『MORU ―決壊の夜に―』
第1章:決壊の予兆
蒼鷹総合病院の空は、朝から重く沈んでいた。
梅雨の末期とは思えない豪雨。空は灰色のまま一切明ける気配がなく、遠くでは雷鳴が低くうなっていた。
MORU――Mobile Operation & Rescue Unit。
事故・災害現場に駆けつけ、現場で手術を可能とする移動型の特殊救命チーム。
その待機室のモニターには、激しく赤く染まった警戒レベルの地図が広がっていた。
「気象庁が、神奈川南部に警戒レベル5を発表しました。ダム上流域の土砂崩れで水位上昇。ダム決壊の恐れがあります」
南雲明日香が、静かにモニターから目を離し、チームのメンバーたちを見渡す。
その眼差しには、焦りよりも確かな覚悟が宿っていた。
神崎拓真は、白衣の前をはだけたまま立ち上がり、遠くで鳴り続けるサイレンの音に耳を澄ませた。
雨音の中に、ただの気象災害では終わらない予感があった。
「……行くぞ。出動だ」
「待ってください」
レイラ・サイードが手を挙げる。「まだ正式要請は出ていません。厚労省も、動いていない」
「だからこそだ。行政は“安全確認”が済んでから動く。でも、現場の命はそんなに待ってくれない」
神崎は即座に指揮台へ向かい、嶋崎真チーフに報告する。
「チーフ、現場の状況から判断して、即時出動します。独自裁量での運用で問題ありませんか?」
嶋崎は一拍の沈黙の後、頷いた。
「……行け。好きにやれ。お前たちが一番早い。それが蒼鷹の強みだ」
すぐにMORU専用大型車両の発進準備が始まった。
オペ室、ICU機能、緊急投薬機材、衛星通信……車体そのものが“病院”として機能するこの車両が、今まさに真価を問われようとしていた。
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雨はさらに強くなる。
その中、出動命令を受けたMORUチームは、病院を出発した。
運転席の柊悠馬が低く声を漏らす。
「……あちこち、すでに冠水してる。ルートAは通行不能。Bルートもギリギリかも」
「最短じゃなくていい。患者のところに、たどり着ければいい」
神崎が言う。
「それがMORUだ」
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情報が錯綜する中、唯一確かなのは「下流の医療機関が複数機能不全に陥っている」という事実だった。
特に、川沿いの市立病院では、人工呼吸器を必要とする重症患者十数名が水没した病棟に取り残されているという。
「現地消防は流されました。自衛隊もまだ到着できていません」
南雲が報告する。
「私たちが、最初で最後になる可能性があります」
沈黙がチームを包む。
「そのつもりで行くぞ。誰も死なせない。
いつも通り、“犠牲ゼロ”だ」
神崎の言葉に、誰一人異を唱える者はいなかった。
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道路は冠水し、乗用車がひっくり返り、信号は沈黙していた。
濁流が市街地に押し寄せ始めている。
そのとき、車内モニターが緊急映像を捉えた。
――中学校の校庭に設置された避難所が、浸水。
屋上へ避難していた50人以上の住民が孤立している。
しかもその中に、複数の“透析中の患者”が含まれているとの情報が入った。
「透析装置が使えないまま12時間経過。血中カリウム濃度、すでに危険域のはずです」
「搬送も不可能……車で近づけるルート、ありません」
柊が悔しそうに地図を睨む。
「やるしかない」
神崎は即答した。
「MORU車両は通れなくても、俺たちは行ける。
必要なのは“病院”じゃない、“医者”だ」
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雨と雷の中、MORUのチームは徒歩で避難所へ向かった。
背中にはポータブルの除細動器、簡易透析セット、麻酔薬。
それらすべてを背負い、濁流の中を進む4人。
避難所の屋上に着いた瞬間、酸素ボンベを外したまま意識を失いかけた女性に南雲が駆け寄る。
「カリウム中毒!心停止まで時間がない!」
その場で処置を始める。
透析装置の代替として、簡易的な腹膜透析が行われる。
それは、通常なら病院の清潔な手術室でしか行われない処置だった。
だが、今ここでやらなければ、彼女は確実に死ぬ。
神崎が冷静に腹部にカテーテルを挿入し、南雲が調整を行い、柊がバイタル管理。
雷が響く中で、彼らは“生”をつなぐ医療を成し遂げた。
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やがて処置を終えた患者が、かすかに微笑む。
「……ありがとう。私……生きてるのね」
「ええ。あなたは、まだ生きてます」
レイラが優しく頷く。
その瞬間、遠くで――「ダム決壊」の無線が入った。
この夜、都市の地図は塗り替えられる。
そして、MORUの“本当の戦い”が始まるのだった。
第2章:濁流の街で
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深夜0時。
「ダム決壊」の報が無線から流れた瞬間、MORUチームの全員が固まった。
「流れたのは南壁……こっちの下流域直撃コースだ」
柊が地図を指差し、川筋をたどる。そこには、まだ避難が完了していない住宅地が点在していた。
「マズい……老人ホームがある」
南雲がつぶやいた。
「孤立している可能性が高い。
道路がすべて冠水すれば、車では絶対に近づけない」
「空も無理だ。雨でヘリは出せない」
レイラが通信端末を握りしめる。
神崎はすぐに判断した。
「車両はここに置いて、ボートを使う。
必要な処置キットは最小限にして、全員で突入する。いいな?」
「了解」
誰一人、躊躇わなかった。
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水位はすでに腰の高さに達していた。
ゴムボートを押して住宅街を進むたび、看板や電柱が倒れ、電線が垂れ下がっている。
「感電注意!」
南雲が叫び、チームが身をかがめる。
前方には、屋根の上に避難した家族の姿。
その足元には、意識を失った女性が横たわっていた。
「搬送は無理だ。ここでやるしかない」
神崎は女性のバイタルを確認。
「肺炎の急性増悪。血中酸素濃度、かなり落ちてる」
「携帯酸素で補助できるか?」
柊が背負っていた酸素タンクを手渡す。
「無理だ。気管挿管が必要」
「……この場で?」
レイラが思わず言葉を詰まらせる。
「ここがオペ室だ。やるぞ」
神崎はポータブルの処置台を屋根の上に設置。
南雲が器具を手渡し、柊が首元を支える。
「吸引機作動。酸素流入……」
「挿管完了。換気、入った!」
屋根の上に静寂が戻る。
女性の胸が、ゆっくりと上下し始めた。
「よし、生きてる」
安堵する間もなく、遠くで爆発音が鳴り響いた。
瞬間、地面――いや、水面が揺れる。
「ガス管が破裂した!このエリア、もう安全じゃない!」
チームはボートに女性を寝かせ、別方向の高台を目指す。
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その途中、さらに信じがたい光景が広がっていた。
大型バスが横転し、半分水没している。
その屋根に、数人の高校生が取り残されていた。
「車内に人がいる!誰か助けて!」
絶叫とともに、一人の少女がバスの窓を叩いていた。
神崎は即座に飛び込んだ。
車内には、倒れた運転手。そして助手席に、意識を失った男子生徒。
血で濡れた制服。瞳孔反応が鈍い。
「脳出血の可能性がある。急がないと……」
南雲とレイラが車内へ突入。
濁った水が腰まで満ちる中、柊が処置器具を片手に懐中電灯で照らす。
「瞳孔左右差あり。頭部圧迫、進んでる」
南雲が判断する。
「開頭処置……現場でやるのは危険すぎる」
柊が首を振るが、神崎はすでに手袋をはめていた。
「やる。生きて帰らせる。それが俺たちの役目だ」
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車内にポータブル吸引機と止血キットが並ぶ。
薄暗い車内での開頭手術――そんなことが可能だと誰が思っただろう。
だがMORUは、それをやってのけた。
「硬膜開放……出血、止まった!」
「脳圧、少し下がってきてる!」
「心拍、安定してきた!」
静かに、少年の呼吸が戻る。
少女は涙を流して神崎の手を握った。
「ありがとうございました……ほんとに、ほんとに……」
神崎はその手を優しく離した。
「感謝は、君がこの子とこれからも生きてくれること。
それで十分だよ」
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夜明けが、ようやく近づいていた。
だが、その先には“最後の地獄”が待っていることを、神崎たちはまだ知らなかった。
第3章:命の選択
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早朝の薄明かりが濁流の街をぼんやりと照らし出す。
浸水域は広がり、被害は拡大の一途をたどっていた。
孤立した地域に医療物資は届かず、MORUチームの背負う負担は増すばかりだ。
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「補給が足りない…薬剤も輸血パックも限界だ」
柊悠馬はコンテナの中に散らばった機材を点検しながら呟く。
「今の状況で、どこまで治療を継続できるか…」
南雲明日香も唇を噛んだ。
「誰かを犠牲にするなんて絶対にできない」
神崎拓真は険しい表情のまま、メンバーを見渡した。
「でも、このままだと…」
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その時、無線から緊急通報が入る。
「山間部の孤立集落に重傷患者多数。道路寸断で救助不能。至急支援要請!」
「そこは…この間の洪水よりもさらに危険な場所だ」
レイラが言う。
「移動は困難だが、行くしかない」
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現場到着後、集落は土砂崩れと洪水で半壊状態だった。
負傷者は10名以上、うち2名が意識不明で呼吸が不安定だ。
「手持ちの資源では到底足りない」
柊が深刻そうに言う。
「こうなったら判断が必要だ」
神崎は静かに言った。
「最悪の状況でも、犠牲者ゼロを目指す。でも現実は厳しい」
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治療を開始すると、患者のひとりが突然出血多量で危険な状態に。
「ここで緊急手術をするか、搬送の希望を聞くか…」
患者の意識は薄いが、「自宅で家族と最後を迎えたい」との言葉。
「患者の意思も尊重する」
南雲は慎重に話す。
「だが、このままでは命が危険だ」
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チームの中で意見が分かれた。
「搬送すべきだ」と主張する柊。
「患者の尊厳を守るべき」と言うレイラ。
神崎は静かに決断を下した。
「現状で出来る最大限の治療をしつつ、患者の意思を尊重しよう」
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それは医療者としての矛盾と葛藤の狭間だった。
「命を救うこと」と「患者の尊厳」を両立させる難しさに、チームは心を痛める。
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しかし、彼らは最後まで希望を捨てなかった。
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夜が明けると、集落から搬送された負傷者のうち一人が奇跡的に回復の兆しを見せた。
神崎はチームに声をかける。
「俺たちはあきらめない。ここがどんなに厳しい場所でも、命を救うために闘い続ける」
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その言葉にメンバーはうなずいた。
だが、まだ“最後の試練”が待っていることを知らずに。
第4章:それぞれの覚悟
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災害発生から数日が経過し、MORUチームの疲労はピークに達していた。
連日続く過酷な救助活動の中、メンバー一人ひとりの内面にも変化が生まれていた。
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神崎拓真は夜の車両内で、黙々と装備の点検を続けていた。
“犠牲者ゼロ”のモットーを胸に、今日も必死に戦い続けている。
そんな彼に近づいたのは、南雲明日香だった。
「神崎さん……疲れてますよね?」
「…俺は大丈夫だ」
だが、その声はどこか硬かった。
「皆、心配してます。あなたが倒れたら、誰がチームを引っ張るんですか」
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一方、柊悠馬は車外でレイラ・サイードと話していた。
「俺は…正直、不安だ。こんな状況で全員を守れるのか」
柊は拳を握りしめる。
「私も怖い。でも逃げられない。患者たちが待っているから」
レイラが静かに答える。
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その夜、嶋崎真チーフからの通信が入る。
「神崎、チーム全員の体調管理を徹底しろ。
過労は最大の敵だ。無理はするな」
神崎は通信を切り、チームに向き直る。
「これからは、体調管理も命を守るための戦いだ。
無理は禁物だぞ」
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翌日、現場で重症患者の搬送が行われる中、突然の土砂崩れが発生。
レイラが巻き込まれ、動けなくなった。
「レイラ!」
南雲が駆け寄る。
神崎はすぐに救出に向かったが、作業は難航。
救助ヘリの到着も遅れる。
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レイラの生命は、チームの士気を試す試練となった。
「絶対に守る」と神崎は心に誓った。
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その夜、全員が集まる。
「辛いけど、俺たちが諦めたら、誰が患者を助ける?」
神崎は全員に語りかける。
「俺たちは最後までやり抜く。犠牲者ゼロ。
それがMORUの覚悟だ」
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メンバーはお互いを見つめ合い、固い決意でうなずいた。
第5章:最後の橋
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豪雨は止むことなく、濁流は勢いを増すばかりだった。
神崎拓真たちMORUチームは、山間部の孤立した集落へと急いでいた。
そこには重症患者が数名おり、彼らの命はもう時間との戦いだった。
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唯一の交通手段は、崩壊寸前の古い吊り橋だけ。
ボートも使えず、車両の接近も不可能だ。
「この橋、もうすぐ落ちる。俺たちが渡るのは命がけだ」
柊悠馬が声を震わせる。
「やるしかない」
神崎は決意を固めていた。
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一人ずつ慎重に吊り橋を渡り始める。
雨で滑りやすく、下は激流。
「足元注意!」
南雲明日香が声をかける。
突然、橋が軋み、大きな揺れが走った。
「危ない!」
神崎がメンバーを引っ張り安全な場所へ。
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集落に到着すると、そこはまるで戦場のようだった。
家屋は倒壊し、負傷者は無力感に打ちひしがれている。
「手分けして治療開始だ!」
神崎が号令をかける。
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重傷の老婦人が意識不明で倒れていた。
南雲が緊急気管挿管を行い、柊が輸液ラインを確保。
レイラは止血処置と創傷ケアを担当した。
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だが、その最中に大規模な土砂崩れが再び発生。
揺れる地面と崩れ落ちる岩石の音。
「全員、退避!」
神崎が叫ぶ。
チームは患者を背負い、全力で橋まで戻る。
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吊り橋はすでに半分崩壊しており、最後の渡りが最大の試練だった。
「ここで命を落とすわけにはいかない」
神崎は自身の体を使い、橋の揺れを抑えながらメンバーを誘導した。
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全員が無事に渡り終えると、MORU車両が待つ地点へ戻った。
神崎は深く息をつき、静かに言った。
「命は繋がった。これがMORUの使命だ」
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この経験がチームの絆をさらに強くした。
彼らは誰一人として諦めず、犠牲者ゼロのために最後まで闘う覚悟を胸に刻んだ。
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終章:そして未来へ
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災害は収束に向かい、被災地は復旧の途上にあった。
MORUチームは疲労困憊ながらも、次の出動に備え病院へ戻った。
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神崎はチーム全員と向き合い、言葉をかけた。
「俺たちが守った命は、これからも続いていく。
犠牲は絶対に出さない。それが俺たちの誓いだ」
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病院の屋上に立つ神崎の背中を、静かに見つめるメンバーたち。
彼らの心には、未来への希望と揺るぎない決意が宿っていた。