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名もなきエリーゼのために  作者: 秋月アムリ


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第5話

 窓から差し込む陽光は、埃の舞う古びたカーテンに遮られ、部屋の中央までは届かない。

 薄暗い部屋の奥、豪奢な装飾が施された椅子に座る人影が、ゆっくりと動いた。


「……誰?」


 その声は、触れれば壊れてしまいそうなほど細く、頼りなかった。

 アルテは呼吸を止めたまま、その姿を見つめる。


 白い寝間着を纏った少女が、こちらを振り返った。

 アルテの足元が、ぐらりと揺らぐような錯覚を覚える。

 そこにいたのは、鏡に映った自分自身――いや、かつての自分だった。


 艶やかな銀色の髪。

 少し垂れ気味の大きな瞳。

 鼻梁の形から顎のラインに至るまで、すべてがアルテと瓜二つだ。


 けれど、決定的に違うものが一つだけあった。

 生命力だ。

 少女の肌は陶器のように白く、血管が透けて見えるほど薄い。

 頬は削げ落ち、大きな瞳だけがギョロリと異様な存在感を放っている。

 十九年間、太陽の下を歩くこともなく、ただベッドの上だけで呼吸をしてきた生きた人形。

 それが、本物のエリーゼだった。


(これが……私の片割れ)


 アルテは自身の胸の奥で、ドロリとした感情が渦巻くのを感じた。

 憎しみか、憐れみか。

 自分からすべてを奪った元凶が、これほどまでに弱々しい存在だという事実に、拍子抜けすると同時に苛立ちが募る。


「……お初にお目にかかります。本日よりこちらの担当となりました、侍女のアルテでございます」


 アルテは深く頭を下げ、作り込んだ田舎育ちの侍女の声を出した。

 眼鏡の奥の瞳を伏せ、背中を丸める。


「新しい、侍女さん……?」


 エリーゼが瞬きをする。

 その瞳には、警戒心など欠片もない。

 あるのは純粋な好奇心と、人を疑うことを知らない無防備な輝きだけだ。


「まあ、嬉しい。この部屋にはお医者様とお母様以外、滅多に誰も来てくれないの」


 エリーゼは痩せ細った腕を伸ばし、手招きをした。


「近くへ来て、顔を見せてちょうだい」

「……失礼いたします」


 アルテはバケツを置き、ゆっくりと歩み寄る。

 一歩近づくごとに、自分と同じ顔が鮮明になる。

 黒く染めた髪と眼鏡、そして描いたそばかすで偽装してはいるが、骨格までは変えられない。

 バレるかもしれない。

 心臓が早鐘を打つ。


 だが、エリーゼはアルテの顔を覗き込み、ふわりと花が咲くように微笑んだだけだった。


「優しそうな方でよかった。アルテさんというのね」

「は、はい……」

「私はエリーゼ。よろしくね、アルテさん」


 その笑顔の、なんと無垢なことか。

 自分が誰の犠牲の上に生きているのか、露ほども知らない。


 その無知さが、アルテには鋭利な刃物のように感じられた。

 罪がないことが、最大の罪だ。


「それでは、お掃除を始めさせていただきます」


 逃げるように視線を逸らし、アルテは雑巾を手に取った。

 窓枠を拭きながら、背後で揺れる気配に神経を尖らせる。

 エリーゼは椅子に座ったまま、嬉しそうにアルテの背中を眺めていた。


「ねえ、アルテさん。外はどんな様子?」

「……本日は晴天でございます。庭の薔薇が見頃かと」

「まあ、素敵。私ね、ずっと病気でベッドから出られなかったから、外のことを何も知らないの」


 エリーゼの声が弾む。


「でも、お医者様が言っていたわ。もうすぐ完全に治るから、そうしたらあの広いお庭を歩けるようになるって。それに……」


 言葉が途切れ、衣擦れの音がした。

 振り返ると、エリーゼは頬を朱に染め、両手で自身の胸元を押さえていた。


「あの方にも、きちんとお会いできるわ」

「あの方、とは?」

「アレクシス殿下よ。私の……婚約者様」


 雑巾を握る手に力がこもる。

 汚れた水が、指の間からポタリと垂れた。


「……そうでございますか」

「私ね、殿下にお会いするのが少し怖いの。だって私は何も知らないし、何の取り柄もないもの。殿下に相応しい女性になれるかしら」


 エリーゼは不安げに眉を寄せた。

 だがすぐに、表情を明るくして言葉を継ぐ。


「でも、大丈夫。お母様が仰っていたの。私の代わりに、とても忠誠心の厚い方が、私の名代として立派に務めを果たしてくれていたんですって」


 アルテの手が止まった。

 背筋に冷たい電流が走る。


「……名代、でございますか?」

「ええ。私が眠っている間、屋敷の使用人が私のフリをして、社交界に出てくれていたそうなの」


 エリーゼはうっとりと目を細め、まるでお伽噺を語るように続けた。


「その方は本当に優秀で、私のために完璧な令嬢を演じきってくれたんですって。お陰で殿下との婚約も整ったし、公爵家の名誉も守られたわ」


(使用人……?)


 アルテの奥歯がギリリと鳴る。

 両親は、そう説明したのか。


 双子の姉という存在そのものを消し去り、ただの優秀な使用人に格下げして。

 血の繋がりさえ否定したのだ。


「その方は今、どうされているのですか?」


 震えを押し殺して尋ねる。

 エリーゼは少し寂しげに首を振った。


「それがね、私が目覚めたと同時に、役目を終えて旅に出たそうなの。故郷へ帰って、静かに暮らしたいと仰って……お礼も言えなかったのが心残りだわ」


 嘘だ。

 すべてが綺麗な嘘で塗り固められている。

 旅に出た?

 地下の暗闇に捨てられ、腐ったパンを齧っていたあの時間が、両親の口からは故郷への旅と語られているのか。


 吐き気がした。

 この純白の部屋の空気が、猛毒のように肺を焼く。


「……素晴らしい献身ですね」


 アルテは乾いた声で相槌を打つしかなかった。


「ええ、本当に。だから私、決めたの。その方の献身を無駄にしないように、私が頑張らなきゃって。その方が作ってくれた『完璧なエリーゼ』の場所を、私がしっかり守り抜くの」


 エリーゼは決意に満ちた瞳で拳を握った。

 その健気さが、今のアルテには滑稽な喜劇に見えた。


 守れるものか。

 お前のような温室育ちのひな鳥に、あの猛獣のような社交界が。

 そして何より、あの冷酷な王太子が。


 その時、廊下がにわかに騒がしくなった。

 バタバタと走る足音、使用人たちの焦った声。

 やがて、扉が乱暴にノックされた。


「エリーゼ! 準備はできているか!」


 父の声だ。

 エリーゼがビクリと肩を跳ねさせる。


「お、お父様……?」

「アレクシス殿下が急遽お見えになった。近くまで来られたついでに、病み上がりの婚約者を見舞いたいそうだ」


 扉が開き、父と母が雪崩れ込んでくる。

 二人の顔色は悪い。


 予定外の来訪に狼狽しているのは明らかだった。

 まだ本物の教育は完了していない。

 そんな状態で、あの鋭い王太子の前に晒すことへの恐怖。


「えっ、い、今からですか!?」

「そうだ。あと数分でここへいらっしゃる。おい、そこの侍女!」


 父の視線がアルテに向いた。

 一瞬、その目が訝しげに細められる。

 アルテは咄嗟に深く頭を下げ、顔を隠した。


「エリーゼの髪を整えろ! 服はそのままでいい、寝間着のほうが病弱さを演出できる。急げ!」

「は、はい!」


 アルテは素早くエリーゼの背後に回った。

 櫛を手に取り、銀の髪に指を通す。

 細く、絹のように柔らかい髪。

 栄養が行き渡っていないのか、少しパサついている。


(殿下の好みは、きっちりと結い上げたアップスタイルではなく、ハーフアップよ)


 手が勝手に動いた。

 十九年間、王太子に愛されるために叩き込まれた技術。

 鏡の前でエリーゼの髪を掬い上げ、手早くリボンで留める。


 顔色が悪い頬を軽くつねって血色を良くし、唇に紅をさす。

 わずかな時間で、病人の顔を儚げな美少女へと変貌させた。


「……へえ」


 母が感心したような声を漏らす。

 だが、すぐに我に返り、エリーゼの肩を掴んだ。


「いいこと、エリーゼ。余計なことは喋らないのよ。聞かれたことだけに短く答えなさい。あとは微笑んでいればいいわ」

「は、はい、お母様……」

「粗相があったら承知しないわよ」


 母の爪がエリーゼの肩に食い込む。

 エリーゼは痛みに顔を歪めたが、声を上げることはできなかった。

 怯えた瞳。

 小刻みに震える指先。


 その様子を、アルテは部屋の隅に控えて冷ややかに見つめていた。

 可哀想なエリーゼ。

 両親にとって、貴女もまた、ただ配役を演じる女優でしかないのだ。


「殿下がいらっしゃいました」


 従僕の声が響き、扉が大きく開け放たれた。

 空気が変わる。

 支配者の持つ、特有の圧迫感。


 カツ、カツ、と硬質な足音と共に、長身の青年が部屋に入ってきた。

 王太子アレクシス。

 輝くような金髪に、彫刻のように整った顔立ち。

 その瞳は氷河のように青く、冷たい。


 アルテにとっては、見飽きた顔であり、かつて恋焦がれ、今は憎悪の対象である男。


「……やあ、エリーゼ。気分はどうだ」


 アレクシスの声は、甘やかで優しかった。

 だが、アルテは知っている。

 その目の奥が、まったく笑っていないことを。

 彼は部屋の中を見回し、値踏みするように視線を巡らせた。

 そして、椅子に座るエリーゼを見下ろす。


「で、殿下……お初に、お目に……あ、いえ、お久しぶりでございます」


 エリーゼは慌てて立ち上がろうとして、足をもつれさせた。

 ガタン、と椅子が音を立てる。


「きゃっ!」


 派手に転びそうになったところを、父が強引に支えた。

 無様な光景だ。

 かつてのエリーゼ(アルテ)なら、ドレスの裾捌き一つ乱さずに優雅なカーテシーを決めていただろう。


 アレクシスの眉が、わずかに、本当にわずかにピクリと動いた。

 失望の色。


「……無理に立たなくていい。病み上がりなのだろう」


 彼は手を貸そうともせず、一定の距離を保ったまま言った。

 汚いものに触れるのを避けるように。


「ありがとう……ございます……」


 エリーゼは顔を真っ赤にして縮こまる。

 アレクシスは興味なさげに窓の外へ視線をやった。


「先日贈った詩集は読んだかい? 君が好むと思って選んだのだが」


 それは、以前の夜会でアレクシスとアルテが、哲学について語ったことを受けての贈り物だった。

 だが、本物のエリーゼがそれを知るはずもない。


「え……あ、あの……」


 エリーゼが助けを求めるように母を見る。

 母は青ざめて目を逸らす。


「その……難しくて、まだ……」

「そうか」


 アレクシスは短く切り捨てた。

 会話が続かない。

 当然だ。

 彼が求めているのは、彼を引き立てる優秀さを持ち、対等に知的な会話ができるパートナーである。ただ守られるだけの愛玩人形ではない。


「君は、変わったな」


 アレクシスの冷たい一言が、静寂に落ちた。

 エリーゼがビクリと身を竦める。


「まるで別人のようだ」

「っ!」

「以前の君は、もっと聡明で、凛としていた。病は、人の魂まで蝕むものなのか」


 それは、事実上の宣告だった。

 お前には価値がない、という冷酷な評価。

 エリーゼの目から涙が溢れ出す。


「も、申し訳……ございません……」

「謝罪など求めていない。回復に努めるといい。……元通りにな」


 アレクシスはそれ以上、エリーゼを見ようともしなかった。


「行くぞ」


 従者に声をかけ、踵を返す。

 その去り際、彼がふと、部屋の隅に控えるアルテのほうを一瞥した気がした。


 眼鏡と地味な化粧で隠した顔。

 気づかれるはずはない。

 だが、その氷のような視線が肌を掠めた瞬間、アルテは鳥肌が立つのを感じた。


 扉が閉まる。

 嵐が過ぎ去った後のような、重苦しい沈黙が残された。


「……う、うぅ……」


 エリーゼが顔を覆って泣き崩れる。


「どうして……私、頑張ったのに……」

「泣くんじゃない!」


 父の怒声が飛んだ。


「なんて無様な態だ! 殿下が呆れておられただろうが!」

「お前がしっかりしないからよ! こんな泥を塗るような真似をして……!」


 母もヒステリックに叫ぶ。

 その身勝手さに、アルテは吐き気を堪えて俯いた。


 エリーゼは両親に罵倒されながら、小さく丸まって泣き続けている。

 その背中は、あまりにも小さく、脆かった。


(分かったでしょう、エリーゼ)


 アルテは眼鏡の位置を直しながら、冷めた瞳でその光景を見つめた。


(これが現実よ。忠誠心なんてない。愛なんてない。あるのは、役割を果たせるかどうかという、冷徹な査定だけ)


 両親も、王太子も、誰もエリーゼ自身を見ていない。

 彼らが見ているのは公爵令嬢という記号であり、王太子妃という機能だ。


 その事実に気づかず、親の愛を信じ、王太子の愛を夢見ていた妹。

 彼女の硝子細工のような心が、今、音を立ててヒビ割れていく。


 だが、完全に壊れてしまっては困る。

 彼女には、共犯者になってもらわなければならないのだから。


 両親が怒り心頭で部屋を出て行った後、アルテはゆっくりとエリーゼに近づいた。

 そして、震える肩にそっと手を置く。


「……お嬢様」

「アルテさん……私、私……」


 エリーゼが縋るようにアルテの腰に抱きついた。

 涙でエプロンが濡れていく。


「怖かった……殿下の目が、氷みたいに冷たくて……お父様たちも、あんなに怖い顔をして……」

「大丈夫です。今は、泣いていいのですよ」


 アルテは優しく背中を撫でた。

 その手つきは慈愛に満ちているようで、その実、獲物を絡め取る蜘蛛のように慎重だった。


(さあ、絶望なさい。そして、その絶望を私に頂戴)


 姉妹の再会は、涙と偽りの中で幕を開けた。


 アルテは泣きじゃくる妹を見下ろしながら、その奥底で黒い炎を燃え上がらせていた。

 この透明で無垢な妹を、復讐の武器に仕立て上げるための計画を、静かに練り上げながら。

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