第6話
夜の帳が下り、屋敷は静寂に包まれていた。
エリーゼの寝室には、蝋燭の火が揺らめいている。
豪奢な天蓋付きベッドの上で、エリーゼは膝を抱えて座り込んでいた。
昼間の王太子アレクシスの訪問。
その記憶が、鋭い棘となって彼女の胸を突き刺し続けている。
「……ごめんなさい」
誰にともなく、謝罪の言葉が漏れる。
アレクシスの冷たい視線。
両親の失望した顔。
そして何より、見知らぬ「代理の方」への申し訳なさ。
(十九年間も私の代わりに完璧に振る舞ってくれたのに。私はたった一度の顔合わせすら、まともにこなせなかった)
エリーゼは自分の手が震えているのを見つめた。
何も知らない。何もできない。
自分はただ、温かい部屋で守られていただけの無知な娘だ。
体調の良い日に限っては貴族令嬢としての教養を教わることもあった。自分はベッドの上で、だったが。
教わったマナーも、見せられた踊りも、実践した経験は一度も無い。
そんな自分が、公爵家の名誉や王太子の婚約者という重責を背負えるはずがない。
「……アルテさん」
部屋の隅で、静かに片付けをしていた侍女に声をかける。
眼鏡をかけた、地味で目立たない娘。
けれど、彼女の手際は驚くほど良く、その佇まいには不思議な安心感があった。
「はい、お嬢様」
アルテが手を止め、振り返る。
眼鏡の奥の瞳は、どこか冷たく、けれど深く澄んでいるように見えた。
「私、やっぱりダメみたい。お父様たちの言う通り、私は……出来損ないだわ」
「……なぜ、そう思われるのですか」
「だって、私の代わりをしてくれた方は、もっと立派だったのでしょう? 私なんかよりずっと、エリーゼという名に相応しかったのでしょう?」
涙が再び溢れそうになる。
憧れと、劣等感。
会ったこともない完璧な虚像に、エリーゼは押しつぶされそうだった。
アルテは無言でエリーゼを見つめていた。
その沈黙が、奇妙に長く感じられた。
やがて、彼女は小さく溜息をつき、洗面台の方へと歩いていった。
「お嬢様。少し、よろしいですか」
「え?」
アルテは水差しから盥に水を注ぐと、それを抱えてエリーゼの近くへ戻ってきた。
そして、静かな動作で部屋の扉に鍵をかけた。
カチャリ。
乾いた金属音が、部屋の空気を変えた。
「ア、アルテさん……?」
「驚かないでください。そして、大きな声を出さないで」
アルテの声は、田舎育ちの侍女のものではなかった。
凛として、有無を言わせぬ威厳に満ちた声。
エリーゼは思わず息を呑む。
アルテは眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。
そして、盥の水に両手を浸し、自らの顔を洗い始めた。
バシャリ、バシャリ。
水音が響くたび、盥の水が黒く濁っていく。
描かれたそばかすが消え、わざとらしく塗られたくすんだ肌色が落ちていく。
さらに彼女は、濡れた手で髪を梳いた。
黒く塗り固められた髪から、染料が溶け出していく。
黒い水滴が滴り落ちるたび、その下から現れたのは――
「……っ!」
エリーゼは言葉を失った。
喉が引きつり、悲鳴さえ出ない。
月の光に濡れて輝く、流れるような銀髪。
陶器のように白く滑らかな肌。
そして、自分と瓜二つの顔。
アルテがタオルで顔を拭い、濡れた髪をかき上げた。
その仕草の優雅さは、昼間のアレクシスが求めていた完璧な令嬢そのものだった。
「……嘘……」
エリーゼの声が震える。
目の前にいるのは、鏡の中の自分か。
それとも、幻か。
「驚かせてごめんなさい、エリーゼ」
アルテは静かに微笑んだ。
その笑顔は、どこか寂しく、けれど強烈な意志を宿していた。
「私が、その『代理』よ」
「あなたが……? でも、顔が……私と……」
「そう、同じ顔。なぜなら私たちは双子だから」
アルテは、エリーゼの隣に腰を下ろした。
同じ顔をした二人の少女が並ぶ。
まるで、世界が混乱したかのような光景。
「双、子……」
エリーゼは茫然と繰り返す。
双子は不吉。
幼い頃、御伽噺で聞いたことのある忌避すべき存在。
「十九年前、私たちは一緒に生まれたの。でも、この国で双子は許されない。本来なら、先に生まれた私は処分されるはずだった」
アルテは淡々と語り始めた。
まるで他人の物語を読み聞かせるように。
「でも、あなたはとても弱かった。いつ命の火が消えるか分からないほどに。だから両親は私を生かしたの。あなたの『予備』として」
「予備……」
「そう。あなたに万が一のことがあった時のための。そして、あなたが回復するまでの間、公爵家の娘としての体面を保つための代用品」
アルテの視線が、虚空を彷徨う。
「私は名前を与えられなかった。『私はエリーゼだ』と教え込まれ、信じ込まされて育ったわ。十九年間、来る日も来る日も、厳しいレッスンに耐えてきた。いつか両親に認められると信じて。愛されると信じて」
エリーゼの脳裏に、両親の言葉が蘇る。
『忠誠心の厚い使用人が、代理を務めてくれた』
『役目を終えて、故郷へ帰った』
「……嘘、だったの?」
エリーゼの目から涙がこぼれ落ちた。
「お父様とお母様は……嘘をついていたの?」
「ええ。忠誠心なんてない。私は騙されていたのよ。そしてあなたが回復した十九歳の誕生日の夜、私は用済みだと宣告された」
アルテは自分の腕の袖をまくり上げた。
そこには、まだ癒えきっていない生々しい傷跡が残っていた。
地下牢の石壁で擦りむいた跡。
看守に掴まれた痣。
「『故郷へ帰った』。ふふ。帰るって、どこへ? 私はここで生まれた。私は……地下牢に捨てられたの」
エリーゼは息を呑み、口元を手で覆った。
あまりに酷い。あまりに残酷だ。
「暗闇の中で三ヶ月。腐りかけのパンと水だけで生き延びた。名前も、尊厳も、婚約者も、すべて奪われて」
アルテの声には、燃えるような怒りが滲んでいた。
けれど、その瞳は決してエリーゼを責めてはいなかった。
責めるべき相手が誰なのか、彼女は明確に理解していたからだ。
「そんな……そんなこと……」
エリーゼはアルテの腕に触れようとして、ためらった。
自分の真っ白で綺麗な手と、傷だらけの姉の手。
その対比が、あまりにも残酷だった。
自分が温かいベッドで眠り、両親に可哀想なエリーゼと慈しまれていた間、この姉は――自分の身代わりとして社交界の矢面に立ち、最後にはゴミのように捨てられたのだ。
「ごめんなさい……!」
エリーゼはアルテに抱きつき、泣きじゃくった。
「ごめんなさい、お姉様……! 私のせいで……私が弱かったせいで……!」
「……謝らないで。あなたのせいじゃない。もしもあなたが病に負けていたら、きっと私が『エリーゼ』のままだったわ……そんなこと今更考えたくもないけれど」
アルテは硬直していた身体を緩め、そっと妹の背中に手を回した。
華奢で、折れそうな背中。
自分と同じ血が流れている、たった一人の片割れ。
「悪いのはあなたじゃない。私たちを道具として扱った、あの人たちよ」
アルテの声が低くなる。
地下牢で培った、復讐者の響き。
「エリーゼ。私は許さない。私の十九年間を奪い、私を殺そうとした公爵家を。そして、私たちを人間扱いしなかった両親を」
アルテは、エリーゼの肩を掴み、身体を離した。
濡れた銀髪の間から覗く瞳が、射抜くように妹を見つめる。
「私は復讐する。この家を滅ぼし、両親に相応の報いを受けさせる。……あなたは、どうする?」
エリーゼは涙に濡れた顔を上げた。
復讐。
穏やかな彼女の人生には、一度も存在しなかった言葉。
けれど。
彼女は思い出した。
アレクシスの冷徹な目。
両親の、自分を罵る声。
彼らが愛していたのは「エリーゼ」という娘ではなく、「公爵令嬢」という役目だった。
そして何より、目の前の姉の傷跡。
これが、両親の正体だ。
(許せない……!)
エリーゼの心にも、小さな、けれど確かな炎が灯った。
これまでずっと感じていた違和感。
両親の言葉の端々に感じる冷たさ。
そのすべての答えが、ここにあった。
「……私に、何ができる?」
エリーゼは震える声で尋ねた。
アルテの表情が和らぐ。
それは、初めて見せる姉としての顔だった。
「協力して。私が影となり、あなたを支える。二人で一人の『完璧なエリーゼ』を演じるの」
アルテは立ち上がり、姿見の前へと歩いた。
エリーゼもそれに続く。
鏡の中に、二人の銀髪の少女が並んで映る。
光と影。
表と裏。
けれど、今は二人で一つだ。
「今日から私が教えるわ。歩き方、話し方、微笑み方、王太子の好み、社交界のルール……私の十九年間のすべてを、あなたに叩き込む」
アルテは鏡の中のエリーゼを見据えた。
「泣いている暇はないわよ、エリーゼ。次の夜会まで時間がない。それまでに、あなたを『王太子が無視できないレディ』に仕立て上げる。そこで仕掛けるわ」
「……はい!」
エリーゼは涙を拭い、鏡の中の自分――そして姉を見つめ返した。
「やります。私、お姉様の力になりたい。もう、守られるだけの私じゃない!」
「いい返事ね」
アルテはニヤリと笑った。
それはかつての聖女のような微笑みではなく、悪戯を企む少女のような、生き生きとした笑顔だった。
その夜から、奇妙で過酷な特訓が始まった。
教師は侍女に扮した姉。生徒は公爵令嬢の妹。
「背筋が曲がってる! 顎を引いて!」
「は、はいっ!」
「歩幅が広すぎるわ。ドレスの裾を踏まないギリギリのラインを意識して」
「こ、こうですか?」
「違う、もっと優雅に。白鳥が水面を滑るように!」
深夜の密室。
アルテの指導は容赦がなかった。
長年の鬱憤を晴らすかのように厳しく、けれど的確だ。
エリーゼは必死に食らいついた。
足は豆だらけになり、筋肉痛で悲鳴を上げたが、音を上げることはなかった。
隣には、もっと過酷な運命を生き抜いてきた姉がいるのだから。
二人のエリーゼによる、公爵家への反逆。
その歯車が、静かに、しかし確実に回り始めた。
*
数日後。
公爵夫人の執務室。
ヴァレンシア公爵夫人は、書類の山に囲まれて苛立たしげにペンを走らせていた。
夜会の準備、招待客のリスト作成、衣装の手配。
本来なら娘に任せておけばよかった雑務が、すべて自分に降りかかってきている。
「まったく……あの子ったら、いつになったら役に立つのかしら」
夫人はペンを投げ出し、紅茶に口をつけた。
最近、エリーゼの様子が少し変わった気がする。
以前のようなオドオドした態度が消え、どこか芯の通った眼差しをするようになった。
部屋からピアノの音が聞こえることもあるが、その旋律は驚くほど上達している。
「双子の言い伝え通り、あの子に才能があったのかしらね? それとも……」
ふと、夫人の脳裏にある疑念が過ぎった。
エリーゼの傍にいつも控えている、あの新しい侍女。
黒髪に眼鏡の、地味な娘。
名前は、確かアルテと言ったか。
「……アルテ?」
その名前を口にした瞬間、妙な引っ掛かりを覚えた。
廊下ですれ違った時の、あのごく自然な身のこなし。
使用人にしては洗練されすぎている所作。
そして、眼鏡の奥から覗く、あの瞳の形。
(どこかで……見たような……)
夫人は眉間の皺を深くした。
……まさか、ありえない。
あの不吉な娘は地下牢で朽ち果てているはずだ。
鍵は夫が管理しているし、厳重な見張りもいる。
だが、一度芽生えた疑念は、黒い染みのように心に広がっていく。
「……おい」
夫人は呼び鈴を鳴らした。
すぐに家令が入ってくる。
「お呼びでしょうか、奥様」
「『地下』の様子はどう?」
「は。変わりございません。厳重に施錠されております」
淀みなく答える家令に、夫人は満足そうに頷く。
「ならいいわ。それからあの新しい侍女……アルテの素性を調べなさい」
「アルテ、でございますか? 確か、人手不足で急遽雇い入れた田舎娘かと」
「ええ、そうね。でも……念のためよ」
夫人の目は、爬虫類のように細められた。
「出身地、前の勤め先、家族。すべて洗い出しなさい。……少しでも怪しい点があれば、すぐに報告するのよ」
「承知いたしました」
家令が退室した後、夫人は窓の外を見つめた。
西棟の窓には、今日もカーテンが引かれている。
「もしも、あの子が逃げ出して、あそこに入り込んでいるとしたら……」
夫人は扇子をパチリと閉じた。
その音は、まるで処刑台の刃が落ちる音のように、冷たく響いた。
「ただではおかないわよ。不吉な双子め」




