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名もなきエリーゼのために  作者: 秋月アムリ


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第9話

 王宮の大広間は、光の洪水に溺れていた。

 天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが、何千もの蝋燭の火を反射し、磨き上げられた床に金色の幻影を落としている。

 着飾った貴族たちの笑い声、グラスが触れ合う音、そして楽団が奏でる優雅な弦楽器の調べ。

 そのすべてが混ざり合い、目眩がするほどの華やかさを醸し出していた。


 その喧騒の中心に、エリーゼは立っていた。


「まあ、あれがヴァレンシア公爵令嬢……」

「婚約発表の直後から体調を崩されていたとか」

「まるでお人形のように美しいわね」


 扇子の陰から注がれる視線は、好奇と嫉妬、そして値踏みするような色が混じっている。

 エリーゼは父のエスコートを受けながら、ただ立ち尽くしていた。

 ドレスの裾を踏まないように。

 背筋を伸ばして。

 口角を上げて。

 叩き込まれた完璧な所作をなぞるだけで、思考が焼き切れそうだった。


(怖い……)


 煌びやかな世界であればあるほど、自分の居場所のなさが浮き彫りになる。

 ここは、姉が十九年間戦い抜いてきた戦場だ。

 自分のような、部屋の隅で膝を抱えていた人間が立っていい場所ではない。


「……笑いなさい」


 父が唇を動かさずに囁く。

 エリーゼはびくりと肩を震わせ、ひきつった笑みを浮かべた。


 母は、会場の隅々に配置した兵士たちに目を配っていた。

 あの娘――アルテが現れたら、即座に捕らえて口を封じるように言い含めてある。

 しかし、夜会が始まってからしばらく経っても、それらしき不審な人物が現れる気配はない。

 母は扇子で口元を隠しながら、安堵の息をついた。


(間に合わなかったようね……あの田舎娘には、王宮の警備を抜ける知恵などあるはずもないわ)


 公爵夫妻が勝利を確信しかけた、その時だった。


「殿下、お話があります」


 エリーゼが、震える足を一歩前へ踏み出した。

 父の腕から離れ、王太子アレクシスの正面へと進み出る。

 予期せぬ行動に、会場の喧騒がふっと凪いだ。


「エリーゼ? どうした」


 アレクシスが怪訝そうに眉をひそめる。

 エリーゼは大きく息を吸い込んだ。心臓が早鐘を打っている。喉がカラカラに乾いている。

 それでも、彼女は言わなければならなかった。


「私は……」


 か細い声が、静寂に溶ける。

 エリーゼは拳を握りしめ、声を張り上げた。


「私は、つい最近まで、一度も社交界に出たことがありませんでした」


 その言葉の意味を理解するのに、数秒の空白があった。

 やがて、会場がどよめきに包まれる。


「どういうことだ?」

「一度も? 公爵令嬢は何度も夜会に出ていただろう?」

「なにを言っているんだ?」


 アレクシスの瞳が剣呑に細められる。

 その背後で、母の顔色が土気色に変わった。

 血の気が引き、持っていた扇子が震える。


(まさか……あの娘、アルテがいなくとも、たった一人で暴露するつもりか……!)


 父が慌ててエリーゼの腕を掴もうとする。

 だが、それより早く、会場の入り口から凛とした声が響いた。


「その通りです、殿下」


 全員の視線が、入り口へと集中する。

 そこに立っていたのは、簡素な侍女服を纏った少女。

 化粧っ気のない顔。短く切られた髪。

 しかし、その顔立ちは――今、王太子の前に立っているエリーゼと、瓜二つだった。


「な……ッ!?」


 母は絶句した。

 どうやって入り込んだのか。警備は何をしていたのか。

 思考が追いつかないうちに、アルテは堂々と、女王のような足取りで王太子の前へと進み出る。

 会場の空気が凍りついた。

 二人の少女が並び立つ。

 鏡写しのような、けれど全く異なる装いの二人。


「二人……?」

「双子、なのか……?」


 貴族たちの囁きが、さざ波のように広がる。

 アルテは真っ直ぐにアレクシスを見据えた。


「殿下。殿下が婚約していたのは、この私です」


 アレクシスは眉ひとつ動かさず、しかしその瞳の奥には冷たい計算の光を宿してアルテを見下ろした。


「なんだと……?」

「私には、正式な名前がありませんでした。十九年間、『エリーゼ』として生きることを強要されていたからです」


 アルテは視線を巡らせ、会場にいる貴族たち一人一人の顔を見た。

 かつて言葉を交わした人々。共に踊った人々。

 彼らは今、亡霊を見るような目でアルテを見ている。


「私たちは双子です。しかし、双子は不吉とされるこの国で、私は『存在しないもの』として扱われました」


 淡々とした語り口が、かえって真実味を帯びて響く。


「十九年間、私は妹エリーゼの代わりに社交界に出て、公爵令嬢を演じ続けました。学問を修め、礼儀を尽くし、殿下の隣に相応しい女性であろうと努力しました。そして――」


 アルテの声が、僅かに低くなる。


「妹の病が治った瞬間、私は用済みとして、地下牢に捨てられたのです」


 悲鳴のようなざわめきが起きた。

 あまりに残酷な告白に、貴族たちが顔を見合わせる。

 その空気を縫うように、今度はエリーゼが口を開いた。


「私は……ずっと館の一室にいました」


 エリーゼの大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ落ちる。


「お姉様が私の代わりに生きていたことを、つい最近まで知りませんでした。お父様とお母様は、『忠誠深い代理の者がいた』と言いました。私はその方の献身に感動して……その方を裏切らないように生きようと誓いました」


 エリーゼの声が震え、嗚咽が混じる。


「でも……その方が、双子のお姉様で――お姉様も何も知らされず、名前すら奪われ、利用され続けていたなんて……」


 エリーゼはその場に泣き崩れた。

 純白のドレスが床に広がる。

 彼女は顔を覆い、絞り出すように叫んだ。


「お父様とお母様は、私たちを愛していませんでした! 私たちは、ただの道具だったのです!」


 会場は水を打ったように静まり返った。

 誰も言葉を発せない中、アルテは自嘲の笑みを浮かべた。


「私が地下牢に投獄される前、父から告げられました。皆様、私の罪状は何だったと思いますか?」


 彼女は冷たく、そして哀しく笑った。


「『存在してはならない者』――だそうです」


 その一言は、会場にいる全ての人間の良心を揺さぶった。

 ただ生まれただけ。

 ただ生きただけ。

 それが罪だと断じられた少女の絶望。


「黙りなさい!!」


 金切り声が、沈黙を破った。

 公爵夫人が、鬼のような形相で前に出てくる。

 その後ろから、顔を真っ赤にした公爵も続いた。


「殿下! この娘たちは、精神を病んでいます! 私たちを陥れようと、嘘をついているのです!」


 母は必死に弁明する。その目は泳ぎ、言葉は上滑りしている。


「双子などという不吉なものが我が家にいるはずがありません! これは顔のよく似た平民の娘が、金を強請りに来たに決まっています!」

「そ、そうだ! 衛兵! 早くこの者を摘み出せ!」


 父が唾を飛ばして吠える。

 しかし、アルテは動じない。懐から一通の手紙を取り出し、高く掲げた。


「では、これは何でしょう」


 それは、使い古された羊皮紙だった。


「これは、殿下が『エリーゼ』から受け取った手紙、その書き損じです。私はこれを書くのに、何十枚も紙を無駄にしました。そしてこちらは――」


 もう一枚、真新しい紙を取り出す。


「本物のエリーゼが、その内容を書き写したものです」


 アルテは二枚の紙を、近くにいた侍従に渡した。侍従はおずおずとそれを王太子へと運ぶ。

 アレクシスは紙を受け取り、その鋭い瞳で二つの筆跡を見比べた。


 一つは、流麗で知性を感じさせる、見慣れた筆跡。

 もう一つは、丁寧だが弱々しく、見るからに書き慣れていない筆跡。


「……明らかに、違うな」

「そんなもの、いくらでも誤魔化せるだろう!!」


 父が叫ぶ。

 見苦しいほどの悪あがきだった。

 公爵家の権威も、名誉も、今この瞬間、泥にまみれて崩れ落ちていく。


「……もう、やめましょう」


 その時、人垣を割って一人の老人が進み出た。

 ヴァレンシア公爵家に古くから仕える、白髪の家令だった。

 彼は静かに公爵夫妻の前に歩み寄ると、悲痛な面持ちで首を振った。


「旦那様、奥様。もう、隠し通せません」


 家令は会場に向かって深く頭を下げた。


「私は、双子のお嬢様が生まれたその瞬間から、全てを知っております。こちらの……お嬢様のことも、病室から出られなかったエリーゼお嬢様のことも」


 会場が再びざわめく。

 公爵家の最古参の使用人が、主人の嘘を認めたのだ。


「私は……かつてのエリーゼお嬢様が地下牢に入れられた時、何もできませんでした。保身のために沈黙し、あの方を暗闇の中に置き去りにしました」


 家令の声は震えていた。

 彼は顔を上げ、アルテを見た。その目には深い悔恨の色が滲んでいる。

 アルテはハッとした。


(もしかしてあの夜、牢の鍵を開けてくれたのは……)


 家令は何も言わない。ただ、アルテの視線を受け止め、微かに目を伏せた。

 それだけで十分だった。


「子のいない私は、彼女たちを孫娘のように愛しております。今更、罪滅ぼしにもなりませんが、せめて」


 家令は、低く、よく通る声で、公爵家が行ってきた非道な所業の数々を暴露し始めた。

 双子の隠蔽。

 アルテへの虐待に近い教育。

 エリーゼの隔離。

 そして、用済みとなった娘の廃棄。


 全てが語り終えられた時、会場には重苦しい沈黙が満ちていた。

 アレクシスは、氷のような無表情で家令を見下ろした。


「それは公爵家に対する裏切りではないのか」

「主を正しい道に導くのも、付き従う者の役割でしょう」

「……わかっているのか。その告白は、そなた自身も加担していたという自白だ。免れぬぞ」


 王太子の冷徹な指摘に、家令は穏やかに微笑んだ。


「お嬢様がこうして生きていた、再び相見えることができた。それだけで十分でございます」


 家令はそう言って、美しく、聡明に育った双子に目を細めた。

 復讐のために情は捨てると思っていたアルテの頬に、一筋の雫が伝った。


 もう、疑う余地はなかった。

 アレクシスはゆっくりと視線を動かし、蒼白になった公爵夫妻を見た。


(……面倒なことになった)


 アレクシスの内心は、冷え切っていた。

 彼は決して正義の味方ではない。

 双子がどうなろうと、彼にとっては些末なことだった。もし二人が彼に直訴しに来ていたなら、秘密裏に二人を処理し、公爵家との婚約を維持するという選択肢もあっただろう。


 だが、ここは公衆の面前だ。

 高位貴族たちが固唾を呑んで見守っている。

 ここで公爵家を庇えば、王太子の判断能力、ひいては王家の権威に傷がつく。

 双子はそれを理解した上で、この大舞台を選んだのだ。


(私を利用したか。見事だ)


 アレクシスは瞬時に損得を計算し、結論を出した。

 ヴァレンシア公爵家は、もはや泥舟だ。切り捨てるしかない。


「ヴァレンシア公爵」


 その声は、怒りに震えているかのように演出されていた。


「貴公は、私を騙し続けていたということか」

「で、殿下、それは誤解です! 私たちは――」

「黙れ」


 王太子の一言が、公爵の言葉を断ち切った。

 絶対的な拒絶。


「娘二人を道具として扱い、一人に名前すら与えず、地下牢に閉じ込めた。そのような非人道的な家と、王家が縁を結ぶことはできない」


 アレクシスは右手を上げ、宣言した。


「婚約は、即刻破棄する」


 公爵夫人がその場に崩れ落ちる。


「さらに――」


 アレクシスは冷酷に続けた。


「これは紛うことなく王家に対する不敬である。公爵夫妻は投獄する。ヴァレンシア公爵家の爵位そのものも、父上に進言せねばならないな」


 会場が騒然となった。

 名門の崩壊が決定的となった瞬間だった。


「お、お待ちください殿下!」


 父が必死に叫び、すがりつこうとする。

 しかし、アレクシスは汚いものを見るような目で一瞥しただけだった。


「兵士、この二人を連行しろ」


 待機していた兵士たちが一斉になだれ込み、公爵夫妻を取り押さえる。

 父は抵抗し、無様に引きずられていく。

 母は――半狂乱になって叫んだ。


「やっぱり! やっぱり双子は不吉の象徴だったわ!!」


 その金切り声が、高い天井に反響する。


「あの娘たちが家を滅ぼしたのよ!! あんたたちのせいで!!」


 母はアルテとエリーゼを睨みつけ、呪詛を吐き散らす。

 その言葉に、アルテは何も言い返さなかった。

 事実だからだ。

 私たちは、確かにヴァレンシア公爵家を滅ぼした。

 それは正当な復讐であり、自らが選び取った結末だ。


「双子は不吉! 不吉の象徴!!」


 兵士たちが母を引きずっていく。

 父もまた、無言で連行された。

 二人の姿が扉の向こうに消えても、その呪いの言葉だけが、耳鳴りのように残っていた。


 会場は静まり返っていた。

 誰もが、この悲劇的な結末に言葉を失っている。


 アレクシスは踵を返し、退出しようとした。

 その去り際、彼はアルテの横を通り過ぎる瞬間に足を止め、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。


「君のような女こそ、欲しかったのだがね」


 アルテはその言葉に視線を合わせることはなかった。

 ただ、背筋を伸ばし、その場に立ち続ける。


 王太子が去り、兵士が去り、取り残された大広間の中央。

 アルテとエリーゼは、お互いの存在を確かめ合うように、強く抱き合って立っていた。

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