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名もなきエリーゼのために  作者: 秋月アムリ


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3/10

第3話

 地下牢に堕ちてから、三ヶ月が過ぎようとしていた。

 季節は巡り、地上ではおそらく春の花々が咲き乱れている頃だろう。


 だが、この湿った石の棺の中では、時間の感覚すら曖昧になる。

 朝と夜の区別は、鉄格子の隙間から差し込まれる食事の回数と、看守役の交代だけが教えてくれた。


 アルテは、壁にもたれて冷たい闇を見つめていた。

 瑠璃色のドレスは見る影もなく薄汚れ、美貌を飾る装飾はすべて失われた。

 けれど、その瞳の輝きだけは、かつての「公爵令嬢エリーゼ」だった頃よりも遥かに強く、鋭く、妖しい光を放っている。


(あと、一押し)


 彼女の視線の先には、鉄格子の向こうで落ち着きなく歩き回る人影があった。

 新入りのロベルトだ。

 三ヶ月前、初めて言葉を交わしたあの若者は、今やアルテの虜となっていた。


 アルテはこの三ヶ月、彼を観察し、分析し、完璧にコントロールしてきた。

 彼は貴族への憧れが強く、同時に自分の現状に不満を抱いている。

 そして何より、悲劇のヒロインに対して異常なほどの庇護欲を見せるタイプだ。

 アルテは、彼の前では決して復讐に燃える面を見せなかった。

 見せたのは、不当な扱いに涙しながらも、気高く耐え忍ぶ聖女のような姿だけ。


 カツ、カツ、と足音が近づいてくる。

 ロベルトが、辺りを警戒しながら鉄格子の前に立った。


「……アルテ様」


 彼が震える声で呼びかける。

 アルテはゆっくりと顔を上げた。

 計算された弱々しい微笑みを浮かべる。


「ロベルト……来てくれたのね」

「はい。これを……」


 彼が格子の隙間から差し出したのは、硬い黒パンではなく、柔らかい白パンと、包み紙に入った干し肉だった。

 囚人には許されない贅沢品だ。


「ありがとう。……でも、無理はしないで。あなたが罰せられたら、私……」


 アルテは細い指で彼の手をそっと包み込んだ。

 ロベルトの顔が赤く染まるのが、暗がりでも分かった。


 接触は最小限に。

 けれど、効果は最大限に。

 人心掌握術の基本だ。


「俺は、平気です。それより、アルテ様のような方が、こんな場所にいるなんて……やっぱりおかしい」

「公爵家の決定には逆らえないわ。私は……生まれてきてはいけない存在だったの」

「そんなことない!」


 ロベルトが格子を強く掴んだ。


「あなたは誰よりも気高く、美しい。俺は……あなたを助けたい」


 かかった。

 アルテは伏し目がちに涙を一粒こぼしてみせた。


「……嬉しい。でも、ここから出るなんて不可能よ。鍵はお父様が管理しているし、見張りも多いわ」

「俺に任せてください」


 ロベルトが熱っぽく語り出す。


「今夜は新月の夜で、見回りが手薄になります。鍵の保管場所も、先輩たちが酒を飲んでいる隙に……」

「ロベルト、まさか」

「ここを出ましょう。俺が手引きします。外に出たら、俺の実家がある村へ……」


 彼の夢想には興味がなかったが、アルテは縋るように頷いた。


「あなただけが頼りよ。……私の騎士様」


 その一言が決定打だった。

 ロベルトは決意に満ちた顔で頷き、準備のために一度持ち場を離れようとした。


 ――その時だった。


「ほう? 実に感動的な茶番だ」


 闇の奥から、低く冷たい声が響いた。

 心臓が凍りつくような、聞き覚えのある声。

 ロベルトが悲鳴のような声を上げて振り返る。

 そこに立っていたのは、数名の兵士を従えたヴァレンシア公爵――アルテの父だった。


「こ、公爵様……!?」

「身の程知らずの鼠が紛れ込んでいるとは思っていたが、まさか我が家の地下牢で恋人ごっこに興じているとはな」


 父は侮蔑の眼差しでロベルトを見下ろした。

 ロベルトはガタガタと震え、床に崩れ落ちる。


「ち、違います! 俺はただ、あまりにも不憫で……」

「不憫? これ(・・)が、か?」


 父の視線が、ロベルトからアルテへと移る。

 その瞳には、娘を見る情など微塵もない。

 あるのは、出来の悪い道具を見る苛立ちだけだ。


「おい、その男を連れ出せ」

「はっ!」


 兵士たちがロベルトを取り押さえる。


「お許しください! 公爵様! お許しください!」

「地下牢の警備すら全うできん無能はいらん。……処分しろ」

「ひっ……!? いやだぁぁぁ! アルテ様、助け……!」


 ロベルトの絶叫が遠ざかっていく。

 やがて、重い扉が閉まる音と共に、静寂が戻った。

 残されたのは、アルテと父だけ。


「……浅はかな真似を」


 父は鉄格子の前まで歩み寄り、冷ややかにアルテを見下ろした。


「看守をたぶらかして脱走か? 十九年かけて仕込んだ媚びる技術を、こんなところで使うとはな」

「……生きるためです」


 アルテは睨み返した。

 もはや猫を被る必要はない。


「お前は生かされているのだ。私の慈悲によってな」


 父は懐から鍵束を取り出し、わざとらしく見せびらかすように鳴らした。


「だが、これ以上の愚行を重ねるなら考えがある。舌を切り落とすか、手足を砕くか……大人しくしていれば、餌くらいは恵んでやるものを」


 父は嘲笑を残し、踵を返した。


「無駄な抵抗はやめるんだな。お前は一生、この闇の中で朽ち果てる運命だ」


 足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなる。

 アルテはその場に座り込んだ。

 絶望が、黒い汚泥のように心に広がっていく。


(失敗した……)


 三ヶ月かけた計画が、一瞬で水泡に帰した。

 唯一の希望だったロベルトは消え、警備は厳重になるだろう。

 もう、二度と機会は巡ってこないかもしれない。


「う、ぅ……」


 悔し涙が滲む。

 父の言う通りなのか。

 私はここで、名前も尊厳も奪われたまま、ただの肉塊として死んでいくのか。

 エリーゼの代用品として使い潰され、廃棄された道具として。


(嫌だ……そんなの、絶対に嫌だ!)


 アルテは唇を噛み締め、膝を抱えた。

 疲れ果て、泥のように意識が沈んでいく。

 冷たい床で、悪夢のような浅い眠りに落ちた。




 ――どれくらいの時間が経っただろうか。


 カチリ。

 微かな金属音が、静寂を破った。


 アルテは弾かれたように顔を上げた。

 夢か?

 いや、確かに聞こえた。

 鉄格子の鍵穴が回る音だ。


「……誰?」


 警戒しながら問いかける。

 だが、返事はない。

 人の気配もしない。

 ただ、重厚な鉄格子が、わずかに隙間を開けているのが見えた。


(開いている……?)


 罠かもしれない。

 出た瞬間に兵士に囲まれるかもしれない。


 けれど、ここに留まっていても待っているのは緩やかな死だけだ。

 アルテは震える足で立ち上がり、音を立てないように鉄格子へ近づいた。

 そっと手をかけ、押す。

 ギィィ……と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉が開いた。


 誰もいない。

 見張りも、父の私兵も。

 廊下には松明の明かりが揺れているだけだ。


(誰が……? まさか、ロベルトが最後に?)


 いや、彼は連行されたはずだ。

 ならば、誰か別の協力者が?


 今は考えている時間はない。

 この不可解な奇跡に縋るしかない。


 アルテは裸足で石畳を踏みしめた。

 冷たさが足裏から脳天へ突き抜ける。


 走れ。

 振り返るな。

 心臓が早鐘を打つ。


 地下牢からの階段を駆け上がる。

 一段飛ばしで、息を切らしながら。

 十九年間暮らしたこの屋敷の構造は、頭に入っている。

 使用人用の裏口なら、警備が手薄なはずだ。


 廊下の角を曲がるたび、誰かと鉢合わせする恐怖に身がすくむ。

 しかし、屋敷は奇妙なほど静まり返っていた。

 まるで屋敷全体が、彼女の脱走を見逃しているかのように。


 裏口の扉が見えた。

 アルテは迷わずノブを回し、外へと飛び出した。


 夜風。

 三ヶ月ぶりに肌に触れる外の空気。

 土と草の匂い。

 見上げれば、吸い込まれそうな星空が広がっていた。


「はっ、はっ、はっ……」


 感傷に浸る間もなく、アルテは走り出した。

 手入れされた庭園を抜け、高い生垣の隙間を潜り抜ける。


 ドレスの裾が枝に引っかかり、破れる音がしたが構わない。

 今は一秒でも早く、この呪われた鳥籠から遠くへ。


 王都の石畳を、裸足のまま駆ける。

 目指す場所は一つ。


 かつて公爵家で働き、幼い頃の自分を唯一、人として扱ってくれた老侍女――マルタの家だ。

 マルタは数年前に引退し、王都の片隅でひっそりと暮らしているはずだ。

 彼女なら、あるいは。


 深夜の街は静まり返っていた。

 自分の足音と、激しい呼吸音だけが響く。


 体力は限界に近い。

 三ヶ月の粗末な食事と幽閉生活で、体は衰弱しきっている。

 視界が霞み、足がもつれる。

 それでも、背中に感じる公爵家の気配――不吉な双子という呪縛から逃れる一心で、足を動かし続けた。


(私は、アルテ。エリーゼじゃない。誰の代用品でもない!)


 何度も心の中で叫び、己を鼓舞する。

 やがて、貧民街に近い古びた長屋の一角に、見覚えのある小さな家が見えてきた。

 あそこだ。


 アルテは最後の力を振り絞り、扉の前へ倒れ込むように辿り着いた。

 震える手で、扉を叩く。


 ドン、ドン、ドン。


「……マルタ、マルタ……!」


 掠れた声で名を呼ぶ。

 頼む、いてくれ。

 もし彼女がいなければ、自分は行き場を失う。


 しばらくして、家の中から明かりが漏れ、おずおずと扉が開かれた。

 寝間着姿の老女が、ランプを掲げて顔を覗かせる。


「……どなたですか、こんな夜更けに」


 皺の刻まれた懐かしい顔。

 アルテは涙が溢れそうになるのを堪え、顔を上げた。


 ボロボロのドレス、泥だらけの顔。

 かつての公爵令嬢の面影はない。

 けれど、マルタは息を呑み、目を見開いた。


「ま、まさか……エリーゼお嬢様……?」


 その呼び名に、胸が痛む。

 けれど、今はまだ訂正する余裕はない。


「マルタ……助けて……」


 緊張の糸が切れ、アルテはその場に崩れ落ちた。

 温かい腕が、すぐに彼女を支える。

 懐かしい、日向のような匂い。


「なんてお姿……! さあ、中へ。早く!」


 マルタに抱えられ、家の中へと引きずり込まれる。

 扉が閉まり、鍵がかかる音を聞いた瞬間、アルテの意識は深い闇へと落ちていった。

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