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名もなきエリーゼのために  作者: 秋月アムリ


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第2話

 石畳に打ち付けられた身体が軋む。

 豪奢な瑠璃色のドレスは汚泥に塗れ、銀の刺繍は無惨に引き裂かれていた。


 カビと湿気、そして排泄物の混じった饐えた臭いが鼻腔を突き刺す。

 ここはヴァレンシア公爵家の地下牢。

 輝かしいシャンデリアの下から、光の届かぬ闇の底へ。

 わずか数十分で、世界は反転した。


「う、うぅ……」


 少女は瓦礫のように床に転がったまま、身じろぎ一つできなかった。

 痛みよりも、寒さよりも、心が壊れた衝撃が身体を縛り付けている。


 十九年間、積み上げてきた日々。

 ピアノの旋律、ダンスのステップ、語学の暗記、完璧な微笑み。

 それら全てが、ガラガラと音を立てて崩れ去った瓦礫の山となって、彼女の上にのしかかっていた。


(私のこれまでは、全部、嘘だった)


 父の厳格な瞳も、母の冷ややかな視線も。

 公爵令嬢としての誇りも、王太子妃になるという未来も。


 すべては、顔の見たことすらない本物の(エリーゼ)のための舞台装置。

 自分は舞台袖で出番を待ち、主役が到着するまでの場繋ぎを演じさせられていた道化に過ぎなかった。


 少女は闇の中で膝を抱える。

 ドレスの裾を強く握りしめるが、その布地さえもはや自分のものではないように思える。


 名前がない。

 自分を証明するものが何もない。

 十九年間「エリーゼ」と呼ばれた音は、ただの記号だった。

 自分を呼ぶ声ではなかった。


 チャリ、と音がした。

 鉄格子の向こう、わずかな隙間から粗末な木皿が差し入れられる。

 中にはカビの浮いた黒パンと、濁った水が入った欠けたカップ。


「……飯だ」


 看守を担う使用人。男の、感情のない声。

 足音が遠ざかっていく。

 完全な静寂と闇が戻る。


 少女は起き上がろうとしたが、指先に力が入らない。

 空腹のはずなのに、吐き気だけが込み上げてくる。


 これが、これからの自分の全てなのだ。

 王太子から贈られた宝石も、肌触りの良いシルクの寝具も、温かいスープもない。

 ただ生かしておくだけの、飼い殺しの日々。

 いつか秘密裏に始末されるその日まで。


(死んでしまいたい)


 ふと、そんな思いが頭をよぎる。

 舌を噛めば楽になれるだろうか。

 この冷たい石壁に頭を打ち付ければ、この悪夢から覚めることができるだろうか。


 涙さえ枯れ果て、乾いた瞳で虚空を見つめる。

 闇に目が慣れてくると、牢の中の惨状がおぼろげに見えてきた。

 壁には無数の傷跡。

 かつてここに閉じ込められた誰かが残した、絶望の爪痕だろうか。


 その時だ。

 不意に、過去の記憶が走馬灯のように脳裏を掠めた。


『お前は公爵家の娘だ。完璧であれ』

『失敗は許されない』


 父の言葉。

 あの時は、貴族としての厳しさだと思っていた。

 だが違った。


『あの部屋には近づいてはいけません』


 侍女たちの慌てた声。

 屋敷の西棟、決して開かれることのなかった扉。


 きっとあそこに、自分と同じ顔をした妹がいたのだ。

 彼女はそこで何をしていたのだろう。


 病床で、親の愛を一身に受けていたのだろうか。

 自分が血の滲むようなレッスンを受けている間、彼女は温かいベッドで絵本を読んでいたのだろうか。


(……いいえ)


 少女の心の奥底で、小さな火種が生まれた。

 それは嫉妬ではない。

 もっとどす黒く、熱い、怒りの炎だ。


(私は努力した。誰よりも)


 王宮の夜会で、他国の外交官を唸らせたのは誰だ?

 難解な歴史書を読み解き、王太子との会話を成立させたのは誰だ?

 楽器のコンクールで優勝し、ヴァレンシア公爵家の名を高めたのは誰だ?


 妹ではない。

 紛れもなく、私だ。

 名前のない、この私自身だ。


 震える手が、床の冷たさを掴む。

 それらの成果は、すべて私の魂が削り出し、磨き上げたものだ。

 それを「エリーゼのもの」として強奪し、用済みになったらゴミのように捨てる?


 私の人生を?

 私の十九年を?


(ふざけないで……!)


 奥歯を噛み締める。

 ギリリ、と音が鳴るほどに。


 悔しさが涙となって溢れ出し、頬を伝ってドレスの胸元に落ちた。

 だが、それは先ほどまでの無力な涙とは違う。

 反逆の涙だった。


 親に愛されるために生きてきた。

 でも、愛なんて最初からそこにはなかった。

 あるのは利用価値という名の秤だけ。


 ならば、もういい。

 愛されたいと願う哀れな娘は、この地下牢で死んだ。

 殺してやった。


 少女は這いつくばり、差し入れられた黒パンを掴んだ。

 硬く、酸っぱい匂いがする。

 普段の彼女なら見向きもしない代物だ。


 だが彼女は、それを獣のように食らった。

 乾いたパン屑が喉に張り付き、咳き込む。

 それでも飲み込む。

 生きるために。

 復讐するために。

 このまま野垂れ死んで、彼らの思い通りになどさせてたまるものか。


 腹の底に落ちた粗末な食事が、熱源となって身体を温め始めた。

 思考がクリアになっていく。

 まず必要なのは、自分自身だ。

「エリーゼの代用品」ではない、確固たる個としての自分。


 少女は壁際へ這い寄った。

 石の隙間に、尖った石片が落ちているのを見つける。

 それを強く握りしめる。

 手のひらに食い込み、痛みを感じる。

 その痛みが、生きている証だった。


「名前……」


 掠れた声が闇に溶ける。

 親から与えられた名前はない。

 ならば、自分で名付ければいい。

 誰のものでもない、私だけの名前を。


 どんな名前がいいだろう。

 華やかな花の名前は似合わない。

 可愛らしい愛称も必要ない。

 もっと強く、孤高で、誰にも折ることのできない名前。

 芸術、技術、あるいは——


「アルテ」


 ふと、唇をついて出た音。

 意味など後付けでいい。

 その響きが、不思議と腑に落ちた。

 短く、鋭く、研ぎ澄まされた刃のような響き。


 彼女は石片を壁に押し当てた。

 ガリッ、ガリッ。

 不快な音が地下牢に響く。

 指先が擦れ、爪が割れ、血が滲む。

 それでも彼女は止めない。

 硬い石壁に、一文字ずつ、魂を刻み込むように。


 闇の中で、指先でその凹凸をなぞる。

 血と泥に汚れた文字。

 世界でたった一つの、彼女の証。


「私は、アルテ」


 呟いた瞬間、背筋が震えた。

 憑き物が落ちたように、視界が開ける。

 そうだ、私はアルテだ。


 公爵令嬢エリーゼは死んだ。

 ここにいるのは、地獄の底から這い上がろうとする一人の女、アルテだ。


(見ていなさい、お父様、お母様)


 アルテは闇の中で、獰猛な笑みを浮かべた。

 淑女の仮面の下に隠していた、氷のように冷徹な知性が鎌首をもたげる。


(あなたたちが作り上げた『最高傑作』が、どのようにしてあなたたちを滅ぼすか。その特等席を用意してあげる)


 そのためには、ここを出なければならない。

 力ずくでの脱出は不可能だ。

 この華奢な腕では鉄格子一本曲げられない。

 ならば、武器を使うしかない。

 十九年間で培った武器を。


 足音が聞こえた。

 先ほどとは違う、軽快で落ち着きのない足音。


 食事の回収か、あるいは見回りか。

 アルテは素早く身なりを整えた。

 引き裂かれたドレスをピンで留め、乱れた髪を手櫛で撫でつける。

 泥に汚れた顔を、残った水で拭う。

 完全ではない。

 けれど、その「やつれ」さえも演出に変える。


 コツ、コツ、コツ。

 足音が鉄格子の前で止まる。

 ランタンの光が差し込み、アルテは目を細めた。

 そこに立っていたのは、まだ年若い、新入りの兵士のようだった。

 あどけなさが残る顔立ちに、戸惑いの色が浮かんでいる。

 彼は、牢の中の惨状に顔をしかめ、そしてアルテの姿を見て息を呑んだ。


「ひ、ひどい……」


 兵士が小さく呟く。

 予想通りだ。

 彼はまだ、貴族の闇に染まりきっていない。

「公爵令嬢」という存在に憧れと幻想を抱いている若者。

 絶好の獲物だ。


 アルテはゆっくりと顔を上げた。

 計算され尽くした角度。

 ランタンの光が、濡れた瞳に反射して揺らめくように。

 恐怖に震えながらも、気品を失わない儚げな少女。

 男の庇護欲を最も刺激する姿を、彼女は瞬時に作り上げた。


「……あ」


 兵士と目が合う。

 アルテはビクリと肩を震わせ、怯えたように後ずさる。

 だが、すぐに安堵したような、縋るような眼差しを彼に向けた。


「お水……ありがとうございます」


 鈴が転がるような声。

 喉が枯れているせいで、少しハスキーに響くのが、かえって哀愁を誘う。

 兵士が動揺して目を泳がせる。


「あ、いや、その、俺は……見回りで……」

「初めて拝見する方ですね。……とても、お優しそうな目」


 アルテは鉄格子に細い指を絡ませた。

 白く、華奢な指先。

 泥汚れが、その白さを際立たせている。


「私、怖くて……暗くて、寒くて……」


 涙が一粒、完璧なタイミングで頬を伝う。


「お願いです。少しだけ……少しだけでいいので、お話を聞いていただけませんか?」


 兵士がゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。

 彼の瞳に、同情と、微かな恋慕の熱が灯るのを、アルテは見逃さなかった。


 十九年間、国中の高位貴族や古狸のような外交官を手玉に取ってきたのだ。

 世間知らずの若者一人を籠絡することなど、赤子の手をひねるより容易い。


(かかった)


 内心で冷ややかに舌を出す。

 けれど表面上は、か弱く、美しい悲劇のヒロインのまま。

 アルテは濡れた瞳で、若き兵士を見つめ返した。


 反撃の狼煙は上がった。

 この地下牢が、公爵家崩壊のはじまりの地となるのだ。


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