病気か事故か、それとも殺されるのか、自殺するのか。その原因は分からなくても、そう思うのだ。

 どうやらそう思っているのは自分だけらしい。プリントを書き終わった後に周りの友人たちの話を聞いているとやっぱり100歳まで書いている奴がほとんどだ。「明日死ぬ」と書いた奴もいたが、そいつと自分は何か違う気がする。書くのが面倒だとかそういうのではなく、32歳で死ぬと確信しているのだ。

「死神がそう決めて教えてくれたのかな」

 馬鹿か。

 そう思って笑ってしまう。

「ホント、馬鹿よね。あたしは誰がいつ死ぬかなんて決められないわよ」

 突然声がして飛び上がってしまった。

 慌てて隣を見てみると一人の少女が座っている。見たこともない様な綺麗な笑顔でこちらを見ていた。

「あたしには人の死を決める権利なんてないわ。ただ案内するだけよ」

 野沢が驚いているのを無視して少女は続けてくる。

「ちょ、待って…」

 理解できなかった。

 自分が周囲へ気を使っていなかったとは言え、隣に人が座るのを気付かないはずがない。いや、それ以上に少女が言っている意味が分からない。この少女はいったいなんなのか。

「あら、今あたしの事を考えてたじゃない」

「え?」

 少女はゆっくりと手を頬に添えてくる。

「あたしは、死神よ」


 野沢はあの日の事をハッキリと思い出した。

 自分の書いた人生計画表のために親子で職員室に呼び出されたあの日、この死神と名乗る少女に出会ったのだ。

 そして、

「あなたはあたしと契約したのよ。32歳で死ぬ代わりにあたしにその魂を捧げる、てね」

 少女は愛撫する様に野沢の頬を撫でながら言う。その手はとても冷たかったが、言いようのない甘美な気持ちよさを持っていた。確かに、この手の感触を味わいながら死ねるのならそれでいいと思ってしまう。

「でも、まだ俺は32になっていないよ。誕生日は明後日だ」

 耐え難い誘惑と懸命に戦いながら野沢は言った。

「そうよ。ただ契約不履行で逃げられない様に釘を刺しに来たの」

 少女は笑顔で答えて来た。そして、ゆっくりとその手を頬から放す。その瞬間、体温を奪われ切ってしまったかのような寒気を覚えブルッと野沢は体を震わせた。

「死神から逃げることなんてできるのかよ?」

「どうかしら? 契約を無視することはあなたにもできるわよ。ただ…」

 少女はそう言いながら自分の唇をペロッとなめる。

「ただ、その時は覚悟しておいてね」

 その小さなかわいらしい唇も血のように真っ赤だった。

「…」

 死神の怒りを買ったらどうなるんだろう。あまり想像はしたくはないが、これだけ綺麗な少女から受ける仕打ちならいいかも知れないと思ってしまった。しかしすぐに、この少女の姿はあくまで仮の姿で本当はもっとおぞましい姿をしているかも知れないと思い、怒らせる事は止めようと心に決めた。

「もう、契約してしまったのならしようがないだろう」

「よかった。なら怖くも痛くもなく、気持ちよく死なせてあげるね」

 少女は無垢な笑顔でそう言った。

 一瞬、野沢は卑猥な想像をしてしまったが、すぐに別の気になることを思い出した。

「ところで、なんで32歳なの?」

 今思うと切りの悪い数字だ。なぜ20や30、35ではないのか。

「あら…」

 しかし、少女の返事は期待した物と違っていた。

「あら、あの日に言ったじゃない。あたしは人がいつ死ぬかを決める権利なんてないって」

 何を馬鹿な事を言っているの?

 そう言いたそうな顔で少女が言う。

「どういうこと?」

「だから、32歳で死にたいって決めたのはあなた自身よ。あたしはその理由なんて知らないわ。あなたと初めて会ったあの日、その時にはあなたは32歳で死にたいと思っていたんだもの」

 理由はあなたが知っているはずよ?

 そう言われても野沢には想像が付かなかった。

「いいじゃない。どっちにしたって後二日なんだから。しっかり楽しみなよ、後悔のないように」

「後悔のないように…」

 何故だかすぐに守岡の顔が思い出された。あの生徒はまだ九九が言えない。このままではこの先絶対に苦労するのが想像できた。

「後二日…」

 できるかどうか判らなかったが、野沢は死ぬまでにあの子が九九を言える様にしてあげようと心の中で誓った。

 楽しむのはその後だ。


 しかし次の日、守岡のための特別授業を行ってあげる事はできなかった。

 いじめ、である。

 野沢が担任をする教室のクラスメイトが守岡にいじめをしていたのだ。理由はたぶん、九九ができないからであろう。机に落書きをしたり、上履きに画鋲をいれたり、彼のノートを破ったり。

 クラスメイトの女の子が野沢に教えてくれたから判った。聞いた話だと、昨日から始まり、今日それが更に酷くなったらしい。算数の時間に守岡の為を思って九九の練習問題をしたことを後悔したが、すでに遅かった。

「だって守岡、ぜんぜん九九できないんだぜ。そんな奴、いい大人になる訳ないじゃん」

 放課後、クラスの全員を残らせて、「いじめは悪いことだからしてはいけない」と話すと、いじめをしていた生徒がそう言ってきた。

 確かに九九ができないままじゃそうだろう。

 と言える筈がない。

「でも、いじめをする人の方が駄目な大人になるよ」

 どっかで聞いた事があるような事だったが、今の野沢には生徒たちにそうとしか言うことができなかった。

 32歳で自殺しようって考えていた俺はいい大人になれたのかな。

 昨日の少女とのやりとりを思い出し、どうしても気の利いた言葉が出てこない。ただ、このままいじめが続いてはいけないのは確かだった。だから、生徒全員に「いじめは絶対にしちゃいけない」何度も言い聞かせ、いじめっ子、いじめられっ子に分けてロールプレイもやって見せた。

 最後にはなんとか、いじめで相手が嫌な気持ちになるという事は生徒に伝わったと思う。しかし、その為に守岡に補講をしてあげる時間がなくなってしまったのだ。

 野沢は職員室に一人残って頭を抱えた。

 後一日でどうやって守岡に九九を覚えさせる事ができるか。

「そんなの放っておいて遊びに行けばいいのに」

 上機嫌な声で少女が野沢に話しかけて来る。

 今は職員室に野沢と少女以外誰もいない。昨日、補講が終わるまで残ってくれていた職員も、今日は野沢が補講をやっていないのを確認すると、「さ、明日の為の買い出し行かなきゃ」と言いながらすぐに帰ってしまった。

「いや、後悔したくないから」

 九九表と睨めっこをしながら野沢が少女に答える。

 少女は家でも学校でも野沢が一人きりになると姿を現した。そしてその度に、「仕事なんてサボって遊びに行きましょうよ」と誘惑してくるのだ。しかし、野沢はその誘惑のすべてをはね除け、放課後に待っているであろう九九の補講の準備に集中し続けた。しかし、それも無駄に終わってしまったようだった。

「ホント、馬鹿ねぇ~~」

 少女は笑顔で机の上に置いてあった教科書をパラパラ捲りながら言う。

「馬鹿でも、自分が納得いくならそれでいいじゃんか」

 こっちは必死でやっているにもかかわらず、笑顔で、しかも上機嫌に茶化して来るのがかんに障った。

「ってか、なんでそんなに上機嫌な訳?」

 少女は昨日も、初めて出会った時も笑顔だったが、今日のはそれ以上にうれしそうだった。

「ん?判る?」

「そりゃまぁ…」

「んふふ。ちょっと早くあなたに会いに来て正解だったみたい。少し得できそう」

 満面の笑みで少女が答える。

 その笑顔だけ見るととてもかわいい物だが、その正体は死神なのである。その得と言うのもロクでもない事に決まっている。

 そう、人が死ぬとか、ね。

「人が…、死ぬ?」

 悪寒が走った。

 慌てて席を立ち、職員室から駆け出す。

「ちょっと、どこに行くの?」

 少女の声が背中に聞こえたが無視した。

 野沢は全速力で階段を駆け上がり屋上に向かう。

 バカバカ、何で気付かないんだ!

 心の中で自分を責めた。

 勉強も大事だが心のケアだって大事な教師の仕事。それが、あの少女の事が気になって気付けなかったとは!

 屋上の鍵は開いていた。

 本来は閉まっている筈である。それが空いている理由は考えたくなかった。思いっきり力を込めてドアを開けると、落下防止用のフェンスをよじ登ろうとしている少年の姿があった。

「守岡っ!」

 野沢はそう絶叫しながら駆け寄る。

 フェンスを止めている金具が弾け外に向かって倒れていくのが見えたのだ。

 32歳になる前に死ぬかも。

 一瞬、そう思い死を覚悟した。

 ガシャンっ!

 フェンスが地面に激突した音が下の方で聞こえる。両手には少年の重みを感じる事ができた。

「せ、先生…」

 無事だった。

 守岡も、野沢も無事だった。

「馬鹿!なんて事をしようとしたんだ!」

 飛び降りようとした少年の両肩を掴み、物凄い形相で言った。

「ちょっといじめられたぐらいで自殺しようとするなんて!」

「だって!だってだって!九九ができなかったらいい大人になれないんでしょ?」

 涙をポロポロ流しながら少年は叫んだ。

 いじめが悪い事だとは生徒全員に言ったが、九九ができない事へのフォローをすっかり忘れていたのだ。いじめをしていた生徒の言ったことを野沢は否定していない。

「どう頑張ってもできないんだもん!今まで算数は大好きだったのに、あの九九だけはできないんだもん!それが理由で学校でもいじめられ、家でもさんざんお母さんとお父さんに怒られて!」

 電話越しでの対応が良かったあの母親も、子供の前では違ったのかもしれない。補講を終えて帰った我が子に、厳しく当たった可能性もある。

「もうやだよ!九九ができないと大人になれないなら、大人になんかなりたくない!九九ができなくていじめられたり怒られたりするのならもう死にたい!」

 守岡の言葉が野沢の心に突き刺さった。

 こんな小さな子が死にたいと思うなんて。

 思わず野沢は彼をギュッと力強く抱きしめた。

「大丈夫だ、守岡。大丈夫だ」

「先生…?」

 自分も涙を流している事に気付く。

「絶対に九九をできるしてやる。俺が九九をできるようにしてやるから!」

 それができるまでは死ねない。


「なぁ~んで助けちゃうかな」

 少女は口をとがらせながら野沢に文句を言った。

「せっかく若くて純粋な魂が手に入るかと思ったのにぃ」

 しかし、当の野沢は少女の言うことなど気にせずに九九表との睨めっこを続けていた。どうすれば守岡に九九表を覚えさせる事ができるか。また、どうして守岡が九九表を覚える事ができないのか。自分でも算数を大好きと言ったのに。

「ってかさぁ、そんなにその“九九”ってのは大事なの?」

 返事をしてくれない野沢の手から九九表を取り上げ少女が言う。

「あたし、こんなの知らないんだけど…」

「おい、返せよ」

 野沢が少女の手から九九表を取り返そうと手を伸ばすと、少女はサッと背中の後ろに表を隠して「いぃ~だ」と野沢の手から逃げ出した。

「おい、俺が32になるのは明日だ。まだお前に魂をやるには早いだろ。それまでは俺の自由にさせろ、邪魔するな」

「なにそれ?それが死神に対する口の利き方?」

「悪いがそんなのは学校では習ってないんでね」

 もう一度、九九表を取り返そうと手を伸ばすが、少女はその腕をかいくぐってうまく逃げ出す。

「ってかさ、あなたは言えるの?この九九表って奴?」

「当たり前だろ?」

「じゃぁさ、言ってみてよ。全部ちゃんと言えたら返してあげる」

 少女はそう言うと後ろ手に隠していた表を広げ、「まずは1の段から言ってみて」と野沢に悪戯っぽい笑顔を向けた。

「たくっ!」

 少女の姿をしてなければ殴ってやりたい気持ちだった。

「いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん、いんしがし、いんごがご、いんろくがろく、いんしちがしち、いんはちがはち、いんくがく」

「おおぉ!凄い!」

 少女が拍手をする。

「じゃぁ、次は2の段」

 もういい加減にして欲しかった。早く守岡が九九を覚える為の方法を考えないといけないのに。

 いっそ九九表を使わないでやろうか。

 とも思ったが、九九表を使わない方法なんて思いつきそうになかった。

「にいちがに…」

 だから仕方が無く2の段を言う。

「にちいがに、ににんがし、にさんがろく、にしが…」

 そこで止まった。

「にしが?」

 止まった野沢を不審に思って少女が聞いてくる。しかし、野沢は止まったままだ。

「にしが…、にしが…」

 野沢はそこを復唱し続ける。

「もう、にしがはち、だよぉ!」

 少女が答えを言った。

「違う」

「え?」

 しかし、野沢は少女の答えを否定した。

「違う。違うんだ、にしが…、にしは…」

 すべてが判った気がした。

「西は、あっちだ」


「よし、じゃぁ次行くぞ?3×5は?」

「15!」

「そうだ!正解だ!」

 野沢は守岡の答えを聞いて満足し、思いっきり彼の頭を撫でてあげた。

「次、3×6は?」

「18!」

「正解っ!」

 親指を立てて守岡の回答が正解である事を伝える。

 結局、先輩職員たちが誕生パーティを開いてくれると言ったが、野沢はそれを断って守岡の為に補講をしていた。

 昨日の事もあり、守岡は乗り気ではなかったが、日本語で書かれた九九表ではなく、数字のかけ算が書いてある紙を見て顔を輝かせた。

 彼の計算速度は速かった。

 野沢は数字で覚えさせるつもりだったが、すぐにその必要がないことに気付き、答えが書いてある紙を伏せ、口頭で問題を出してみた。守岡はその答えをすぐに返してくれる。

 少し気になって野沢は少し趣旨を変えてみた。

「12×7は?」

 守岡は一瞬止まった。

 さすがに無理か。

 そう思った瞬間、

「84!」

「大正解だっ!」

 当然、授業で二桁のかけ算はやっていない。しかし、それを守岡は計算したのだ。しかも暗算で。

 守岡が九九を言えなかった理由は簡単だった。

「これって算数の勉強ですか?」

 二日前の補講の帰り際、守岡はそう言った。

 そう、彼は算数が好きなのだ。数字が大好きなのだ。

 しかし、九九表は日本語で書いてある。数字ではない。しかも、“覚える”物であって、計算をさせる物ではない。守岡は決してかけ算ができないのではなく、ただ単に“さんろくが”という言葉と、“3×6”を関連づける事ができていないのだ。そして、言葉を覚えなければならないという事が、算数の勉強と思えず知らず知らずの内に、頭の中で拒否を起こしていたのだろう。

 現に、数字で計算をさせれば彼は習っていない二桁のかけ算もできる。

 もちろん、九九表は未だに言えないままだが、かけ算がちゃんとできるのであれば問題はないはずだ。九九表を実社会で言わないといけない場面など、ほとんどない。

「良かったわね」

 少女が複雑な表情で野沢に言った。

「ああ」

 野沢は満面の笑みでそれに答える。

 野沢は守岡を家に帰らせ、その旨を保護者に電話をした後だった。電話では九九表の話はしなかった。ただ、「しっかりとかけ算ができるようになりましたよ。まだ学習していない二桁のかけ算もできたので安心してください」と言った。たぶんこれで、家で九九の勉強をさせられることはないだろう。

「でも、なんで判ったの? あの子が九九をできなかった理由を」

「簡単だよ。俺も昔、九九表を覚えられなかったんだ」

「え?」

「“にしが?”って聞かれてね、“あっちです”って答えたんだよ。“冗談言っているんじゃない!”って担任に怒られて補講をさせられたよ、あの子と同じでね。それが理由でいじめられもした。九九ができないって理由でね」

 だから、「いじめは絶対にしてはいけない」と生徒たちに本気で言った。

「俺の場合は、どうしても言葉で考えちゃったんだよね。“にしが”って聞くと、どうしても“西”が出てきちゃうの」

 だから、逆に丸暗記すればいいと判れば後は楽だった。

「へぇ、じゃぁ似たもの同士だったんだね」

 少女は職員室の窓から笑顔で走って帰る守岡の背中を見つめていた。喜ばしい事に、だが少女にとっては残念な事にあの子が自殺しようと思う事は当面なさそうだった。

「ちなみに…」

 野沢は机の上に置いておいた言葉で書かれた九九表を手に取りながら言った。

「ちなみに、なんで自分が32歳で死にたいと思ったのかも判ったよ」

「ホント?」

「うん」

 九九表を少女に渡す。

「4の段を読んで見て」

「え~と、しいちがし、しにがはち、しさんじゅうに、ししじゅうろく、しごにじゅう、しろくにじゅうし、ししちにじゅうはち、しはさんじゅうに…」

「しはさんじゅうに」

 少女がそこまで言うと、野沢は復唱した。

「しはさんじゅうに。死は…32」

「はぁ?」

 少女が呆れ果てた声を上げた。

「そんな事で32で死のうと思ったの?」

「言ったでしょ、いじめられたって」

 九九表を少女から返して貰いながら言う。

「いじめられて、しかも補講もさせられて。泣きながらこの九九表を覚えたんだよ。その時、なぜかこの“しはさんじゅに”が頭から離れなかったんだ。すぐに自殺しようじゃなくって、32歳で死のう、て。俺は言葉で考えてたからね。理由は忘れても、しばらくは32歳で死ぬって考え続けてた。だから、中学の時、人生計画表にそう書いたんだよ」

 野沢はそう言いながら九九表を破った。

「それより、本当にいいの? 契約?」

 破った九九表をゴミ箱に捨てながら少女に聞く。

「契約したのに、なかったことにしていいの?」

 そう、野沢は少女に「まだ生きたい」と言ったのだ。驚いた事に少女はそれを了承した。野沢にはそれが信じられなかった。

「契約したって言ったって、あなたの場合はまだ対価を払ってなかったからね」

 少女は酷く残念そうな顔で言った。

「対価?」

「そう、あたしは魂を貰う代わりにその対価を払う義務があるの。でも、あたなが要求した対価は“32歳死ぬ”って事だったから、払いようがないでしょ。だから、契約不履行も何もないわ。契約不成立ってだけ」

 そう言って肩をすくめた。

「誰でも殺せる訳じゃないんだ」

「あなた本当に馬鹿ね。言ったでしょ、いつ死ぬかは、あたしには決められないの」

 野沢はそれを聞いて笑った。

「まぁいいわ。次会う時は40年後ぐらいにしなさいよ。定年まで働きなさい」

「うん、そうするよ」

 そう答えながらだいぶ小さくなった守岡の背中を見た。

 彼はラマヌジャンのようになれるだろうか。

 それは判らない。でも、彼には特異な才能があるかも知れない。それを決してつぶさないようにしよう。そう心に決めた。

「そうだ!お礼を言わないと!」

 昨日の夜、少女が野沢に九九表を言うように言わなければすべてを気付く事はできなかっただろう。

 そう思って野沢は少女の方を向いた。

「あれ?」

 しかし、そこには誰もいなかった。

 ただ、

「じゃあね」

 という少女の声だけが聞こえた気がした。

「…ありがとう」

 彼はいなくなった死神に心からお礼をいった。


END


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