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名もなきエリーゼのために  作者: 秋月アムリ


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第8話

 月明かりが雲に遮られ、世界が濃い藍色に沈む夜だった。

 西棟の窓辺で、二つの影が密やかに動く。


「……本当に行くのね、お姉様」


 エリーゼの声が震えていた。

 彼女の手は、アルテの袖を強く握りしめたまま離そうとしない。まるで、そうしていなければ姉が夜の闇に溶けて消えてしまうと恐れるかのように。


「ええ。ここに留まるのは得策ではないわ」


 アルテは短く答え、身支度を整える。

 侍女の服ではなく、屋敷に来た時と同じ地味な平民の服。動きやすさを重視し、髪もコンパクトにまとめた。


 両親の会話を盗み聞きしたエリーゼの情報によれば、彼らは夜会が終わるまで手出しをしないと決めたらしい。

 だが、それはあくまで大人しくしていればの話だ。

 アルテへの疑念は既に黒に近い灰色。いつ気が変わって捕縛命令が出るか分からない。それに何より、反撃のための武器がまだ足りなかった。


「戦うには剣が必要よ。物理的な剣ではなく、あの狡猾な両親の首元に突きつけるための『証拠』がね」

「証拠……」

「私の筆跡が残る手紙、過去の日記。すべて屋敷の外にあるわ」


 アルテはエリーゼの手をそっと包み込み、優しく、しかし力強く解いた。

 その体温が離れることに、エリーゼは心細げに瞳を揺らす。


「私がいない間、あなたは一人で戦わなければならない。できる?」


 試すような問いかけ。

 かつてのエリーゼなら、首を横に振って泣き出していただろう。

 だが今の彼女は、唇を噛み締め、真っ直ぐにアルテを見返した。


「……やるわ。私だって、もうただのお人形じゃないもの」

「いい目ね」


 アルテは口元を綻ばせた。

 そして、懐から小さな紙片を取り出し、エリーゼに握らせる。


「明日の朝、お母様が血相を変えて怒鳴り込んでくるはずよ。そうしたら、これを演技のスパイスにしなさい」

「これは?」

「私が書いた置き手紙よ。『怖くなったので逃げます』と書いてある。情けなく、無様な文字でね」


 それは、あえて震える手で書いた、卑屈さが滲み出るような手紙だった。

 両親の侮蔑を誘い、油断させるための小道具。


「エリーゼ。最高の嘘をついてちょうだい。私たちが生き残るために」

「分かった。……お姉様も、気をつけて」


 二人は短く抱擁を交わした。

 言葉はもういらない。

 互いの鼓動のリズムが、共犯者としての絆を確かに刻んでいた。


 アルテは窓枠に足をかけた。

 三階の高さだが、窓の外には太い蔦が這い、雨樋が通っている。地下牢から脱出したあの夜に比べれば、整備された庭への着地など児戯に等しい。

 彼女は一度だけ振り返り、闇へと身を躍らせた。


 衣擦れの音さえ残さず、姉の姿が消える。

 残されたエリーゼは、誰もいない窓辺でギュッと拳を握りしめた。

 ここからは、彼女の独壇場だ。



 *



 翌朝。

 予想通り、嵐は早朝からやってきた。


 バン! と乱暴に扉が開く音と共に、公爵夫人が部屋になだれ込んでくる。その後ろには、顔色の悪い公爵と、数名の兵士が控えていた。


「おい! あの娘はどこだ!」


 夫人の金切り声が、朝の静寂を引き裂く。

 エリーゼはベッドの上で驚いたように身を縮め、怯えた瞳を向けた。


「お、お母様……? おはようございます。どうなさったのですか、そんなに怖い顔で……」

「とぼけるんじゃないわよ! お前の世話係のアルテとかいう娘よ! 部屋にもいない、厨房にもいない、どこを探してもいないじゃない!」


 夫人がベッドサイドまで詰め寄り、エリーゼの肩を揺さぶる。


「隠しているんでしょう! あの娘はどこへ行ったの!」

「い、痛い、です……!」


 エリーゼは顔を歪めた。演技ではない、本当に痛いのだ。

 親の爪が肉に食い込む痛み。

 けれど、その痛みのおかげで頭は冷えていた。


(ああ、やっぱりこの人たちは、私を愛してなんていない)


 昨日までの恐怖が、静かな諦めと軽蔑に変わっていく。

 エリーゼは涙目で夫人の手首を掴み、枕の下からくしゃくしゃになった紙切れを取り出した。


「わ、私にも分からないのです。朝起きたら、姿が見えなくて……これだけが、置いてあって……」

「手紙?」


 夫人は紙切れを奪い取るようにひったくった。

 そこには、ミミズがのたうつような字で、こう書かれていた。


『奥様が怖いです。殺されるかもしれない。もう無理です。ごめんなさい。田舎に帰ります』


 夫人の視線が文字を追うにつれ、その表情が怒りから嘲笑へと変わっていく。

 最後には、鼻で笑って紙切れを床に捨てた。


「……ふん、あさましい。所詮は育ちの卑しい娘ね。少し脅しただけで尻尾を巻いて逃げ出すなんて」

「そ、そうですね……私も、無責任だと憤っていたところです」


 エリーゼは震える声で調子を合わせる。


「私の大事なお披露目が近いのに、逃げ出すなんて……」

「まあいいわ。あんな使えない娘、最初から必要なかったのよ」


 夫人は興味を失ったように扇子を開いた。

 彼女の中でのアルテへの疑念が、臆病な田舎娘という印象に上書きされた瞬間だった。


 ただし、疑念の芽は摘んでおくに限る。

 故郷へ逃げ帰ったのなら、すぐに場所も分かるだろう。追う手間が省ける。

 夜会が終わってから、ゆっくりと田舎を探させて始末すればいい。


「お前は余計なことを考えず、夜会のことだけに集中しなさい。アレクシス殿下の前で恥ずかしい振る舞いをしたら、ただじゃおかないからね」

「はい、お母様……肝に銘じます」


 エリーゼは殊勝に頭を下げた。

 両親が部屋を出て行き、足音が遠ざかるのを確認してから、彼女は深く息を吐いた。


 心臓が破裂しそうだった。

 でも、騙せた。

 あの鋭いお母様を、私の嘘で欺いたのだ。


(お姉様……私、できたよ)


 床に落ちた手紙を拾い上げる。

 それは姉が命がけで渡してくれた、勝利への切符だ。

 エリーゼはそれを丁寧に折りたたみ、胸に抱いた。



 *



 一方その頃、王都の片隅にあるマルタの家。

 アルテは、古びた木箱の中身をテーブルに広げていた。


「これですべてですか、マルタ」

「ええ、アルテ様。貴女様が幼い頃から書き溜めていた練習帳、殿下とのやり取りの下書き、そして日記……すべて、私がこっそりと保管しておりました」


 老侍女マルタが、震える手でお茶を差し出す。

 テーブルの上には、十九年間の「証拠」が山積みになっていた。


 アルテは一通の手紙を手に取る。

 それは、アレクシスから贈られた難解な哲学書への感想をしたためたものだ。

 流麗で力強い筆跡。

 論理的で、知性に溢れた文章。

 これを書いたのが、病床に伏していた妹でないことは、誰の目にも明らかだろう。


「これで、私が『完璧なエリーゼ』の中身であったことは証明できる」


 アルテは冷徹な目で資料を見つめた。

 だが、これだけでは足りない。

 公爵家を完全に断罪するには、もう一つ、決定的な一手が必要だ。


「……賭けね。でも、勝算はある」


 アルテは立ち上がり、窓の外を見た。

 明日は決戦の夜会。

 王都の空は高く、どこまでも澄み渡っていたが、アルテの瞳には嵐の気配しか映っていなかった。



 *



 そして、運命の日がやってきた。


 ヴァレンシア公爵邸は、朝から戦場のような慌ただしさに包まれていた。

 王宮へ向かうための馬車が磨き上げられ、何人もの侍女が衣装部屋を行き来している。


 エリーゼは、大きな姿見の前に立たされていた。

 纏うのは、純白のドレス。

 シルクの光沢が、彼女の儚げな美しさを際立たせている。

 髪には金剛石のティアラ。首元には大粒の蒼玉。

 それはまるで、生贄を飾るための装飾のようだった。


「いいこと、エリーゼ」


 背後でコルセットの紐を締め上げながら、母が耳元で囁く。

 甘く、粘着質な声。


「余計なことは喋らず、ただ美しく微笑んでいなさい」

「……はい、お母様」

「もし粗相をしたら……分かっているわね?」


 母の手が、エリーゼの二の腕を強く掴む。

 脅し。

 恐怖による支配。

 けれど、今日のエリーゼは、鏡の中で青ざめながらも、瞳の光だけは失っていなかった。


(大丈夫。私にはお姉様がついている)


 支度が整い、エリーゼは両親と共に玄関ホールへと向かった。

 父は満足げに娘の姿を眺め、ふんと鼻を鳴らす。


「見た目だけは完璧だ。中身が空っぽだとは、誰も思うまい」

「ええ、本当に。器としては上出来よ」


 二人は談笑しながら、エリーゼを挟んで馬車へと乗り込む。

 重厚な扉が閉まり、馬車が動き出す。

 石畳を叩く馬蹄の音が、処刑場へ向かう太鼓の音のように響く。


 エリーゼは窓の外を見つめた。

 流れていく王都の景色。

 そのどこかに、姉がいるはずだ。

 同じ月を見上げ、同じ場所を目指して、闇を駆けているはずだ。


(待っていて、アレクシス様。お父様、お母様)


 エリーゼは膝の上で手を重ねた。

 白手袋の下、震える指先を必死に抑え込む。


(今夜、すべてが終わる。そして、すべてが始まるの)



 *



 同時刻。

 王宮の裏門付近。

 招待客の馬車が列をなす表門とは違い、こちらは物資の搬入や使用人の出入り口となっている。


 闇に紛れ、一台の粗末な辻馬車が止まった。

 降りてきたのは、フードを目深に被った人影。

 アルテだ。


 ドレスなど着ていない。

 身に纏っているのは、マルタが用意してくれた、シンプルだが仕立ての良い紺色の侍女服。


「……行くわよ」


 アルテは懐の膨らみを確かめる。

 証拠品。そして、胸の奥で燃え盛る復讐の炎。


 警備の兵士の隙を見て、彼女は影のように門をすり抜けた。

 かつて王宮には何度も通った。

 どの通路がどこへ繋がっているか、使用人が通るルートはどこか、すべて頭に入っている。

 十九年間の経験が、今、彼女の最大の武器となっていた。


 目指すは、大広間の裏手。

 王太子と、偽りの婚約者、そして罪深き両親が揃う、その瞬間。


 遠くから、舞踏会の音楽が漏れ聞こえてくる。

 優雅なワルツの調べ。

 それは、残酷な断罪劇の開幕を告げる音だった。


 二人は、それぞれの道を行く。

 一人は光の中、偽りの宝石を纏って。

 一人は闇の中、真実の刃を抱いて。


 交わる場所はただ一つ。

 王太子アレクシスの御前。


 姉妹の、そして公爵家の運命を決する夜が、今、幕を開ける。

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