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名もなきエリーゼのために  作者: 秋月アムリ


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第4話

 目覚めは、古びた毛布の匂いと共に訪れた。


 アルテは重たい瞼を持ち上げる。

 視界に飛び込んできたのは、ひび割れた天井と、朝陽に舞う埃の粒。


 地下牢の湿った闇ではない。

 微かに耳へ届く小鳥のさえずりと、通りを行き交う荷馬車の音が、ここが地上の世界であることを告げていた。


(生きてる……)


 肺いっぱいに吸い込んだ空気は、乾いていて温かい。

 アルテは上体を起こそうとして、全身の軋みに顔をしかめた。


 身体が悲鳴を上げている。

 昨夜、限界を超えて王都を駆け抜けた代償だ。


「お目覚めですか、お嬢様」


 部屋の隅、暖炉の前で鍋をかき混ぜていたマルタが振り返る。

 その目には、安堵と痛ましさが入り混じった涙が浮かんでいた。

 彼女はすぐさま湯気の立つカップを運び、アルテの冷えた指に握らせる。


「温かいヤギのミルクです。蜂蜜を少し入れました」

「ありがとう、マルタ」


 一口啜ると、甘い熱が喉を伝って胃の腑に落ちた。

 凍りついていた内臓が、ゆっくりと活動を再開する。

 アルテはカップを両手で包み込み、深く息を吐いた。


 ふと顔を上げると、マルタが痛ましげな表情で立ち尽くしている。

 その視線は、アルテの顔と、腕に刻まれた無数の傷跡に釘付けになっていた。


「エリーゼお嬢様……一体、何があったのですか。昨夜のあのお姿といい、まるで戦場から逃げてこられたような……。公爵様は、婚約発表の準備でお忙しいはずでは」


 アルテはカップを膝に置き、静かに首を横に振った。


「私はエリーゼではないらしいわ」

「え……?」

「身につけた教養も、婚約者も、私が歩んできた道のりは、最初から私のものではなかったの。私はただの代用品だったのよ、マルタ」


 アルテは淡々と語り始めた。

 誕生日の夜に突きつけられた真実。

 地下の暗闇で知った、十九年間の虚構。

 自分は病弱な双子の妹が回復するまでのつなぎ(・・・)であり、用済みになった瞬間、用済みとばかりに捨てられたこと。


 言葉を重ねるごとに、マルタの顔からは血の気が引いていく。

 やがてその老いた手は、怒りにわななき、握りしめられた。


「あんまりです……っ! あんまりではありませんか!」


 マルタの悲痛な叫びが、狭い部屋に響く。


「あんなに、あんなに努力なさっていたのに! 小さな頃から、血の滲むようなレッスンに耐えて……誰よりも公爵家の娘として、立派に振る舞ってこられたのは貴女様です! それを、道具扱いだなんて……!」


 老女の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。

 それは、アルテが地下牢で流し尽くし、もう枯れ果ててしまった涙の代わりだった。


 それを見て、アルテが感じたのはまず安堵だった。やはりマルタは知らなかった、という安堵だ。

 彼女はアルテが幼い頃に、別の家で庭師をしていた夫の転属に付いてくる形で公爵家の門を叩いた。

 そしてアルテが十五歳の頃に、老齢を理由に引退したのだった。

 マルタはエリーゼ……アルテが「産まれた」ときのことは知らないはずだと思っていた。だから彼女を頼ったのだ。


 自分のためにこれほど泣いてくれる人がいる。

 その事実が、凍りついた心をわずかに溶かす。


「泣かないで、マルタ。私はもう泣くのはやめたの」


 アルテはベッドから降り、泣き崩れるマルタの肩に手を置いた。

 その瞳には、かつての儚げな令嬢の面影はない。

 地獄を見てきた者だけが持つ、冷たく、強固な光が宿っていた。


「私は生き延びた。そして、このまま終わらせたりはしない。……だから」


 アルテはマルタの涙を指で拭い、真っ直ぐに見つめた。


「ねえマルタ。もう私は『エリーゼお嬢様』ではないわ」

「ですが……」

「アルテ。それが私の名前よ」


 老女の瞳を真っ直ぐに見つめる。

 マルタは一瞬戸惑ったように視線を彷徨わせたが、やがて皺だらけの手でアルテの頬を優しく撫でた。


「……承知いたしました。アルテ様」


 その呼び名が、新しい自分を肯定してくれたようで、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 アルテはベッドから降り、壁に掛けられた小さな鏡の前に立った。


 そこに映るのは、かつての社交界の華ではない。

 伸び放題でボサボサになった銀髪。

 頬はこけ、目の下には濃い隈。

 首筋や腕には、地下牢でついた無数の擦り傷と青痣。

 けれど、その瞳だけは。

 かつて人形のように空虚だった頃とは違う、獣のような生気を宿していた。


「ひどい顔」

「いいえ。とても、強くなられました」


 マルタが背後からショールをかけてくれる。


「それで、これからどうなさるおつもりですか。このままここに隠れ住むのは危険です。旦那様は……執念深い方ですから」


 その言葉に、アルテは鏡の中の自分と睨み合った。

 そう、逃げ切ることは不可能だ。

 ヴァレンシア公爵家の権力は国中に及ぶ。

 手配されれば、たとえ貧民街に隠れ住んだところでやがて特定されるだろう。

 国外への逃亡も、路銀も身分証もない今の状態では自殺行為に等しい。


(逃げる場所なんてない。……なら)


 アルテの脳裏に、地下牢で誓った復讐の炎が蘇る。

 ただ生き延びるだけでは足りない。

 私を捨て、尊厳を踏みにじった彼らに、相応の報いを与えなければ。

 そのためには、敵の懐に飛び込むのが最も安全で、最も危険な最善手だ。


「戻るわ」

「えっ……?」

「公爵邸に戻るの。ただし、エリーゼとしてではなく」


 アルテは振り返り、マルタの裁縫箱を指差した。


「マルタ、黒い染料はある? それと、一番地味な服を」

「まさか……」

「公爵家はいま、王太子妃となる『本物のエリーゼ』のお披露目準備で人手が足りないはず。臨時雇いの侍女なら、素性が多少怪しくても潜り込める」


 狂気の沙汰だと言いたげに、マルタは口元を手で覆った。

 だが、十九年間アルテの傍で仕えてきた彼女には分かっていたのだ。

 この少女が一度決めたら、テコでも動かないことを。

 そして、その瞳に宿る知性が、決して無謀な賭けを選んでいるわけではないことを。


「……分かりました。協力します」


 一時間後。

 狭い部屋には、草木の煮汁の匂いが充満していた。

 (たらい)に張った黒くドロドロした液体を、櫛を使って丁寧に髪に塗り込んでいく。

 冷やりとした感触と共に、ヴァレンシア家の象徴である銀色が塗りつぶされていく。

 それは、公爵令嬢としての過去を自らの手で葬る儀式のようだった。


(さようなら、「エリーゼ」)


 髪を乾かし、鏡を覗き込む。

 そこには、どこにでもいそうな黒髪の少女がいた。


 前髪を重く下ろし、大きな瞳を隠すように眼鏡をかける。

 頬に化粧でそばかすを描き足せば、完成だ。

 華やかさは消え失せ、あとに残ったのは地味で目立たない、風景のような娘。


「名前は……このまま『アルテ』にするわ」


 アルテは鏡に向かって、ぎこちなく召使いのカーテシーを練習した。

 優雅すぎてはいけない。

 背中を少し丸め、視線を伏せ、自信なさげに振る舞う。

 十九年間、完璧を演じ続けてきた演技力が、今度は凡庸を演じるために発揮される。


「……本当によろしいのですか? その染料は、水に浸けると色が落ちるものです。もっと別の、容易に落ちない染料もございますが」


 心配するマルタに、アルテは不敵に笑ってみせる。


「だからこそいいのよ。行ってきます、マルタ」

「どうか……どうか、ご無事で」


 マルタに強く抱きしめられ、アルテは扉を開けた。



 *



 ヴァレンシア公爵邸の裏門は、早朝から物資を搬入する業者と使用人たちでごった返していた。

 数日前まで、正面玄関から馬車で出入りしていた自分が、今は勝手口の列に並んでいる。

 その落差に、奇妙な可笑しさが込み上げてくる。


「次! 名前は?」


 太った家政婦が、帳簿を片手に怒鳴るように尋ねた。

 見たことのない顔だ。

 おそらく、近日の夜会のために雇われた臨時の元締めだろう。

 好都合だ。


「ア、アルテです……」


 アルテは肩を縮こまらせ、小声で答える。


「歳は?」

「二十歳です」

「経験は?」

「田舎の男爵家で、少しだけ……」

「手を見せな」


 言われて、荒れた両手を差し出す。

 地下牢で石壁を削り、泥に塗れた手。

 爪は割れ、指先はささくれ立っている。

 かつて白魚のようだと称えられた手は、今や立派な苦労人の手だった。


「ふん、働き者の手だね。採用だよ。とにかく人手が足りないんだ。猫の手でも借りたいくらいさ」


 家政婦は雑に拇印を押させると、汚れたエプロンを放り投げてきた。


「お前の担当は西棟の掃除と洗濯だ。さっさと着替えて行きな!」


 家政婦は雑に拇印を押させると、使用人の服を放り投げてきた。


「はい、ただちに」


 アルテは短く答え、支給された服を胸に抱いた。

 西棟。

 心臓が早鐘を打つ。

 そこは、かつて自分が一度も足を踏み入れることを許されなかった場所。

 屋敷の奥深く、厳重に閉ざされた「開かずの間」。

 そこに、自分の運命を狂わせた「本物のエリーゼ」がいる。


(どんな顔をして笑っているのかしら)


 私を追い出し、全てを奪い取った女。

 両親の愛を一身に受け、王太子妃の座に就く幸福な娘。

 きっと、勝ち誇った顔で絹のドレスを纏っているに違いない。

 アルテは更衣室で粗末な綿の服に着替えながら、鏡の中の地味な顔に向かって冷たく微笑んだ。


(待っていなさい。あなたのその幸福が、いかに脆いものか教えてあげる)


 黒い靴を履き、眼鏡の位置を直す。

 バケツと雑巾を手に、アルテは廊下へと出た。


 表の華やかさとは裏腹に、西棟へと続く廊下は静まり返っていた。

 窓は厚いカーテンで閉ざされ、空気は澱んでいる。

 すれ違う使用人もいない。

 まるで、そこだけ時間が止まっているかのようだった。


 目的の部屋の前で足を止める。

 重厚なマホガニーの扉。

 中からは物音一つしない。

 アルテは呼吸を整え、ノックをした。


「失礼いたします。お掃除に参りました」


 返事はない。

 留守だろうか?

 いや、病み上がりの令嬢が外出などできるはずもない。

 少しの間をおいて、アルテは静かにドアノブを回した。


 ギィ、と微かな音を立てて扉が開く。

 部屋の中は薄暗かった。

 天蓋付きの大きなベッド、壁一面の本棚、そして窓際に置かれたグランドピアノ。

 豪奢だが、人の生活感が希薄な、まるで博物館のような部屋。


 その部屋の隅、窓際の椅子に、白い影が座っていた。

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