第6章 知識への扉
1895年、春の暖かな陽射しがリバータウンの街角を照らす中、エイデンは十九歳になっていた。ハートフォード商会に入社してから一年が経ち、彼は既に同社の中堅社員として重要な取引を任されるまでになっていた。
「エイデン、君に新しいプロジェクトを任せたい」
ハートフォード専務が執務室に呼び出した。机の上には、これまで見たことのない種類の資料が広げられている。
「今度は芸術品と工芸品の取引だ。大学都市ニューアカデミアの職人街や芸術家たちとの新規取引開拓だ」
エイデンは資料に目を通した。絵画、彫刻、精密な工芸品、学術書籍。これまで扱ってきた農産物や工業製品とは全く異なる分野だった。
「ただし、これは単なる商売ではない」ハートフォードは続けた。「芸術家や職人、そして学者たちは独特の価値観を持っている。利益だけを追求する商人は相手にしてくれない。君の人柄なら、彼らとの関係を築けるかもしれない」
「ありがとうございます。挑戦させていただきます」
エイデンは躊躇なく引き受けた。新しい世界への好奇心と、さらなる成長への意欲が彼を突き動かしていた。
ニューアカデミアは、リバータウンから汽車で半日の距離にある学術都市だった。アルセニア最古の大学を中心に発展した街で、知識人や芸術家が多く住んでいることで知られていた。
駅に降り立つと、街の雰囲気はリバータウンとも炭鉱町とも全く違っていた。古い石造りの建物が並び、街角には彫刻が置かれ、書店や画廊が軒を連ねている。歩いている人々も、商業都市のビジネスマンとは異なる、学者や芸術家らしい知的な雰囲気を漂わせていた。
最初に訪れたのは、職人街の一角にある工芸品工房だった。主人はマスター・クラフツマンの称号を持つアーサー・ブラックウッド、六十代の熟練職人だった。
「商社の人間か…また金儲けの話か」
ブラックウッドは最初から警戒心を露わにした。
「いえ、まずは皆さんの作品を拝見させていただき、その価値を理解したいと思っています」
エイデンは商談を急がず、まず工房を見学させてもらった。職人たちが丹精込めて作り上げる工芸品の美しさと、その背景にある技術の深さに素直に感動した。
「素晴らしい技術ですね。これだけの作品を作るには、何年の修行が必要なのでしょうか?」
「この道五十年だが、まだ学ぶことがある」ブラックウッドの表情が少し和らいだ。「最近の商人は、値段と納期しか聞かない。作品の価値を理解しようとする者は珍しい」
エイデンは職人たちの話に熱心に耳を傾けた。彼らの技術への誇り、作品に込める思い、そして経済的な困難。炭鉱労働者たちと共通する部分があることに気づいた。
「実は、私も以前は炭鉱で働いていました。物を作り出す仕事の厳しさと誇りは、少し理解できるつもりです」
「炭鉱労働者だったのか?」ブラックウッドは驚いた。「それでよく商社に」
「人生には様々な道があります。でも、どの道でも大切なのは、その仕事に対する誠実さだと学びました」
数日間にわたって職人街を回り、エイデンは多くの工房を訪問した。最初は警戒していた職人たちも、徐々に彼の誠実さを理解し、心を開いてくれるようになった。
一週間後、転機が訪れた。大学の近くにある小さな書店で、エイデンは一人の学者と出会った。
「君は商社の方ですね?職人街でよく見かけますが」
声をかけてきたのは、四十代半ばの知的な紳士だった。プロフェッサー・マーカス・アダムス、大学で政治学と歴史学を教えている教授だった。
「はい、エイデン・フリーマンと申します」
「私はアダムス。君の評判は職人たちから聞いています。なかなか興味深い経歴の持ち主だそうですね」
二人は書店の片隅で長時間語り合った。エイデンは自分の経験を率直に話し、アダムス教授は学問的な視点から様々な示唆を与えてくれた。
「君の経験は貴重です。労働者階級から商業界まで、実際に体験している人は少ない。理論だけでは理解できない現実がある」
「教授、私にはまだ学ぶべきことがたくさんあります。特に、社会全体の仕組みについて」
「良い心がけです。もしよろしければ、私の講義を聴講してみませんか?君のような実践経験のある人が学問に触れれば、きっと新しい視点が生まれるでしょう」
エイデンは喜んで申し出を受けた。商会での仕事の合間に、大学の講義を聴講するようになった。政治学、経済学、社会学。これまで経験でしか知らなかった社会の仕組みを、理論的に理解できるようになった。
「エイデン君、君の質問はいつも鋭い」アダムス教授が講義後に声をかけた。「理論と実践が結びついている証拠です」
「教授のおかげで、自分の経験を整理できるようになりました。炭鉱や商会で感じていた疑問が、学問的に説明できるようになって」
「君には特別な使命があるように感じます。様々な階層を経験し、それを理論で補強している。この知識をどう活かすかが重要です」
数ヶ月の学習を通じて、エイデンの視野は大きく広がった。自分の経験してきた差別や不平等が、単なる個人的な問題ではなく、社会構造の問題であることが理解できた。
ある夜、エイデンはアダムス教授と深い議論を交わした。
「教授、私は商業界で成功しましたが、それで満足すべきなのでしょうか?」
「君の問いかけは重要です。個人的な成功と社会的責任をどう両立させるか。これは多くの成功者が直面する課題です」
「私には、まだやるべきことがあるような気がします。同じような境遇の人々のために」
「それは素晴らしい考えです。しかし、どのような方法で社会に貢献するかを慎重に考える必要があります」
アダムス教授は書棚から一冊の本を取り出した。
「これは社会改革についての古典的名著です。真の変革は、権力を握ることではなく、人々の意識を変えることから始まると説いています」
エイデンはその本を一気に読み上げた。そして、自分の進むべき道が見えてきた。
商会での仕事も順調だった。職人街との取引は大成功を収め、新しい市場を開拓することができた。ハートフォード専務も大変満足していた。
「エイデン、君のおかげで我が社の業績は飛躍的に向上した。昇進の準備をしている」
しかし、エイデンの心は既に次の段階に向いていた。
十九歳の誕生日の夜、エイデンは重要な決断を下した。彼は炭鉱時代のジェイコブに手紙を書いた。
「親愛なるジェイク師へ
商業界で多くのことを学びましたが、私にはまだやるべきことがあります。アダムス教授という新しい師にも出会い、社会の仕組みを理論的に理解できるようになりました。今、私は社会活動家として、より直接的に人々のために働きたいと考えています。」
翌日、エイデンはハートフォード専務に辞意を伝えた。
「君が辞めるのは惜しいが、君の志は理解できる。いつでも戻ってきなさい。そして、我が社は君の活動を支援する」
専務の温かい言葉に、エイデンは深く感謝した。
アダムス教授からも励ましの言葉をもらった。
「君は今、人生の重要な転換点にいます。これまでの経験を活かし、より大きな舞台で活躍する時が来ました」
「教授、ご指導ありがとうございました。学んだことを必ず社会のために活かします」
「私も君から多くを学びました。理論と実践の架け橋となる人材こそ、真の社会改革者になれるのです」
エイデンは新たな決意を胸に、社会活動家としての道を歩み始めることにした。炭鉱での労働経験、商業界での成功、そして大学での学問。すべてが彼の次なる挑戦への準備だったのだ。
十九歳の青年は、より大きな社会変革への第一歩を踏み出そうとしていた。彼の旅は、新しい段階に入ろうとしていた。