第3話
地下牢に堕ちてから、三ヶ月が過ぎようとしていた。
季節は巡り、地上ではおそらく春の花々が咲き乱れている頃だろう。
だが、この湿った石の棺の中では、時間の感覚すら曖昧になる。
朝と夜の区別は、鉄格子の隙間から差し込まれる食事の回数と、看守役の交代だけが教えてくれた。
アルテは、壁にもたれて冷たい闇を見つめていた。
瑠璃色のドレスは見る影もなく薄汚れ、美貌を飾る装飾はすべて失われた。
けれど、その瞳の輝きだけは、かつての「公爵令嬢エリーゼ」だった頃よりも遥かに強く、鋭く、妖しい光を放っている。
(あと、一押し)
彼女の視線の先には、鉄格子の向こうで落ち着きなく歩き回る人影があった。
新入りのロベルトだ。
三ヶ月前、初めて言葉を交わしたあの若者は、今やアルテの虜となっていた。
アルテはこの三ヶ月、彼を観察し、分析し、完璧にコントロールしてきた。
彼は貴族への憧れが強く、同時に自分の現状に不満を抱いている。
そして何より、悲劇のヒロインに対して異常なほどの庇護欲を見せるタイプだ。
アルテは、彼の前では決して復讐に燃える面を見せなかった。
見せたのは、不当な扱いに涙しながらも、気高く耐え忍ぶ聖女のような姿だけ。
カツ、カツ、と足音が近づいてくる。
ロベルトが、辺りを警戒しながら鉄格子の前に立った。
「……アルテ様」
彼が震える声で呼びかける。
アルテはゆっくりと顔を上げた。
計算された弱々しい微笑みを浮かべる。
「ロベルト……来てくれたのね」
「はい。これを……」
彼が格子の隙間から差し出したのは、硬い黒パンではなく、柔らかい白パンと、包み紙に入った干し肉だった。
囚人には許されない贅沢品だ。
「ありがとう。……でも、無理はしないで。あなたが罰せられたら、私……」
アルテは細い指で彼の手をそっと包み込んだ。
ロベルトの顔が赤く染まるのが、暗がりでも分かった。
接触は最小限に。
けれど、効果は最大限に。
人心掌握術の基本だ。
「俺は、平気です。それより、アルテ様のような方が、こんな場所にいるなんて……やっぱりおかしい」
「公爵家の決定には逆らえないわ。私は……生まれてきてはいけない存在だったの」
「そんなことない!」
ロベルトが格子を強く掴んだ。
「あなたは誰よりも気高く、美しい。俺は……あなたを助けたい」
かかった。
アルテは伏し目がちに涙を一粒こぼしてみせた。
「……嬉しい。でも、ここから出るなんて不可能よ。鍵はお父様が管理しているし、見張りも多いわ」
「俺に任せてください」
ロベルトが熱っぽく語り出す。
「今夜は新月の夜で、見回りが手薄になります。鍵の保管場所も、先輩たちが酒を飲んでいる隙に……」
「ロベルト、まさか」
「ここを出ましょう。俺が手引きします。外に出たら、俺の実家がある村へ……」
彼の夢想には興味がなかったが、アルテは縋るように頷いた。
「あなただけが頼りよ。……私の騎士様」
その一言が決定打だった。
ロベルトは決意に満ちた顔で頷き、準備のために一度持ち場を離れようとした。
――その時だった。
「ほう? 実に感動的な茶番だ」
闇の奥から、低く冷たい声が響いた。
心臓が凍りつくような、聞き覚えのある声。
ロベルトが悲鳴のような声を上げて振り返る。
そこに立っていたのは、数名の兵士を従えたヴァレンシア公爵――アルテの父だった。
「こ、公爵様……!?」
「身の程知らずの鼠が紛れ込んでいるとは思っていたが、まさか我が家の地下牢で恋人ごっこに興じているとはな」
父は侮蔑の眼差しでロベルトを見下ろした。
ロベルトはガタガタと震え、床に崩れ落ちる。
「ち、違います! 俺はただ、あまりにも不憫で……」
「不憫? これが、か?」
父の視線が、ロベルトからアルテへと移る。
その瞳には、娘を見る情など微塵もない。
あるのは、出来の悪い道具を見る苛立ちだけだ。
「おい、その男を連れ出せ」
「はっ!」
兵士たちがロベルトを取り押さえる。
「お許しください! 公爵様! お許しください!」
「地下牢の警備すら全うできん無能はいらん。……処分しろ」
「ひっ……!? いやだぁぁぁ! アルテ様、助け……!」
ロベルトの絶叫が遠ざかっていく。
やがて、重い扉が閉まる音と共に、静寂が戻った。
残されたのは、アルテと父だけ。
「……浅はかな真似を」
父は鉄格子の前まで歩み寄り、冷ややかにアルテを見下ろした。
「看守をたぶらかして脱走か? 十九年かけて仕込んだ媚びる技術を、こんなところで使うとはな」
「……生きるためです」
アルテは睨み返した。
もはや猫を被る必要はない。
「お前は生かされているのだ。私の慈悲によってな」
父は懐から鍵束を取り出し、わざとらしく見せびらかすように鳴らした。
「だが、これ以上の愚行を重ねるなら考えがある。舌を切り落とすか、手足を砕くか……大人しくしていれば、餌くらいは恵んでやるものを」
父は嘲笑を残し、踵を返した。
「無駄な抵抗はやめるんだな。お前は一生、この闇の中で朽ち果てる運命だ」
足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなる。
アルテはその場に座り込んだ。
絶望が、黒い汚泥のように心に広がっていく。
(失敗した……)
三ヶ月かけた計画が、一瞬で水泡に帰した。
唯一の希望だったロベルトは消え、警備は厳重になるだろう。
もう、二度と機会は巡ってこないかもしれない。
「う、ぅ……」
悔し涙が滲む。
父の言う通りなのか。
私はここで、名前も尊厳も奪われたまま、ただの肉塊として死んでいくのか。
エリーゼの代用品として使い潰され、廃棄された道具として。
(嫌だ……そんなの、絶対に嫌だ!)
アルテは唇を噛み締め、膝を抱えた。
疲れ果て、泥のように意識が沈んでいく。
冷たい床で、悪夢のような浅い眠りに落ちた。
――どれくらいの時間が経っただろうか。
カチリ。
微かな金属音が、静寂を破った。
アルテは弾かれたように顔を上げた。
夢か?
いや、確かに聞こえた。
鉄格子の鍵穴が回る音だ。
「……誰?」
警戒しながら問いかける。
だが、返事はない。
人の気配もしない。
ただ、重厚な鉄格子が、わずかに隙間を開けているのが見えた。
(開いている……?)
罠かもしれない。
出た瞬間に兵士に囲まれるかもしれない。
けれど、ここに留まっていても待っているのは緩やかな死だけだ。
アルテは震える足で立ち上がり、音を立てないように鉄格子へ近づいた。
そっと手をかけ、押す。
ギィィ……と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉が開いた。
誰もいない。
見張りも、父の私兵も。
廊下には松明の明かりが揺れているだけだ。
(誰が……? まさか、ロベルトが最後に?)
いや、彼は連行されたはずだ。
ならば、誰か別の協力者が?
今は考えている時間はない。
この不可解な奇跡に縋るしかない。
アルテは裸足で石畳を踏みしめた。
冷たさが足裏から脳天へ突き抜ける。
走れ。
振り返るな。
心臓が早鐘を打つ。
地下牢からの階段を駆け上がる。
一段飛ばしで、息を切らしながら。
十九年間暮らしたこの屋敷の構造は、頭に入っている。
使用人用の裏口なら、警備が手薄なはずだ。
廊下の角を曲がるたび、誰かと鉢合わせする恐怖に身がすくむ。
しかし、屋敷は奇妙なほど静まり返っていた。
まるで屋敷全体が、彼女の脱走を見逃しているかのように。
裏口の扉が見えた。
アルテは迷わずノブを回し、外へと飛び出した。
夜風。
三ヶ月ぶりに肌に触れる外の空気。
土と草の匂い。
見上げれば、吸い込まれそうな星空が広がっていた。
「はっ、はっ、はっ……」
感傷に浸る間もなく、アルテは走り出した。
手入れされた庭園を抜け、高い生垣の隙間を潜り抜ける。
ドレスの裾が枝に引っかかり、破れる音がしたが構わない。
今は一秒でも早く、この呪われた鳥籠から遠くへ。
王都の石畳を、裸足のまま駆ける。
目指す場所は一つ。
かつて公爵家で働き、幼い頃の自分を唯一、人として扱ってくれた老侍女――マルタの家だ。
マルタは数年前に引退し、王都の片隅でひっそりと暮らしているはずだ。
彼女なら、あるいは。
深夜の街は静まり返っていた。
自分の足音と、激しい呼吸音だけが響く。
体力は限界に近い。
三ヶ月の粗末な食事と幽閉生活で、体は衰弱しきっている。
視界が霞み、足がもつれる。
それでも、背中に感じる公爵家の気配――不吉な双子という呪縛から逃れる一心で、足を動かし続けた。
(私は、アルテ。エリーゼじゃない。誰の代用品でもない!)
何度も心の中で叫び、己を鼓舞する。
やがて、貧民街に近い古びた長屋の一角に、見覚えのある小さな家が見えてきた。
あそこだ。
アルテは最後の力を振り絞り、扉の前へ倒れ込むように辿り着いた。
震える手で、扉を叩く。
ドン、ドン、ドン。
「……マルタ、マルタ……!」
掠れた声で名を呼ぶ。
頼む、いてくれ。
もし彼女がいなければ、自分は行き場を失う。
しばらくして、家の中から明かりが漏れ、おずおずと扉が開かれた。
寝間着姿の老女が、ランプを掲げて顔を覗かせる。
「……どなたですか、こんな夜更けに」
皺の刻まれた懐かしい顔。
アルテは涙が溢れそうになるのを堪え、顔を上げた。
ボロボロのドレス、泥だらけの顔。
かつての公爵令嬢の面影はない。
けれど、マルタは息を呑み、目を見開いた。
「ま、まさか……エリーゼお嬢様……?」
その呼び名に、胸が痛む。
けれど、今はまだ訂正する余裕はない。
「マルタ……助けて……」
緊張の糸が切れ、アルテはその場に崩れ落ちた。
温かい腕が、すぐに彼女を支える。
懐かしい、日向のような匂い。
「なんてお姿……! さあ、中へ。早く!」
マルタに抱えられ、家の中へと引きずり込まれる。
扉が閉まり、鍵がかかる音を聞いた瞬間、アルテの意識は深い闇へと落ちていった。




