第1話
あけましておめでとうございます
王都の空は、吸い込まれるほどに高くて青い。
ヴァレンシア公爵家の自室、磨き上げられた姿見の前で、エリーゼは真珠の耳飾りをつけた。
冷やりとした感触が耳たぶに残る。
鏡の中の自分と目が合う。
銀の刺繍が施された瑠璃色のドレスは、王太子アレクシスから贈られたものだ。
今日という日を祝うために。
「エリーゼ様、お支度は整いましたか」
控えめなノックと共に、老齢の家令が声をかけてくる。
「ええ、今行くわ」
エリーゼはドレスの裾を翻し、慣れ親しんだ微笑みを浮かべて部屋を出た。
廊下を歩く足音さえ、計算されたリズムを刻む。
背筋を伸ばし、顎を少しだけ引く。
公爵令嬢として、そして未来の王太子妃として、一分の隙もない完璧な姿。
それが十九年間、彼女が積み上げてきたすべてだった。
今日はエリーゼの十九歳の誕生日だ。
そして、王太子との婚約が正式に発表される予定の、記念すべき日でもある。
(やっと、認められる)
胸の奥で、小さな安堵の息が漏れた。
厳格な父、冷淡な母。
どれほど努力しても、どれほど成果を上げても、二人がエリーゼを褒めることはなかった。
「公爵家の娘なら当然だ」
その一言で片付けられ、さらなる高みを要求され続けてきた。
幼い指がピアノの鍵盤で擦り切れるまで練習した夜も、ダンスのステップで爪先から血が滲んだ日も、二人は眉一つ動かさなかった。
けれど、王太子妃への道が確定した今夜こそは違うはずだ。
両親もきっと、娘の努力を労ってくれるに違いない。
愛してくれるに違いない。
そう信じて、エリーゼは執務室の重厚な扉の前に立った。
「入りなさい」
父の低い声が響く。
エリーゼは深呼吸をし、扉を開けた。
部屋の中には重苦しい空気が澱んでいる。
父であるヴァレンシア公爵は革張りの椅子に深く腰掛け、窓際には母が背を向けて立っていた。
祝いの席のような華やかさは微塵もない。
テーブルの上に、誕生日を祝う料理も、華やかな装飾もない。
あるのは、冷え切った沈黙だけだった。
「お父様、お母様。お招きいただきありがとうございます」
エリーゼは優雅にカーテシーをした。
ドレスの擦れる衣擦れの音だけが、静寂を裂く。
「……座りなさい」
父が顎でソファをしゃくった。
エリーゼは戸惑いを覚えながらも、言われた通りに対面のソファへ浅く腰掛ける。
向かい合った父の瞳には、娘を見る温かさなど欠片もなかった。
まるで、古びた家具の傷を確認するような、値踏みするような視線。
「エリーゼ」
「はい」
「お前はよくやった。今日まで、実に完璧に演じきった」
初めて聞く労いの言葉だったはずだ。
しかし、その声色には温度がない。
背筋に冷たいものが走る。
(演じきった……?)
奇妙な違和感が、胸のざわめきとなって広がる。
「恐れ入ります。ヴァレンシア公爵家の名に恥じぬよう、精進してまいりました」
「ああ、そうだ。お前のその外面の良さ、立ち居振る舞い、浅はかな男を魅了する手管。どれも見事だった」
父は手元のワイングラスを揺らした。
赤い液体が、血のように揺らめく。
「だが、それも今日で終わりだ」
父はグラスを置き、エリーゼを真っ直ぐに見据えた。
その瞳の冷酷さに、エリーゼは息を呑む。
次の瞬間、父の口から信じられない言葉が紡がれた。
「お前は今日限りで、エリーゼではない」
思考が停止した。
言葉の意味を理解しようとして、脳が空回りする。
「……お戯れを。私がエリーゼでないのなら、誰だと言うのですか」
乾いた笑みを浮かべて問い返す。
悪い冗談だ。
あるいは、これもまた新しい試練なのだろうか。
王太子妃となる覚悟を問われているのか。
しかし、父は表情一つ変えない。
窓際に立っていた母が、ゆっくりと振り返った。
その顔には、隠しきれない嫌悪と、奇妙な高揚感が張り付いている。
「お前は代用品よ」
母の声が、毒を含んだ針のように突き刺さる。
「だ、い……?」
「十九年前、私が産んだのは双子だったのよ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
双子。
この国において、不吉の象徴とされる忌むべき存在。
貴族社会では、双子が生まれた場合、先に生まれた方を密かに処分するのが暗黙の了解となっている。
「母の腹に長く居た方が二人分の能力を受け継いでいる」という迷信が信じられているからだ。
「先に生まれたお前は、本来なら処理されるはずだった」
父が淡々と事実を並べる。
「だが、後から生まれた本物のエリーゼは、あまりにも虚弱だった。いつ死ぬとも知れぬほどにな」
「だから、生かしておいたのよ」
母が扇子で口元を隠し、冷ややかに笑う。
「本物が回復するまでの、つなぎとしてね」
(つなぎ……?)
エリーゼの手が震えだす。
「で、でも、私は……ずっとエリーゼとして……」
「そう教え込んだからな。自分が代理だと知れば、学びに身が入らぬかもしれん。お前が自分を本物だと信じ込み、必死に努力するように仕向けたのだ」
父は引き出しから一枚の書類を取り出し、テーブルに放り投げた。
それは、医師による診断書だった。
『エリーゼ・ヴァレンシア嬢、完治』の文字。
「奇跡的に、エリーゼの体調が安定した。もうベッドから起き上がり、生活することに支障はないそうだ」
父の声は、事務的に娘の死刑宣告を読み上げる裁判官のようだった。
「本物が社交界に出られるようになった以上、偽物は不要だ。同じ顔の人間が二人もいては、外聞も悪い」
「そんな、嘘、ですよね……?」
「お前はもはや、存在してはならない者なのだよ」
十九年間。
エリーゼの脳裏に、これまでの日々が走馬灯のように駆け巡る。
三歳から始まった過酷な礼儀作法の訓練。
歴史書の年号を暗記するまで眠れなかった夜。
王太子アレクシスに相応しい女性となるため、自身の感情を殺し、人形のように微笑み続けた日々。
あの日々は、すべて。
「私の……人生は……」
声が震える。
喉の奥が熱く、視界が歪む。
「私の努力は、すべて、その『本物のエリーゼ』のためだったと言うのですか」
「そうだ。感謝しなさい。お前のような不吉な双子の片割れが、十九年も貴族として良い暮らしができたのだから」
母が、汚らわしいものを見る目でエリーゼを見下ろす。
「お前が身につけた教養も、名声も、そして王太子との婚約も。すべては本物のエリーゼに引き継がれる。最初から、そう誂えてあったのだ」
ガラガラと、足元から世界が崩れ落ちていく音が聞こえた。
自分だと思っていたものが、すべて借り物だったという絶望。
エリーゼは、テーブルの端を掴んで身を乗り出した。
「納得できません! 私は……私はここで生きてきたのです! アレクシス様だって、今の私を見て選んでくださったはずです!」
「王太子が選んだのは『ヴァレンシア公爵家の令嬢』だ」
父が冷たく切り捨てる。
「中身が入れ替わろうと、殿下には分かりはしない。顔は同じなのだから」
「そんな……」
「それに、仮に気付いたとて、あの殿下は気にもしないだろうな」
「……っ!」
父が指を鳴らした。
執務室の扉が荒々しく開かれ、武装した私兵たちが雪崩れ込んでくる。
彼らは躊躇なく、エリーゼの細い腕を掴み上げた。
「痛っ……! お父様、やめてください! 痛い!」
「連れて行け」
父は眉間にしわを寄せ、蝿でも追い払うように手を振った。
「地下牢へ。誰にも見られぬようにな」
「地下牢……!? 嫌! お父様、お母様!」
兵士の太い指が、二の腕に食い込む。
引きずられるようにして、エリーゼは出口へと連行される。
床に瑠璃色のドレスが擦れ、悲鳴のような音を立てた。
「私はエリーゼです! あなたたちの娘です!」
必死の叫びも、冷酷な両親の心には届かない。
「いいえ、お前に名前はないわ」
母の声が追い打ちをかける。
「生かしておくだけでも慈悲深いと思いなさい」
「名前が……ない……」
抵抗する力が抜けた。
名前がない。
十九年間、大切に守ってきた「エリーゼ」という名は、自分のものではなかった。
では、自分は何なのか。
この十九年間、泣いて、苦しんで積み上げた時間は、誰のものだったのか。
私は、誰?
兵士に引きずられながら、最後に振り返った視線の先。
父はすでに新しい書類に目を落とし、母は満足げにワインを口に運んでいた。
娘が一人、地獄へ落ちようとしているのに、彼らの日常は何一つ揺らいでいない。
彼らにとって自分は、古くなった家具や、使い終わったペンと同じ。
ただの「道具」だったのだ。
絶望が、どす黒い憎悪へと変わっていく。
愛されたかった。
認められたかった。
その一心で生きてきたのに。
重い扉が閉まる直前、母の独り言が、鋭い氷の礫となってエリーゼの耳に届いた。
「ああ、せいせいしたわ。これでやっと、不吉な双子を処理できる」
扉が閉ざされる。
光が遮断され、エリーゼの世界は闇に閉ざされた。
公爵家の華やかな廊下から、カビ臭い地下への階段へ。
一段降りるたびに、王太子妃としての未来も、誇り高い貴族としての尊厳も、剥がれ落ちていく。
名もなき少女は、ただ無力に、闇の底へと引きずり込まれていった。
10話完結の中編な予定です。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。




